2011年07月26日

周瑜って弱点あんの?

1 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/05(日) 21:32:11
寿命以外で


7 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/06(月) 02:42:26
公的ステータス編
【家柄】 超名門(首相・大臣クラスを複数輩出)
【財産】 唸るほどある(縁も縁もない孫家を豪邸で養い、軍を起こせば多数の軍事物資を携えて合流)
【地位】 若くして出世街道驀進(20歳そこそこで一勢力の中心人物に)
【評判】 全国に名高い(英傑として中原においても尊敬を集めた)
【業績】 その道で多大な功績を残す(孫権曰く、呉国創業の勲功第一)

私的ステータス編
【容姿】 イケメン
【人望】 とても厚い
【教養】 音楽にも精通
【恋愛】 嫁さんは美人

時代を代表する成功者にして、酒の席ですら美談を残す失敗知らず。


健康運を除くと、子供が大成しなかったことぐらい?
16 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/18(土) 23:45:38
それは周瑜が若輩者なのに最古参の程普よりも上位の職に就いた事に対する程普の一方的な嫉妬だろ
周瑜はきちんと年長者に対する丁寧かつ低姿勢な態度で程普の一方的な誤解を解いたから
周瑜は非の打ちどころのない人間性を持っていると思うが
17 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/19(日) 00:48:11
内政にはあんまり力いれてなかっただろ?
あえていうなら戦バカだな
29 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/22(水) 23:02:10
>>17
孫策時代の初期は後方勤務で軍を支え、
孫策死亡時は張昭と共に諸事を取り仕切ったとされる。
20 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/19(日) 09:04:06
ジジイが現れた
ジジイの要らん攻撃
ミス ダメージを受けない
ヒグマの攻撃
ジジイ死にてぇのか
ヒグマは吠えた
ジジイの頭がもげた
ジジイの頭は5メートル飛んだ。
ヒグマはジジイを食っているW
0ポイントの経験値を手に入れた

攻撃する暇あれば逃げろジジイ
三途の川に渡りたいのはわかるがwwwwwwwwwwwwwwwwww
22 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/19(日) 12:26:35
身体が軟弱で病気にかかってすぐに死ぬってのも
武将としては弱点なんじゃね?
24 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/20(月) 21:24:36
>>22
武将じゃなくて士大夫だから
26 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/21(火) 12:45:57
オナニー死のニュース見て
反三国志の性交しすぎで死んだ周瑜を思い出した
30 :無名武将@お腹せっぷく2010/09/23(木) 22:26:05
リア充死ね
33 :無名武将@お腹せっぷく2010/10/23(土) 20:49:41
>>30
童貞乙
35 :無名武将@お腹せっぷく2010/10/30(土) 20:28:22
周瑜って小喬以外の女性とセックスしてたと思う?
38 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/03(水) 14:15:39
>>35
策は大喬以外の女性とセックスしてたのはガチ
36 :無名武将@お腹せっぷく2010/10/30(土) 20:40:23
孫策死後は大喬と小喬で姉妹丼を楽しんでます
37 :無名武将@お腹せっぷく2010/10/30(土) 23:13:08
>>36
孫権がな。
39 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/03(水) 15:40:23
二十代半ばで死んだのに子供4、5人いたよな>孫策
一方、大喬との夫婦生活は1年ぐらい
45 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/04(木) 23:17:57
>>39
陸抗は大喬の血を引いてるの?
55 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/16(火) 02:48:09
>>39
孫策は24歳頃まで童貞だったんじゃないのか。
42 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/03(水) 20:29:07
>40
その割には周瑜って子供少ないよね。
三人だっけ。
あの当時なんで何人か早くに死んだのかな。
43 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/03(水) 23:25:20
三人とも小喬との子供だったっけ
44 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/04(木) 01:11:31
>>43
へえー。
周瑜は一途だったんだ。
他に奥さんがいないとも限らないし
あの時代の価値観とは別なのかもしれないけど
ますますイケメンじゃないか!
46 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/04(木) 23:42:23
どうなんだろう 陸遜嫁のことなんか記録残ってないだろうし

大喬って未亡人になってから再婚してないのかな?いくらでも貰い手がいそうなもんだが
48 :47 2010/11/06(土) 21:19:06
アンカーまちがえた
>>46です
47 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/06(土) 21:16:32
>>47
手元の、「三国志の全てが分かる本(渡邉義浩監修・ナツメ社)」によると、両方とも若くして未亡人になった後の消息は
不明らしい。

