【三戦板】 自治新党その231 【新秩序】【三戦板】 自治新党その232 【新秩序】

2011年05月28日

三戦板的には蜀漢滅亡の戦犯って誰なの?

1 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/25(木) 01:24:49
やっぱ関羽?


108 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/05(火) 00:14:13.99
>>1
君と余だ
11 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/25(木) 14:36:58
1 陸遜
2 孫権
3 ?艾

だと思われる
この中の一人でもいなければどう転んでたか・・・
14 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/25(木) 16:11:19
>>11
孫権外して呂蒙か曹真、馬謖あたりでも
18 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/25(木) 22:04:09
しかし、なんだかんだ言っても献帝が禅譲した時点で蜀漢の負けは確定してた気はする
民衆としては劉禅の選択はベストのものだっただろうし
24 :神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy 2009/06/26(金) 00:52:19
兀突骨
25 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/26(金) 00:53:07
>>24
売名行為乙
33 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/26(金) 10:49:22
成立自体にムリがあったから、
戦犯なぞいない

あえてあげるなら創業者グループ全員
38 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 03:03:03
北伐なんかせずに魏に朝貢してればよかったんだよ だから戦犯は孔明
39 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 03:24:19
劉備が皇帝を名乗った時点ですべての大義名分なくしてる気がするんだよなあ
43 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 12:31:09
>>39
光武帝も自分より本家筋の
ジュ子エイや更始帝がいるのに即位しとるがな
47 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 21:14:39
>>43うーん 確かに wikiで光武帝のとこ読んだけど、劉備の行動はすべて光武帝を真似てるだけなんだね
56 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/29(月) 10:28:56
>>43
そもそも劉秀が冷静に考えて大義名分に乏しい

勝手に皇帝になっただけだから
68 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/11(土) 16:24:52
>>56
禅譲を受ける、若しくは前王朝を放伐して覇者となったものが皇帝を名乗る

・・・のに、何の不都合が?
41 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 11:36:43
蜀を作らなければ滅亡することもなかった、したがって劉備。
45 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 15:10:05
最大十万前後の兵力を動員可能で
普段は要害を武器に魏といえど容易には攻められない
もし蜀に曹操並みの天才がいたらもっと早期に決戦して滅亡したか
大勝して魏に勝てた可能性も少しはあったかもな。
いずれにせよ魏が磐石なら勝つのは難しい戦略だよな
49 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/27(土) 22:45:23
まあ、『真似た』のか
それとも『似た』のか
どっちでもいいけれど
かたや統一王朝復興、
かたや地方政権創業、
この違いは大きいな
55 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/28(日) 20:49:09
戦犯は当然だが張世平
馬と金タダで寄付したもんだから劉関張からハングリーさを削いだ
奴がいなけりゃ譲られた徐州は小沛を首都に天下統一しとるわ
57 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/29(月) 13:21:46
俺もチャンスがきたら勝手に皇帝を名乗る
58 :無名武将@お腹せっぷく2009/06/29(月) 14:45:14
>>57
麻生政権に取って代わってくれ
62 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/03(金) 11:46:46
>>57
その時は俺も呼んでくれ
義兵を募って馳せ参じるわ
64 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/04(土) 23:20:22
>>57
その時は俺もよろしくな
>>62に募られて馳せ参じるから
61 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/03(金) 08:38:19
待て待て、劉備の並みならぬ裏切りの才能によって蜀が成立したんぜ。
政治の才能がカスすぎて呉との仲は悪くなるし、曹仁にはフルボッコ。
部下への扱い酷すぎて、結果裏切られるという人望の無さ。そいつの名は、関羽雲ちょよ!
66 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/05(日) 02:21:28
>>61
>曹仁にはフルボッコ
これは違うだろ
徐晃や呂蒙には一方的にやられてるけど
63 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/04(土) 17:53:02
登山家
70 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/12(日) 05:15:10
>>63
馬謖のことか
69 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/12(日) 02:24:08
正式に献帝(漢)から禅譲を受け、帝位を引き継いだのは曹丕(魏)
つまり僭称者は劉備
この時点で駄目だわな
蜀漢正統論てのは後世のものであって、当時は放伐もしくは禅譲を受ける=正統だろうし
71 :無名武将@お腹せっぷく2009/07/12(日) 12:54:02
>>69
劉備のところには献帝が殺されたという知らせが届いてたからなあ
まあ当然建前に過ぎないんだろうけど
76 :無名武将@お腹せっぷく2009/10/06(火) 19:39:45
そもそも劉備は蜀を取るべきでは無かったよな。
止めとけばもう少しマシな死に方出来たろうに。
蜀攻めは領土を得る代わりに、信用という一番大切な物を失った。
77 :無名武将@お腹せっぷく2009/10/10(土) 12:30:02
言うまでもなく劉禅
こいつが内政に力を入れて国を富まして司馬一族のクーデターにつけこんでいれば・・・
78 :無名武将@お腹せっぷく2009/10/18(日) 08:59:58
>>77
それだったら北伐でそのチャンスを生かせず
国を疲弊させただけの姜維でしょ。
79 :無名武将@お腹せっぷく2009/11/05(木) 06:08:29
姜維の強引な北伐の繰り返しがなけりゃもう10年は長持ちしたと思う。
81 :無名武将@お腹せっぷく2009/12/04(金) 03:36:03
姜維がやらなくても近い内に誰かがやってたんじゃないかな。北伐。
なんだかんだで蜀の大半の人は「打倒曹!漢室復興!我等こそ正統!」ってのが
モチベーションだっただろうし、その辺を蔑ろにしてたら人心も離れちゃうだろうし。

だからこそ費イも「俺らじゃ無理だってば。やめとこうよ」とか言いつつも
1万までは出兵を許してたんだと思う。
85 :無名武将@お腹せっぷく2010/02/08(月) 13:50:29
降伏を決断した劉禅
綿竹で負けた諸葛瞻
陽安関で降った蒋舒
段谷で負けた姜維
上邽に来なかった胡済
86 :無名武将@お腹せっぷく2010/02/08(月) 14:51:34
関羽、劉備、諸葛亮はなぜ統一出来なかったのか部門だろうな
88 :無名武将@お腹せっぷく2010/04/21(水) 00:38:35
姜維は軍人なので内政担当ではない。戦争ばかりで内政を省みなかったとか
言われるのは心外。ヒイあたりが劉禅の悪性をいさめる事もなく民から搾取していた
政治を改めなかったため滅びた。
89 :無名武将@お腹せっぷく2010/05/11(火) 23:50:29
姜維は軍人ではあるが、同時に録尚書事として宰相としても権限を振るえる筈だった。
尤も、上手く振るったところで末路は諸葛恪と類似した結果だったかもしれん。
しかし、軍事によって求心力、権威を得た姜維が、敗戦により権力を失うのは当然でもあった。

楊戯の一件なんかでも、トップとしての適正に疑問が。
怠惰で反抗的であるにしても、罪らしい罪もないのに告訴して追い落とすのは、
蒋エンとの器の差を感じさせるね。
92 :無名武将@お腹せっぷく2010/05/20(木) 20:18:36
>>88,>>89
むしろ費褘存命中から録尚書事でありながら
全くと言っていいほど国政に関与しなかったことが
政治と軍事を分離させた最大の原因だと思うけど
90 :無名武将@お腹せっぷく2010/05/15(土) 23:29:04
適当に弄ってビチョビチョになったら肉 棒ズブリ……
後は腰振って出すだけで、月50万とか稼げるんだからボロイよな(笑)
http://chinirichi.net/rico/23mojii
93 :無名武将@お腹せっぷく2010/05/24(月) 12:28:28
録尚書事は元々、太傅と太尉の二人体制(かそれ以上)で、
行政権を文治と軍事で分割していたと考えられる。

諸葛亮、蒋エンの時代までは一人に権限が集中していたが、
費イと姜維が両立した時代には、行政全般の費イと、北伐の実務担当の姜維に
分けられていたと考えられる。
費イは漢中軍事も姜維一人に任せず、漢中と成都を往復した。
253年の費イの急死後、漢中軍事は姜維に委任されただろうが、
本国内の行政には録尚書事を立てずに侍中守尚書令の陳祇に任せられた。
陳祇と姜維の関係は良好で、大規模な北伐が行われた。
これは当然、劉禅の是認によるものということになる。
姜維の許で行われた大攻勢は三年の間順調だったが、256年に段谷の敗戦があり、
258年、陳祇が死亡した。その同年に姜維は成都に戻った。
これが録尚書事になってから初めての長期の成都滞留となった。
ここで一時降格されていた大将軍へ復職する。
ここで姜維は「行政権」を握る立場となったはずだが、
陳祇死後の枢機、皇帝の「最高意思決定権」は宦官の黄皓が掌握することになった。
黄皓は劉禅の信任を得て内朝から政治を行い、皇帝専制体制が強まった。
成都滞留の間に、黄皓と姜維との対立は表面化して、姜維は黄皓を除くよう進言しており、
漢中防衛体制の見直しがあり、261年に二人の平尚書事が任命された。
三年間に様々に動きがあったようだが、しかし黄皓への信任は揺るがず、
諸葛瞻と董厥は黄皓の「専横」を容認したうえで政治を執行するスタンスを取った。
262年、姜維は北伐に出陣し、蜀が滅びるまで成都には戻らなかった。
自分を排除しようとする黄皓を恐れたのだという。
成都行政は、劉禅の意を体現する黄皓の指示のもとに二人の平尚書事と尚書令が
執行する形となった。

姜維から見るとどうしようもない流れだな。
北伐の失敗以外は。
94 :無名武将@お腹せっぷく2010/05/24(月) 12:31:51
いや、そうでもないか。258年の段階で黄皓の乗政を認めて服従すればよかったんだ。
96 :無名武将@お腹せっぷく2010/06/21(月) 22:09:45
黄皓、姜維
遠因といては関羽の敗戦と孔明の人事ミスかな。