演義とかでその辺の話をふくらましてもよかったと思うけどね(平話は知らない)
逆に言うと、今後三国志ビジネス(吉川・横山・コーエー的に)をやろうとする人にはその辺が狙い目のひとつかも
50 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/07(日) 01:54:43
>>47乙
曹操も関心のあった(史実?)大橋小橋の消息不明ぶりに萌え
54 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/16(火) 02:46:39
当時は女の人生はそんなに流行らなかったんじゃないか?
萌えの文化が無かったと思われる。

大橋小橋は旦那の墓と一緒に生きたまま埋葬されてたりして。
57 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/17(水) 18:29:15
>>54
…三行目、1800年前の中国なら例えそんな事があったとしても不思議じゃない。







レッドクリフにそんなシーンあったら物凄く嫌だけどw
56 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/16(火) 08:01:23
二人ともモテまくり 他の女も喰ってたよ
二喬と結婚してからは周瑜は小一筋だったかもしれんが、孫策にとっての大喬は愛人の一人に過ぎない
61 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/23(火) 01:28:34
何でマッタリ進行していたスレに水差すかねぇ

ゲームとかの影響で周瑜はやけに線の細い美形みたいなイメージになってるけど、当時の美しいとされる容姿って背が高くて恰幅がいいとか顔立ちが男らしいとかじゃないだろうか
62 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/23(火) 19:17:01
前線まで出てくるくらいだし、体が弱いのとはちょっと違うような

あるとすれば、運が悪いのかな
63 :無名武将@お腹せっぷく2010/11/24(水) 19:51:16
「長壮にして姿貌あり」だから、高身長・マッチョ・ハンサムの三点セットをクリアしてるとみていいだろう。
66 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/04(土) 00:36:11
>>63
しかも頭も抜群に良く、音楽に通じている
完璧超人だ…
71 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 01:31:56
>>63
しかし、体は弱い子なのであった。
72 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 03:43:10
最後病死しただけなのに常に病弱にされているのっておかしくね?JC
73 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 12:03:16
むしろ前線に出てその時の矢傷が原因っぽいから病弱どころか体も強い方じゃなかったのか
74 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 12:20:45
そんな矢傷一本が元で死ぬあたり、かなり脆かったんじゃないの?体は。
75 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 12:56:09
こいつは戦争負けなしって言っても司馬懿や張遼などの強敵と戦ってないじゃん
揚州統一に働きがあるのは認めるけど、あとは赤壁開戦に踏み切ったぐらいか
その赤壁も劉備に荊州4州を奪取されて一人勝ちされてるけど

天下二分は曹操はもちろん劉備も指くわえてみてるわけないから
生きてても苦しかったんじゃないかな
77 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 13:19:17
でもなんか呉って目ざとく張魯と渡りをつけようとしたり、
あわよくば寝技で華北進出を、という野望はずっと持ち続けてるような。
78 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 07:07:28
江陵取ってるんだから劉備の一人勝ちじゃねーだろ
つーか江陵とられて劉備は蓋されて勢力のばせない状況だから
外交で江陵を取り返したんだろうに
79 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 13:33:43
雲長と翼徳を自分が使うとかアホ杉
桃園トリオの絆なめすぎ
81 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 20:11:30
>>79
実際江陵攻略戦で雲長と翼徳を使ってたようだが
87 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 02:15:42
ちょっとしくじった奏者をチラ見してニヤッとする性格の悪さ
89 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 19:32:17
まあろくすっぽ聴いてない猪武者しかいないよりはマシだろうな
90 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/15(土) 11:10:43
自軍の敗戦に萎える奏者を叱り付けて演奏させる甘寧より
奏者に大人気の周瑜
91 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/17(月) 15:31:59
正直、孫権の評価(周瑜>陸遜、呂蒙、魯粛)には疑問がある
実績も彼ら以下で、ほぼ部下の意見採用で勝っただけ
智謀の持ち主には見えない
92 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/24(月) 14:09:09
孫権の評価は周瑜=陸遜>呂蒙>魯粛だろ
魯粛の評価はひどいと思うけど

んで実績が彼ら以下とかちょっと意味わかんないんだが

司令官として状況に合わせて部下の進言を取り入れ、その殆どが上手くいってるとか半端ないぞ
状況把握・分析能力は三国の中でもずば抜けてる
93 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/24(月) 18:41:15
魯粛の評価は「つねづね?禹に比す」というくらいだから、
むしろ孫権からの評価は大変高いと言って良い。

どっちかというと、「一つや二つ失敗はあったとしてもその功績は揺らがないぜ!」
って気持ちの方を強調したかったんだと思う。
比された?禹も失敗談がいくつかある方だが、それでも「功績第一位」と言われた人間だから。