でもまぁよくやったと思う、劉備恐るべし。
97 :無名武将@お腹せっぷく2010/07/10(土) 00:39:51
結果的にキョウイに大規模な軍事作戦を許さなかったのは各個撃破を招いただけ
99 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2010/07/10(土) 20:38:49
漢中−武都−陰平の防衛ラインを維持できればよかったのだろうけど。

だから姜維が北伐を続けて疲弊するよりは,
黄皓が全権を握っていろんな意味で守りに入った方が,
まだ「長持ちした」とは思う。

諸葛亮がもう少し領土を広げていればというのもあるけど,
さすがに戦犯扱いするのは無理でしょ。
104 :無名武将@お腹せっぷく2010/08/21(土) 06:05:02
>>99
姜維は漢中防衛の為の兵力すら北伐に回し、その上で負けてるからね。
魏のカウンターを漢中で防ぐ手立てが無かった。

いや、一応姜維の思惑としては少ない兵力でも守りえる筈だったんだが、
それも机上の空論でしかなかった。
105 :無名武将@お腹せっぷく2010/08/25(水) 20:57:16
>>104
姜維の思惑自体,自身の北伐がうまくいっていること,
要するに涼州方面で優位に立って漢中を攻められる可能性が低いことが前提だろうから,
漢中どころか自身のいる沓中ですら太刀打ちできない事態は想定していなかっただろう。
107 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/22(土) 09:10:57
>>105
多分魏が攻めるなら自分の方に来ると思ってたんだろうね。
118 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/22(金) 01:09:39.88
>>99
逆を言えば、漢中の防衛ラインを構築した魏延は蜀延命の功績者という一面もあったわけだな。
112 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/06(水) 21:29:11.35
約1800年もたったことだし、そろそろ蜀漢王朝が再興してもいいころだと思うんだ
113 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/06(水) 22:19:22.81
>>112は釣りだとしても
バブル崩壊したらどうなるか・・・
114 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/06(水) 22:22:39.01
蜀衰退の原因はホウ統・法正・五虎将軍がばたばた死んだ事だろう。
中でもホウ統。
彼が居れば荊州の外交や糧食管理にまわされて、それをうまくこなすだろうからあの時期に呉の離反と関羽戦死はなかったと思う。
そうなれば荊州はしばらく安泰だし、張飛は部下に無茶を言うこともないし、劉備が無理して親征する事もない。
夷陵の戦いがなければ当時の優秀な人材と多くの精兵が生き残る事になり、人材不足にもならない。
白眉(馬良)や黄権が生き残っている以上わざわざ登山家(馬謖)を抜擢するような事もしないし、劉備なら登山家は左遷する。
法正の病死は仕方ないにしても、それで空席になった漢中方面軍軍師には史実通り諸葛亮をまわせばいい。

要するにホウ統殺した劉璋軍ラク城守備隊、つまり張任達が戦犯かな。
115 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/06(水) 22:24:51.84
馬謖かな
あのまま街亭を守ってたら…
まあ宮廷を腐敗させた黄皓、諫言とかもうチート
116 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/06(水) 22:26:14.36
>>115
変な言い方だった、
馬謖と黄皓だ、数えればいくらでもいるが
119 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/22(金) 09:23:30.51
戦犯は間違いなく、井戸の火を消したヤツだろ。
出典は異苑。

====================
蜀の国に、火を吐く井戸があった。
漢帝室の隆盛時には火炎が燃え盛り、漢帝室が衰えると火も弱まった。
諸葛孔明が一度その井戸をのぞいたら、また火勢が盛んになった。
炎興元年、ある人が蝋燭を投げこむと火は消え、その年、蜀は魏に滅ぼされた。

121 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/22(金) 12:16:53.38
>>119
それが原因とはいえん
123 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/23(土) 00:29:35.93
だから劉備だって
夷陵の戦いが蜀滅亡の引き金

多くの将兵を失ったのは痛いがそれ以上に劉備本人の死でどうしようもなくなる
建国の祖が在位たった3年では長持ちしようがない
125 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/23(土) 09:54:30.07
司馬昭 鐘会 トウガイだろ
126 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/23(土) 16:44:29.70
>>125
ここでの戦犯ってのは「敗北した責任を負うべき人物」
なので勝利側の魏の人物が戦犯に名を上げるのはおかしな話

直接的には劉禅・姜維
遠因的には劉備
127 :魏延2011/04/25(月) 14:46:06.70
諸葛孔明じゃね?
魏延の献策した子午道から長安を急襲する案を退け、斜谷経由にこだわりすぎ。
戦争を控え国力を充実させ、子午道を整備して魏が弱まるのを待てば、長安くらい落とせた。
魏延の献策を退けたことによる意地があって、戦術の柔軟性・多様性が失われて
作戦が硬直化してしまって、ワンパターンの作戦でいたずらに国力を疲弊させてしまった。
128 : 忍法帖【Lv=1,xxxP】 2011/04/25(月) 20:33:47.33
蜀:呉:魏の国力比は1:3:6だと何かで読んだが本当かねぇ。
そんなに弱かったのか蜀。
132 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/26(火) 02:00:51.86
>>131
趙雲が助けた阿斗を地面に叩き付けた劉備
きっとこのとき打ち所が悪くて、劉禅は無気力人間になったんだろう
って事で戦犯は劉備に間違いない