ただ実力(文字通り軍事的実力か)は周瑜・呂蒙に劣るよね、って評価かと。
94 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/25(火) 00:43:05
魯粛は呉の国家的戦略を決めてるからなぁ

呂蒙や陸遜はそれに従ってるだけ
96 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/25(火) 18:00:44
>>94
江南割拠論自体は孫策の代に張紘が提案して以来、東呉ではメジャーな考え。
魯粛のはそれの対曹操に主眼を置いたマイナーチェンジしたもので、
割拠論としてのオリジナリティて言えば呂蒙らと基本同列。

ただ先人達があくまで「江南に割拠しながら外から漢王室を支える」という大義名分論に基づいていたのを、
「いや、漢王室の命脈はとうに尽きた」と文字通りの覇業論に転換させたインパクトがデカイ。

赤壁時代は周瑜ですら漢室名分論の枠内で演説しているが、
呂蒙の代以降では後漢名分論はすっかり鳴りを潜めているように、
ターニングポイントとしての魯粛は確かに異彩を放ってるし、
孫権も魯粛のそういう部分(覇業論に先鞭をつけたこと)を評価していた。

ちなみに周瑜スレなんで周瑜について付け加えておくと、
彼個人としては覇業論に寛容(むしろ推進)だったことが魯粛勧誘時の言葉から判る。
「劉氏(漢)に代わる天命を受けているのは孫権様で間違いない」とまで言い切ってる。

ただ、周瑜は公式な場や直接孫権に対しては帝王論を説いたことは無さそうな様子で、
まだ国内世論を変える段階ではないと思っていたのかもしれない。
105 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/01(火) 21:28:06
>>96
戦略性においては、魯粛が一番だろう。
ただ、魯粛には軍事的才能が他の3人に対して圧倒的に欠けていた。
周瑜の寿命が尽きていなければ、赤壁後に益州侵攻していたのは間違いないと思う。
その場合、劉備の処遇については呉に取り込むか殺すくらいしかないが。
劉備にとっては都合良く、呉にとっては中原制覇の絶好の機会に死んだ人だな。
それだけの軍才を持っていたんだろうが、存命なら赤壁後こそ周瑜の才が問われる
局面だったと思う・・・・・・・・・・それだけに残念。
95 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/25(火) 12:43:21
魯粛に米を物乞いして孔明に悉く負けて
何の役にたったのこの人
99 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/26(水) 23:44:54
実際赤壁の最大の勝ち組は劉備だったし
演義での描写はある意味史実に充実
101 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/27(木) 13:27:14
>>99
いやあ「連合軍が勝った」という一点を除くと史実に忠実とは言い難いでしょう。
典型的にはその後の流れで江陵を先に占拠するなど、結構な部分で意図的に劉備側の正当権を誇張してる。
全くの事実無根はそこまで多くないが、1のことを10と言い張るような針小棒大な書き方だよ。

まぁ最近「赤壁で劉備側に全く貢献が無かった!」みたいな極端なのもチョイチョイ目にするから、
“意外と”忠実という気持ちも理解できなくはないんだが、
西に50歩逃げるのも東に100歩逃げるのも、やはり五十歩百歩だしさ。
102 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/27(木) 22:46:53
つまるところ弱点が無いのが弱点てわけか
こやつめハハハ
103 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/01(火) 20:15:45
周瑜じゃなくて申し訳ない。
本拠地を秣陵(建業)に移すことを提言したのも張紘だと聞いたが本当だろうか?
もしそうなら、ものすごい先見、政治力してたんじゃない?
建業って南京でしょ?
118 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 21:10:06
>>103
その提言は実は劉備もしている
呉にとって役に立たない存在の劉備の数少ない呉に貢献した事例
104 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/01(火) 20:32:23
俺は地政学に疎いので自信はないが、
孫呉が秣陵を都にしたことが、後の六朝を経て南京の発展に繋がってる部分もあるじゃないのかな。
仮に武昌が首都なら、その後武昌が南京並みに発展したのかもしれない。
106 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/02(水) 09:19:11
戦略 魯粛>周瑜>>>>呂蒙=陸遜
戦闘指揮 周瑜≧呂蒙≧陸遜>>>>>魯粛
作戦立案 呂蒙>陸遜>周瑜>>>魯粛
家柄 周瑜>>>陸遜>>>>魯粛>>>>>>>>呂蒙
魅力 周瑜>陸遜>>呂蒙>魯粛
107 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/03(木) 20:58:46
袁家と孫家はどの辺に入るの?>家柄
参考までに知りたい
108 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/04(金) 12:25:32
袁家っていうのは袁紹たちから四代遡った先の袁安さんが、
学識を買われて中央政界にデビューしたことを皮切りに隆盛を誇ったわけだけど、
その袁安さんの引き立てによって同じく中央政界にデビューした家が周瑜の祖先である周栄の家。