>>128
蜀の地は領土的に広くても人の住める場所が限られるから
また13州の内、魏は9州強、呉は3州弱、蜀は1州
中原は群雄割拠の混乱により荒れ果てていた事を考慮すれば、
その比率はある程度納得できる値
129 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/25(月) 21:31:02.04
関羽じゃねーの?
荊州とられなかったら全然変わった展開になる。
131 :琥珀 ◆Y3QOlaygLcAw 2011/04/26(火) 00:25:01.78
趙雲だよね。
阿斗助けたから。
133 :ジャイアニズム2011/04/26(火) 06:19:45.14
劉禅が一番悪い!
酒と女に溺れるだけの無能者。まさに糞賊ではないか!
134 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/26(火) 08:22:37.77
>>133
男も知ってそうだ
135 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/26(火) 17:02:39.39
姜維は戦犯の一人なんだろうけど、
あまり責める気にはなれないんだよね。
軍事の責任者として任務をまっとうしようとしたまでだろう。
その上、外様の身で国が滅びた後まで戦い続けたんだから・・・

結局、矛先が向くのは無気力な二代目と宦官どもだな。
136 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/27(水) 01:02:11.17
>>135
軍事の責任者として任務をまっとうしようとしたとするにはちと功名心が強すぎる

費禕の言葉を謙虚に受け止め、機を待ち防衛に徹していたならまだしも
同僚の廖化・張翼からも諌言を受けていても北伐を止めようとしなかった
功績をあげるため、防衛を疎かにしてはね

そのため陳寿からも「多年に渡り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」と評される
一番の責を負うべきは無論劉禅だが、それに次ぐ責を問われるべき人物だと思うぞ姜維は
137 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/27(水) 08:29:28.13
一番の戦犯かと言われると分からんが、登山家が街亭でやらかさなければ長安まで落としてたかもしれない。
ぶっちゃけ第1回北伐が一番惜しかったわけだし。
138 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/28(木) 00:42:41.25
>>137
街亭を堅守してもせいぜい祁山周辺を落せたくらいで長安までとするのは飛躍しすぎ
たとえ勝ち進めたとしても、自力じゃ圧倒的に劣るのだから五丈原あたりで足止めくらって
食料がつきて撤退が関の山
139 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/28(木) 02:46:00.72
>>137
劉備の忠告を無視してまで強行したその任命責任の罪は重い
140 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/30(土) 18:06:46.76
>>138
確かに馬謖が守り切れれば雍州西部と涼州は奪えただろうけど,
そこから東進して曹真や司馬懿に勝てるとは限らないな。
2方面から出撃できるとは言っても,総兵力では敵わないだろうし。
144 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/01(日) 21:07:05.90
>>140
そもそも諸葛亮の度重なる祁山への出兵の戦略目的は涼州奪取だったのかな?
涼州を取っても、その後の展開が多少有利にはなるだろうが、戦局一変とまでは
行かない気がするんだが。
141 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/30(土) 19:30:25.35
蜀滅亡の決定的な決め手は、どう考えても段谷な訳で。
要するに姜維が蜀を滅ぼした。
142 :無名武将@お腹せっぷく2011/04/30(土) 22:50:51.83
>>141
段谷の敗戦だけなら遠因ではあるが決定的な決め手とは至ってない
決定的なのは、
 段谷の敗戦で失った兵の穴埋めのために漢中の兵を引き抜き、漢中防衛をおろそかにした事
 そして、こんな非常な状態になって尚、北伐を続けた事
だな
段谷直後、これに懲りて防衛に徹していれば、そして政治の腐敗を一掃していれば
まだ、滅亡に向かわずに済んでいたはずだ