多分以後も他の家も巻き込んで朝廷内で巨大な派閥を形成していて、
袁家はその筆頭・リーダー、周家は二番手と言う感じ。

三公九卿も狙える超が付く名家、移動の度に与する輩が100人単位で傍に侍るような家がこの2つ。


孫家の祖先は農家説や下級役人説があるけど、
奥さんが嫁入り時の扱いを見るに若き日の孫堅は「ならず者」であったと見ていいだろう。

現代でいうと、
「自分15の時にはこの辺一帯シメて頭はってた孫堅っていいます。
 これから気合入れて娘さん幸せにしますんで夜露死苦!」
みたいな若者に養女を取られる感じ。『孫堅の』家柄としては呂蒙並の最底辺と見ていい。

しかし孫策・孫権の家柄は少し別。
母親は地元じゃそこそこの家柄、父親は国からの勲章多数で30にして出世街道驀進中、
自分が物心ついた頃には世襲の爵位まで受けているので、
単に家柄だけでいえば魯粛より高いといって良いんじゃないかな。
111 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 11:51:43
残ってる史料から判断するに、イマイチ素性の知れない呉家に比べ、
陸家の方が身元が確かで家柄も良かった可能性が高いだろう。

……なぜそんなに家柄に拘るのかは謎だが。
112 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 10:03:33
政治にあんまり関与してないのが弱点っちゃ弱点かなぁ

意図的に関与しなかった気配はあるけど
113 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/11(金) 23:41:35
各人それぞれ役割分担あるわけで、周瑜が政治に関与する必要な無いと思う
116 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/12(土) 23:04:17
つーか周瑜が政治に関与したら益々「周家が孫家乗っ取ってくれねーかな」っていう気運が高まってしまうわけで
史実でもアレだけ身を慎んで孫権を立てて収まったんだから
周瑜の政治ってまさに参加しないことが政治だったように思う
117 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 09:19:27
ああ、それが劉備の「あいつ蜀取ったら独立すんじゃねーの?」に繋がりつつも孫権との関係は全く揺らがなかったわけか

何という先見性と忠義心、周瑜に弱点なぞなかった
120 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 03:56:47
劉備がいなかったら呉なんて赤壁の戦いせずに降伏してただろwww
121 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 08:40:52
劉備いなかっても赤壁やって勝利だろうけど、荊州奪取はどうなったんだろう?
孫権が合肥じゃなくて荊州に兵を送りゃあいけたんじゃね?
122 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 11:06:44
劉備居る居ないが関係あったかな?
周瑜が孫権を説得して開戦に踏み切っただろうし、実際の戦闘そのものも、
周瑜の三万で勝っただろうし
未だ劉備の赤壁での存在価値が見出せない
123 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 12:45:48
劉備がいなければ龐統がいない

龐統がいなければ連環の計が成功していない

仮に連環の計が成功していても、連環の計&火計は徐庶が見破っていたので、劉備がいなければ徐庶が連環の計&火計を曹操にバラしていた

ので、劉備がいなければ呉の赤壁の勝利はあり得なかった
125 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 16:06:59
演義でいえば人間的にも小人物で弱点ありまくりだな。
周瑜の弱点は「演義での扱いが酷い」ということで。
126 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 17:42:28
三国志を書いた陳寿が蜀出身で蜀贔屓になってしまうのは仕方ない話
127 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 18:38:50
周喩がそんなに優秀なら孫策並のスピードで劉表倒せよ
呉の領土全然広がってないじゃん さらに孫策を暗殺されるという失態までしてるのに
何が弱点ないだ 半端なだけじゃん
130 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 19:30:33
>>127-128
いや実際問題、孫策の死亡から黄祖討伐を果たすまでの8年間、
周瑜が外征に出たのは山越を叩いて人攫いした一回のみ。

「何故この期間周瑜は動かなかったのか?」ってのは良く議論になる部分。
128 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 18:55:07
楊州と荊州を一緒に考えちゃってるね
孫策暗殺を周喩一人の責任にしちゃってるね
131 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 19:36:34
孫策の死亡時、周瑜はまだ26歳でしょ?
そんな若さで活躍した人がいるなら、むしろ珍しいと思うけど、誰か居る?
132 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 19:51:06
>>131
それこそ26歳で死ぬまでに活躍しまくった孫策が居る。

というか、それ以前の周瑜本人が呂範・程普と並ぶ軍の高官として孫策と共に転戦してるし、
孫権政権発足後は明らかに軍の最高責任者であって、
「若いから仕事を任されない・活躍できない」というのは当てはまらない。

俺はむしろ、「実力者周瑜を中央から動かせないくらい、孫権政権が不安定だった」という説を推すけど。
134 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 20:45:40
>>131
三国志の時代じゃなく、中国以外でもよければ結構思い当たる。
133 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 20:32:58
元々強力な指導者が居ないために孫策が付け入る隙があった揚州だから
それを短期間で併呑した孫家の支配が不安定なのは十分あるかも知れんね。
孫権って傍に頭のいい人が居ないと何をするか分からないところあるし。
135 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 21:51:13
周喩の実績と言われても揚州纏めたのは明らかに孫策の実績だしその下で転戦したんだろうけどさ
赤壁で曹操打ち破るまでは良かったがその後荊州取られちゃったし
そんな完璧でもなくね?むしろ陸遜のが上じゃないかと思うんだが
136 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 00:14:18
荊州取られたのも後の魯粛による戦略だし
生前限定とすれば失敗なし、孫策死後の数年は喪に服しつつ遜家の地盤の固めに動いてたんじゃないかなぁ
137 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 00:26:35
ってか、主君は孫権ですよ。孫権が認可しなきゃ何も出来ませんよ
138 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 00:29:54
孫呉の国力で荊州方面に侵攻しろとかムチャぶりもいいところだろ
全力傾けなきゃならん。北からの脅威どうすんのさ
赤壁ぐらいのドサクサがねーと無理だって
139 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 01:13:28
だね。
それに、荊州のほうが国力上。楊州はかなりの田舎。
140 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 01:53:32
軍事的にも生産力的にも、南朝政権が安定する為には長江のラインを固めるのが必須
つまり西は長江上流の巴東郡、北は長江を押し上げて淮南の農耕地帯
西は呂蒙以降は確保できたけど、北はついぞ手に入れることはできなかった
だから南朝の中では陳に次いで弱いんだよね、呉って
141 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 02:09:57
劉備いなかったら陸戦で負けてるので
赤壁まで持っていけなかった可能性が高い
168 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 11:08:11
>>141に反論するのが全員呉オタだと思ってるところが既に論理的じゃない
142 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 08:28:48
ほう、
劉備は陸戦で勝ったのかね?
ならばそもそも赤壁の戦いなんざ起こらんわな。
じゃ、大打撃を与えたのかね?
曹操から必死に逃げてただけだろ。
だいたい呉がわざわざ長江を渡ってまで陸戦をする必要なし。
143 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 11:30:47
魏書だと陸戦で勝ったのは劉備軍

蜀書だと陸戦で勝ったのは劉備軍&周喩・程普等

呉書だと陸戦で勝ったのは周喩軍

だから、呉書以外は陸戦で勝ったのは劉備軍がメインってことになってる。
145 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 12:02:55
>>143
呉書でも劉備+周喩軍って扱いだよ。
まぁどっちにしても呉だけだったら前哨戦の陸戦に99.9999%勝てなかったとは思うけどな、オレも。
150 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 21:01:57
>>145
前哨戦は長江南岸を巡る水上戦だとする説が有力だし
そもそも「病を得ていた為」敗れたとされるので、あんまり陸戦が如何こうは関係ないぜよ。
冬の湿地帯で馬も活用できないし。
北岸に退いた曹操の船を焼いたのが所謂本戦で、その後が追撃戦。

劉備最大の貢献は夏口城を占拠したことでしょ。
これが無かったらそれこそ99%曹操が勝ってた。
153 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 21:51:53
>>145
>もそも「病を得ていた為」敗れたとされるので、あんまり陸戦が如何こうは関係ないぜよ。
>冬の湿地帯で馬も活用できないし。

まさにこれ。
劉備がいたから勝てたと言ってる人はこの点を無視してる。
劉備がいようがいまいが、他の状況は何も変わらない。
144 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 11:40:20
蜀に仕えた陳寿が書いたせいで蜀に好意的に書かれているってwikipediaに書いてあったw
146 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 15:43:41
江陵戦みてもそんなに陸戦が悪いとは思わないけどね>周瑜
152 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 21:44:57
>>146
つか、普通に考えれば基本は陸上戦だよな。
陸上戦が下手なのではなく、水上戦が他の追随を許さないぐらいずば抜けて上手かったんだろう。