引かぬ、媚びぬ、省みぬの姜維が行った場当たり的な方策と
それを許可した劉禅の無策が亡国の原因なのは間違いない
146 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/01(日) 22:34:37.79
涼州からモンゴル平原を長駆して回り込んで并州を突くとか。
騎馬民族じゃないから無理か…
147 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/01(日) 22:52:27.66
でも結局祁山だの街亭だの狄道だの五丈原だのでうろうろしてただけで
涼州を取ろうというそぶりは見せなかった気がするんだけど。
148 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/02(月) 01:53:43.37
結局って言うなら祁山すら落せてないから
その先の涼州まで手も足も伸ばせてないのは仕方ないんじゃね?
占領できたのも武都・陰平までだし
149 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/02(月) 05:39:51.76
『祁山に陣を構えた』ばっかりで、そのあと何をしたかったのかさっぱり分からん
150 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/03(火) 00:40:53.20
第一次北伐に関しては、祁山の先にある街亭を抑えることで北から回ってくる魏の援軍を遮断しようとしたんだろう。
陳倉攻めは、純粋に長安への道筋で一番弱いと思われたから(守備兵一千余・無名だったカク昭・一度は放棄されていた城・祁山方面の防御強化)
その後の北伐(武都、陰平、五丈原は除く)では祁山から涼州に向かって精強な涼州兵や羌族、兵糧なんかを吸収したかったんだと思う。
武都・陰平は長安から逆方向だけど魏軍の防備も弱かったし、漢中に近くて脅威になり得るから落とした。
五丈原にでたのはその地を兵站基地にして持久戦に持ち込みたかったからだろう。第五次北伐では兵糧不足は起きてなかったし、
諸葛亮の病死は不確定要素だったから、超長期戦を想定していたってことも考えられる。
151 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/03(火) 05:46:17.32
涼州兵の吸収とか五丈原の基地化とか、言っちゃなんだが迂遠な戦略だよな。
弱者が相手の土俵の上で持久してどうする。結局呉の呼応頼りってことなのかな?
152 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/03(火) 15:51:51.25
>>150
でも第一次で肝心の街亭に派遣したのは実戦経験のない馬謖だったり,
第四次で魏軍に大勝して優勢なはずなのに羌族への工作をしていなかったりと,
やってることが微妙にずれている気がするんだけど。

>>151
諸葛亮は自信家だから,それで勝ち続けられると思っていたのでは。
ただ後世の人の視点では,そんなにうまくいくはずがないと思われる。
だから魏延の長安奇襲策がそこそこ評価されたり,
北伐が「以攻為守」だったなんて説が出てくる訳で。
153 :1502011/05/03(火) 21:54:55.90
>>152
実戦経験がないからこそ馬謖に功績を立てさせたかったんじゃないかな?
街亭戦時にはまだ姜維も降ってきてないから、その時点での諸葛亮の後継者は馬謖。
だけど、馬謖には功績がない。だから、重要かつ比較的楽な街亭守備で実績を積ませようとしたんだろう。
細い街道の守備なら、野戦指揮よりはるかに難度は下がるから。

第四次は工作する前に劉禅から撤退命令がでた……なら筋は通せるけど、こっちは証拠がないのでなんとも言えない。
154 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/04(水) 07:23:29.52
>>153
馬謖に経験を積ませたかったというのは分かるのだけど,
魏の東西連絡を遮断するという街亭の重要性を認識しているのなら,
馬謖だけでなく,ちゃんと実績ある人も出さないとだめだろう。
下弁に派遣された(実績ある)曹洪と(今後期待の)曹休みたいな形にして。

第四次の方は,魏との会戦後に工作するのはいくらなんでも遅すぎる。
だから,魏軍を破れば何とでもなると思ってするつもりがなかったのか,
工作したけど,羌族が味方してくれるだけの優勢を築けなかったのだと思う。
155 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/04(水) 16:26:38.84
張翼という人も万年サブみたいなポジションでよく分からん。キャリアで
いえば廖化あたりがもっと昇進してもいい気がするが、馬謖だの姜維だの
若造の配下になってるのはどういうもんか。
156 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/04(水) 22:49:01.82
>>154
つ王平
曹洪の例とは逆で副将だったがな

>>155
当先鋒廖化は人材不足の代名詞

張翼は益州人で孔明は荊州人優遇政策していた
蒋琬時代に征西大将軍に昇進したが、蒋琬は姜維の才能の方をより高く買っていた
157 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/04(水) 23:34:22.34
>>156
その姜維が蒋エン費イが亡くなると暴走するんだから世話はないな。
また姜維の北伐が孔明の以上に先の見込みのない不毛な戦ときた。
本当に人材不足だな蜀は。
158 :1502011/05/04(水) 23:35:25.28
>>155
馬謖と廖化って、そう年齢差はないぞ。
どっちも190年前後の生まれだし、正史での廖化初登場は樊城戦の頃だ。
「次期正軍師候補だった男の弟で自身もその候補だった馬謖」と「関羽の幕僚の生き残りで丞相付き参軍の一人に過ぎなかった廖化」なら馬謖がより重視されるのは無理からぬ話。
159 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/04(水) 23:41:02.73
>>157
せめて馬良・黄権のどちらかが生き残っていて北伐で実戦指揮を経験していたらってとこかもな。
そもそもその二人がいれば街亭で馬謖に拘る必要もなく、順当に魏延が任について守りぬくんだろうけど。
160 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 00:31:08.24
>>159
その2人が存命でも、劉備が生きていなければ魏延に出番は回ってこないように思う
主に孔明政権の挙国一致政策の都合で

また、劉備が生きていたら街亭なんて回り道せずに魏延の献策に乗っていそうな気がする
なんだかんだで劉備はばくち打ちの素養がありありだから
161 :1592011/05/05(木) 00:49:45.24
>>160
あぁ、確かにそうかも。
魏延の対抗馬に馬良・黄権をあてるなら、趙雲の補佐に黄権、街亭に馬良・王平って布陣のほうが妥当か。
魏延は本隊の先鋒にしておいて、?芝あたりをつけて長安攻略の前線指揮をさせておけば満足するかな。
長安攻略に成功したとしても、部隊責任者はあくまで諸葛亮だしね。