要するに、歩兵戦も普通にできるが特に騎馬戦術がやたら上手いやつと一緒。
水上戦が得意か騎馬戦術が得意かが違うだけ。
147 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 17:53:52
劉備軍がいたから勝ったというより、孫権軍がいたから勝ったというべきだと思う
149 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 20:50:20
周喩って誰?
155 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 23:33:12
>>149
麻原周喩
151 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 21:16:45
劉備の手柄を大きくしたい輩が多いな・・・まるで陳寿みたい

だったら劉備軍だけで戦えよっての
154 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 23:15:23
はぁ?
劉備軍が撤退戦してたからこそ、曹操軍は無理に追撃して疫病が蔓延してるのに退却しないで侵攻してきてたんだろ

つまり、劉備軍がいたからこそ曹操軍が万全じゃない状態で侵攻してきてた

そんなこともわからんのかよ、周喩&呉ヲタはwガチの無能じゃねぇーかよwww
158 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 00:37:05
曹操は劉備が居なくても疫病は蔓延しただろうし、退却もしないと思うよ
曹操軍の軍事力は呉を圧倒してたから、慢心していたと思う
普通に考えれば、単純に荊州の次は呉というだけ
159 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 01:24:36
>>158
個人のただの妄想と思い込みじゃねぇーかよw
160 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 02:11:26
>>159
ほとんどの意見がそうじゃないのか?
161 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 04:44:53
曹操の目的として、
劉備がメインで呉がおまけだったのか、
あるいは呉がメインで劉備がたまたま前方にいて邪魔だったのかは知らんけど、
どっちにしても遠路はるばる荊州まで軍勢を率いて来て、荊州で更に増えたんだから
ついでに呉を滅ぼそうと思うのが普通だろうね。
荊州で止まってたら金も時間も掛かるし、何より勢いを利用しての脅しが使えなくなる。

劉備軍がいないと勝てなかったと言ってる人も、個人のただの妄想と思い込みでしかないんだけどね。
劉備軍が活躍してないと何か不都合でもあるのか?
162 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 09:11:23
その後何にもしてない劉備に荊州取られたからある程度活躍させとかないと
166 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 10:23:37
誤解をされる前に弁明しておくと、
>>150の意見は「陸上戦だから勝つ・負ける」という意見には与しないってだけで、
「劉備が居たから勝つ・居なくても勝つ」なら居たから勝てたという意見だからね。

そもそも劉備に誘い出されたんでなけりゃ、厳しい冬が越えるのを城で待ってから進軍を再開してもいいわけだし、
逆に呉が長江の対岸を抑える前に渡河を強行しても、上手く行く公算は史実より高いのは間違いない。

劉備が居たから状況が変わったという点において、>>153の意見と俺の意見は別。


>>162
周瑜の存命時において、
江陵だけでなく江夏も何故か孫権が抑えているので、
赤壁直近の影響でいえばむしろ「江夏抑えたのは劉備なのにほぼ全部持っていかれた」状態。

劉備が財政的な基盤としたのは諸葛亮に統治を委ねた荊州南部諸郡で、
これは赤壁戦の後に、明らかに劉備軍が主体となって落とした場所で赤壁とは別枠。

赤壁の戦功の代償は相当に低かったのでその論法(与えられた代償から逆算する)だと、
「赤壁での劉備の活躍は相当少ない」となってしまうので間違い。
163 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 09:27:19
”妄想”と”考察”とは別だろ、呉ヲタってバカばっかりだなwww
167 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 11:04:33
劉備がいたから勝てたんだったら劉備は逃げる必要なんか無いはずだし
孫権なんかと手を結ばずに独力で曹操に勝てばいいじゃん
169 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 11:36:10
劉備に誘い出されたんではなく、荊州を攻めに来て、そのまま長江の
流れに乗って東の呉を目指しただけ。進軍ルートとして自然。
そして劉備の逃走ルートとしても長江を下るのが自然。劉?との合流も出来るし。
170 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 12:39:58
>>167
「周瑜が居たから勝てた」という場合、周瑜の貢献が(代替が利かぬ程)大きかったというだけで、
別に周瑜が独力で退けたことを必ずしも意味しないので、
「周瑜が居たから勝てた」と「劉備と協力する必要があった」は矛盾しない。

同じ理屈で、「劉備が居たから勝てたこと」と「孫権と手を結ぶ必要があったこと」は矛盾しない。

167の論法は極端な話、
「周瑜1人居れば勝てるんなら孫権に兵を要求せずに単騎で突っ込んで勝てばよかったじゃん」
っていうのに通じてしまう。


>>169
劉備が居なかったら
「冬を越えてからの進軍でも良かった」し、そうじゃなくとも、
「渡河を強行しても上手く行く公算は高かった」んじゃないの、
というのが俺の意見。