蜀漢滅亡の原因って、結局は荊州失陥と夷陵の敗戦による領土・人材の枯渇に求められるからなぁ……
両方の原因を作った責任者の関羽が戦犯になるんだろうか?
164 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 07:11:54.67
>>156
王平は当時まだ裨将軍で,街亭で頭角を現したようなものでしょ。
馬謖と一緒に処罰された張休等もここ以外には出てこないし。

せめて陳到くらいの経験者を付けられなかったのかね。
171 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/07(土) 10:56:39.06
>>146
涼州の騎馬民族を本格的に味方につけられれば魏延の長安奇襲作戦もオプションとしてなら使えるな

>>159
黄権は城の防衛戦は実績があるから街亭を黄権に守らせて魏本軍との決戦に魏延を投入できる
172 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/07(土) 20:23:35.07
>>171
しかし中国史上、異民族と結んだ奴はろくな目に会ってないからな…
162 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 01:38:23.49
しかし呉は魏と結んでまでなぜ荊州にこだわったのかな。
そんなに関羽が目障りだったのか。
165 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 11:22:35.13
>>162
中原に数倍の国力を擁する勢力を敵に控えた江南政権が、長江のより上流域の
確保を志向するなんて至上命題というか当然としかいえない
荊州を保有していたのが劉備だろうと魏だろうと、そこはかわらん
後年、益州から下った王濬の艦隊がどれだけ戦局に影響を与えたかを
考えても実にわかりやすい問題
163 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 03:07:50.86
漢中王の僭称がまずかったんじゃないか?
劉備に示し合わせて魏を攻めたら、孫呉が劉備の下風にたったと見られてしまう

また、関羽の態度も悪いな、同盟国の国主の子を犬の子呼ばわりはさすがにないわ

そして、劉備が力を蓄えるのは孫呉にとって面白くないのは確か

さらに、荊州占領は孫呉存続の生命線でもあるからな、虎視眈々と狙うだろう

合わせ技1本って感じ?
166 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 21:58:43.40
戦犯の堂々一位は劉禅としても、二位は関羽と姜維どっち?
167 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/05(木) 23:58:56.39
>>166
姜維は劉禅と同率一位が相応しい、まぁ二位でもいいけど
そして、その次は関羽よりは劉備だと思う

劉備の失策で多くの将兵を死にいたらめた事が蜀滅亡の遠因で
関羽はその遠因の原因を作ったに過ぎない
劉備が失策しなければ蜀滅亡につながらなかったであろうことから
関羽にまで責任を求めるのはちょっと行きすぎに思う
168 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/06(金) 00:16:02.01
>>167
遠因の原因を作ったのって、けっこう責任重大だと思うんだけど……
少なくとも荊州の喪失に関しては関羽に大半の原因があるんだし
169 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/06(金) 02:12:59.58
でも遠因の人よりはましじゃね?

もし、劉備が荊州攻めをあきらめていたら
例え荊州攻め決行したとしても勝っていれば
負けたとしても人的被害が少なかったら
最悪、劉備だけでももっと延命していたら

蜀の屋台骨はもっと丈夫だったと思う
170 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/06(金) 07:44:39.04
後漢は想像以上に名声が力を持った時代なんだよね。袁術みたいなつまらない
人間が名声だけであそこまで持ったのを見ても分かる。その中で沓作りの劉備が
のし上がるのがどれほど大変だったか。中山靖王の子孫と名乗っていたが本当か
分からないし、本当だったとしてもそんな人間は後漢末期にはたくさんいた
だろう。漢書を見ると、前漢の宗室諸侯王家は断絶断絶ばかりだからね。劉氏
の血を引いているが庶民に落ちた人間は山ほどいたわけだ。
劉備が前半生で公孫サンについたり曹操についたり袁紹についたりしてるのは、
名声のない劉備はそうやって大勢力に引っ付いて生き残るしかなかったからだ。
173 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/07(土) 22:44:56.87
黄権は益州人
挙国一致を目論む諸葛亮にとって魏延以上に扱い難い存在

劉備が崩御しているなら李厳同様に後方に置く
前線には連れて行かないだろうと思われる

馬良は俊才として名ばかり残るが、軍師・参謀としての実績は乏しい
馬謖の変わりに用いても、成功する可能性は未知数かな〜
174 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 15:50:39.33
魏延がプライドが高いせいで、誰に対しても「俺の考えと違う!」と思えばブーブー言う子なのは事実らしいし、
魏延は現場組トップだから、官僚トップから軍指揮に乗り出した諸葛亮には扱いの難しい部分があったのも事実だろう。
でも諸葛亮と魏延は別に関係悪くないよ。

魏延は一度も諸葛亮の方針に逆らってないし、諸葛亮も魏延を評価し、頼りにし、大事にしてる。
長安ルートで揉めたってのは戦術議論の範疇。
個人的には、山乗り越えて長安だけ落としても維持出来なかったと思うけどね。