俺は劉備と孫権に合同されると嫌だから、周瑜が指摘してるように兵法の忌避する冬の強攻を選んだ、
呉が態度を決めかねてる内に劉備をまず討伐したかった、各個撃破の利をとったと見る。

とはいえ169のいう「最初から孫権討伐主眼」もあり得るので、2つ目の意見も併記しておいた。

仮に荊州平定後速やかに孫権を討伐しようと曹操が動き出した時、
柴桑会議で国論を纏めるのに時間を浪費していた孫権陣営に、荊州に根を張る劉備の手引きがもしなければ、
スムーズな荊州進出ができず「長江を南北に挟んでにらみ合い」というような状況になるまえに、
曹操側の荊州での一部渡河を許すことになる可能性は高い。

そうなると水陸両面に広く防衛線を取らねばならず、
わずか3万の呉側には非情に厳しいと言わざるをえないでしょ。
190 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 11:16:59
>>182
「“他に選択肢あるのに”
 何故か敵の戦力が集中地点の一点突破を狙い、
 それが果たせないのに方針転換もせず長期になだれ込み自軍崩壊」
↑なんて不自然すぎる。

なので、“他に選択肢あるのに”は間違いで
他に選択肢なんてなかった=ほぼ唯一の選択肢だった。

こういう文章です。


>>183
実例を挙げられてみれば、これは納得の話でした。

>>166、>>170
の「冬を明けてからの進軍もありえた」はその後の行動をみるに考え難いということで。
171 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 13:56:04
>「周瑜1人居れば勝てるんなら孫権に兵を要求せずに単騎で突っ込んで勝てばよかったじゃん」
・・・極端とか言う話じゃないwww

>「冬を越えてからの進軍でも良かった」
別に雪国じゃないんだから、冬だろうが問題ないよ

>曹操側の荊州での一部渡河を許すことになる可能性は高い
別に渡航はいつでも出来たでしょ。洞庭湖あたりまで行ってるんだから、その
まま長沙から陸路を行くこともできる。
問題は行軍には長江を利用するのが便利なのであって、そのまま呉の本拠地を
目指せるのと、曹操軍は別にどうしても陸軍で対決したかったわけではなく、
圧倒的兵力差があるから水軍戦であろうが圧倒的に勝つつもりなのは明白
173 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 16:43:17
>>171
いかに温暖な長江以南の地域とはいえ、
冬の寒さが軍事上の禁忌であることは既に述べたけど周瑜伝に明記してある。
「問題ないよ」と思った根拠を聞きたいところ。

洞庭湖から長沙から陸路で〜ってところだけど、
それって滅茶苦茶遠回りな上に山脈地帯を横断するってこと?
現実問題可能な選択肢なんだろうか……
178 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 20:42:30
>>173
>「問題ないよ」と思った根拠を聞きたいところ。
赤壁で寒さが問題になった話を聞いたことが無いから。ってことは当時は
暖かかったのであろうと推測したまで。
それとも、寒くて大変だったの?
181 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 23:36:37
>>178
三回目になるけど、三国志・呉書・周瑜伝の中、
曹操の南下を受けて孫権陣営が柴桑で開いた会議によばれて述べた言葉の中に、
「今は寒さの盛りで、馬に食わせる藁草も無く、中原の人間を遠く江湖に駆り出し、水土に不慣れである」
以上の4点を用兵の問題点として挙げている。

有名な一節なので聞いたことないことは無いと思うけど、
水に慣れない→下痢→疫病のイメージの結びつきが強すぎて印象に残り難いところなのかな。


もう一回確認しとくと、俺も「劉備の直接戦闘の活躍で赤壁に勝った」とは思ってない。
劉備軍の戦闘が具体的に確認できるのは追撃戦での場面だから、戦闘での活躍はそこが主だと思う。