諸葛亮がしくじったのは、絶望的に魏延と仲の悪い(そして諸葛亮自身も実務能力以外は評価していない)
楊儀を死後撤収の指揮役にしてしまったこと。
自分がナンバー2だという自負、そもそもの諸葛亮との方針の違い、そして、よりにもよって楊儀。
こりゃ「はぁ?楊儀がなに言ってんの?丞相が死んだら俺が指揮取るに決まってるじゃん!まだガンガン戦えるし!」
とはいえ、他のメンツはおしなべて楊儀より位低いんだよね・・・。
175 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 16:11:49.92
あと、諸葛亮が荊州閥を形成しようとした、というのも人員配置を見るとそうは思えないんだけどなあ。
例の登山家に入れ込んだのはフォローしようがないけど。まー仲良しだった兄貴が死んじゃったしさ・・・
この説も「諸葛亮と魏延が互いに険悪」と一緒で演義の印象に引きずられてるんじゃないかなーと思ったり。

演義の印象を引きずって見ると北伐に「だけ」注目しちゃいがちだし、さらに演義じゃあ、そこで目立つのが
魏延・楊儀・登山家らの荊州組や、王平・馬岱w・キョウ維の帰参組ばっかだけどさ。
でも、蜀全体でみれば要職を荊州閥で占めてた訳じゃない、つか北伐に参加してなきゃ2軍扱いという発想もヘン。
176 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 17:20:58.47
>>174
楊儀は部隊編成もしてたし正史でも魏延と並び評される存在だった(良い意味でも悪い意味でもw)

>>175
登山家は南征での助言が良かったのと議論が上手かったのと人間性が評価されてたみたい
177 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 17:54:56.16
>>175
そうか?
北伐の面々だけでなく、劉禅の周辺も孔明の息のかかった者で占められていて
益州人の高官は北伐からも中央からも外されている感は否めなくないか?
出師の表で名が挙がる人物は荊州人が多い。
諸葛亮の死後、蔣琬の治世で益州人が多く昇進してたりする。

>>176
そりゃ叛臣列伝に並び評されてちゃいるが、正史で並び評されたからといって
生前から並び評されている訳じゃないよ、魏延と楊儀では地位に隔たりがある
部長と代表取締役専務直属の課長を同列には扱えないだろ?
178 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 20:50:49.38
>>177
諸葛亮は楊儀の才幹を深く愛したが、 魏延の驍勇(ぎょうゆう)も頼みにしていて、
常々二人が不仲なのを残念に思っていたが、 どちらか一人を廃するにも忍びなかった。 (『蜀書・楊儀伝』)
179 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 21:34:03.01
>>177
益州人ってのが狭義(土着の名士・豪族)を指すなら、雍闓が反乱したりしてるから、
完全に利害調整に成功したとは言えないんだろうね。
ただ、それは諸葛亮が特別無能だった訳じゃなく、魏も呉も事情は同じ。

土着豪族・名士の多くが劉備入蜀の時に死んだり反抗して遠ざけられてるのにも留意。
それでも「さらに魏に降った」黄権の子は役人のままだし、李カイや馬忠・張翼はでかい仕事任されたりしてる。
異民族対策に回されるの左遷じゃないよ〜。むしろ超重要地域への適材適所。

劉璋時代からの蜀将、という意味での「益州人」ならまったく冷遇してない。むしろめっちゃ気を使ってる。
永安勤務は左遷先じゃないよ〜。超重要地点。

劉禅周辺に自分の信任出来る人を配置しようとするのも、職責上当たり前。
つか「劉備系荊州人」でそれにあたる重職は蒋エンくらいっしょ。
それを「息のかかった者で〜」という言い方をするのは孔明さんカワイソス。

そして非常に大きなポイントとして、劉璋時代から荊州出身有力者の比率が多かった。
これは諸葛亮のせいじゃない。

その時点で既得権益や、朝廷外への名声が薄かった連中を北伐に連れてくのもモチベの点で正しいしょ?
180 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/08(日) 22:24:46.89
>>177
「地元豪族を冷遇しない=中央の仕事に付ける、ってのが益州人の正しい扱い方」
そうしなかった孔明は派閥優遇主義者!っていうなら、それは違うぞ
呉のやりかたをイメージしてるのかもしれないけど、あれはかなり特殊だ
地元豪族には地元を運営するという仕事があるんだよ
その辺ちゃんと国家機能に組み込んだ上で「法的根拠をもった」利害対立の調整を
してくれることを望むからこそ、劉焉政府や劉備政府を結局は受け入れたわけだ
孔明が法治体勢を強化してくれたのはむしろ彼らにとっては歓迎すべき事
劉璋はそれが出来なかったから、張松なんかに嫌われた
183 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/09(月) 07:10:05.36
むしろ荊州、益州といった出身とは関係なく,
諸葛亮自身が評価する者を優遇しただけだと思う。