ただし、劉備が劉?勢力を糾合して夏口を孫呉に提供したことや、
2万弱?を率いて合流したことは戦略上多大な意味があるので、「劉備が居たから勝てた」には賛成する。

長沙からのルート云々については、羅霄山脈の存在を考えるとやはり難しいというか多分非現実的。
「長江流域が楽だから」なんて次元じゃなく、ほぼ唯一の選択肢。

だからこそ、連合軍側は少ない戦力を一箇所に集中して防衛に当たれたのだし、
他に選択肢あるのに何故か敵の戦力が集中地点の一点突破を狙い、
それが果たせないのに方針転換もせず長期になだれ込み自軍崩壊なんて不自然すぎる。
182 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 23:44:03
>>181
>「長江流域が楽だから」なんて次元じゃなく、ほぼ唯一の選択肢。
長江を下るのが唯一の選択肢なのに
>他に選択肢あるのに何故か敵の戦力が集中地点の一点突破を狙い、
集中地点の一点突破を狙わない他の選択肢とは?
172 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 15:29:45
なぜ劉備(諸葛亮)が呉に向かって後退していたのか根本的にわかってないのが呉ヲタwww
174 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 18:42:10
>>172
お前は正確な理由を知ってんのか?
中傷する前に、納得できるように理論的にちゃんと説明してみろよ。
ま、できるわけないか。
お前が言ってんのも、ただの妄想と思い込みでしかないわな。

で、劉備軍が活躍してないと何か不都合なことでもあるのか?
176 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 20:00:35
当時・・・赤壁の勝利の実利をうまいこと持っていく劉備
現代・・・赤壁の勝利の手柄を劉備のものにしたがる劉備ヲタ

類は友を呼ぶ・・・か。
179 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 23:20:24
11月から翌2月くらいまでに長江流域で戦われた代表的な戦いは
結構たくさんあります。
寒さとかが問題になったような逸話は無いと思います。

・孫策が劉ヨウを破った牛渚の戦いは12月
・孫策が黄祖を破った沙羨の戦いは12月
・赤壁の戦いは11月
・濡須口の戦いは第一回が1〜2月、第二回が2〜3月
・曹丕の南征は11月
180 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 23:23:28
劉備ヲタと呉ヲタが必死に罵りあうスレはここですか
蜀と呉ですら手を結んだのにお前らときたら…
183 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 23:57:18
濡須口の戦いも曹丕の南征も、魏のほうから冬の時期に攻め込んできてます。
なので曹操曹丕ともに、呉へ攻め入るのに寒さとかは気にしてなかったと思います。
185 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 00:17:01
>>184
なんの話?どれに対するヒント?
>>183に対してじゃないですよね?
184 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 00:05:34
ヒント:農閑期
186 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 01:13:35
>>184
誰が誰なのかわからんのだけどw
>>183の書き込みだけ見て>>184を書いたのであれば、もっと前に遡って読んでね
187 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 02:53:27
昔の疫病ってのは夏とか暑い時期に起こるもんだったんだけどな・・・
189 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 05:32:08
つまり疫病やその他諸々の曹操軍の弱点を突きつつ劉備を利用して荊州奪取した周瑜さん最強や!
191 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 21:44:59
周喩はチンコが小さくておまけに下手くそだったらしい
小喬が大喬に愚痴るレベルだったとか
193 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 23:59:02
だが>>191よりは大きかったらしい
196 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 23:45:38.07
赤壁戦での劉備の(呉にとっての)重要性は、主に戦前だろう。
夏口の確保含め、荊州方面への橋渡し的な役割はあったはず。
これは、劉備軍の軍事的価値というよりも荊州における劉備の影響力の強さ。
さらに、呉の内部意見をまとめるという意味でも劉備の存在は利用出来た。
コレについては、魯粛の戦略も大きい。

曹操軍については、冬の寒さ以上に疫病の蔓延が大きな問題。
さらに、水軍の調練も万全とは言い難く、こちらは船団の並び等で一目瞭然。
要するに、水上戦の優秀な指揮官が不足していたらしい。
それでも遠征した理由は、ガチで戦うよりも軍事力による威嚇が目的だろう。
曹操陣営でも孫権に対する評価は低く、むしろ劉備を警戒している。
ちなみに、蜀書に赤壁での劉備の功績は書かれていない。
劉備としては、これ以上の負けは許されず、イチかバチかの戦いに参加するより
曹操と孫権の争いの推移を見守ってから動ければ十分だったと思われる。
要するに、名ばかりの同盟で漁夫の利を狙っていた。
198 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/20(日) 00:08:11.30
劉備が本領発揮する赤壁後の荊州平定戦では、劉備が周瑜に軍を貸している。
ただし、これが劉備軍の必要性に繋がるかと言えば、そうも思わない。

この時点での周瑜の体調がどうかもあるが、周瑜としては短期間で荊州平定して、
早く益州侵攻したかった可能性が高い。
短期決着という意味で劉備から軍を借りたのなら、それは必ずしも必要だったとは
言えない事になって来る。
実際は、江陵戦で一年掛かって寿命を縮めたわけだが・・・・・


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