>>179
南中はある意味最前線だから間違いなく抜擢だけど,
永安にいて対呉外交に関与すらさせてもらえなかった李厳は冷遇なのでは。
181 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/09(月) 03:04:22.42
挙国一致政策であって、派閥優遇主義とは似ているようで違うのだが?
求心力に欠ける劉禅に変わって実権を掌握して国家の分裂を防ぐ策
特に益州人に取ってみれば北伐自体が至上命題って訳じゃないから分裂すればそのまま崩壊もしかねない
そのため、益州の有力者や魏延のような武官の有力者の台頭を防ぐように苦心している
故に益州の有力者で武勲もある黄権は、魏延以上扱い難い
182 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/09(月) 04:08:29.92
その扱いづらい魏延や楊儀でも使わざるを得ない程の諸葛亮体制に
仮に経験豊富な黄権さんがもし残ってたらもちろん使うに決まってるだろ。
性格的にも上の脳筋&性悪コンビよりずっとマシ。
北伐の意義も理解しつつ、いい感じに諫言込みのアドバイザーになったと予想。
184 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/09(月) 10:56:49.07
蜀の人事抗争というのもよく分からんな。李厳の罷免の事情も不可解だし。

益州閥のトップは呉懿かと思ったら、劉焉に従って蜀入りした人だったのね。
益州系というには微妙…。
185 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/09(月) 20:31:25.31
>>184
益州出身者という意味なら,諸葛亮時代の筆頭は留府長史の張裔だな。
長史にしたいがためにわざわざ楊洪に相談して,反対されたけど強行して,
案の定問題を起こして何やってんだって奴だけど。
186 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 00:49:53.55
張裔って張松のあんちゃんだっけ?
だとしたら、益州土着豪族+劉備の入蜀抵抗派でもちゃんと重用しまっせ!
とでもアピールしたかったのかね?
187 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 01:33:05.67
>>186
それ、別人な。張松の兄は張粛だから。
張裔は成都出身の益州人、人格にはやや問題があったが能力は申し分なかったとのこと。
馬良・黄権が失われた後の蜀においては李厳と共に数少ない優秀な文官として重用された。
北伐時には丞相府長吏として孔明留守の成都を事実上統括、蒋エン・費イらの先輩として兵糧輸送などを担当した。
張裔の能力の高さは、第三次北伐までの各戦役で兵糧輸送を最低限滞らせなかったことからもうかがえる。
事実、彼の死後に李厳が兵糧輸送を引き継いだ途端、輸送失敗による撤退が起きている(第四次北伐)
193 : 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 2011/05/10(火) 06:02:31.73
>>187
> 人格にはやや問題があったが能力は申し分なかった

蜀ってそんな奴ばっかりだな。堂々たる士大夫が子供みたいな喧嘩したり
ある意味リアルというか、日本の田舎の村でもありそうな話だ。
村長さんの孔明はさぞかし苦労したろうな。蜀村を率いて呉町や魏市と
渡り合わなきゃいけなかったんだから。
196 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 06:54:04.40
>>193
>蜀ってそんな奴ばっかりだな。堂々たる士大夫が子供みたいな喧嘩したり

史伝読んでると、蜀に限らず魏呉でもそんなんばっか
199 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/11(水) 03:16:52.98
>>196
それでもほかの国の叛臣列伝は、反乱や謀反まがいのことをした人物だけだが
蜀は、嫁さんに暴行働いただの暴言を吐きまくっただの、とてもとても小物が多い

そして蜀は公私の区別がついてない人材も多い
これが魏だと互いにきらい合う同僚であっても、有事の際は協力している
188 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 02:09:18.31
ちょっと穿った考え方だが

楊洪は李厳の推薦により昇進した人物
その人物が反対をしていることから張裔は益州の士大夫勢とは一線を隔していたようにも受け取れる
張裔とは張裔の子を処罰したの一件とこの一件で逆恨みされることになったから余計に

また、この抜擢の一件に加え、
張裔は一時呉に囚われていて、?芝が呉との講和に成功したとき帰還できた
その事から孔明の一派には多少なりとも恩を感じていた可能性も?

どの道、孔明の挙国一致政策を妨げる(られる)ような人物ではなさそうではある
189 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 02:25:36.91
李厳とか許靖とかは既にあった名声と能力・人格が見合ってなかったから
扱いに苦労したっつーだけだろ

使える人は使う、ダメな奴は使わない
でも虚名であれ名声のある奴はおろそかには出来ない
その辺でいろいろ苦労したんでしょ、孔明さんも

つか普通に頭のまわる奴なら挙国一致体制でないと、田舎少国家じゃー
立ちゆかないこと位解ってるだろーしな
つまり生姜さんは頭が(ry

そこを根拠にして孔明閥を妄想する事自体が、穿った見方なんじゃねーの?
190 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 03:47:30.96
挙国一致政策であって、派閥優遇主義とは似ているようで違うといってるのに
孔明閥とかって、いったい誰と戦ってんだ?

挙国一致体制でないとって、わからねーバカはいつの時代もいますから
また、その先導が諸葛亮である必要もないと考える者だって出てくるだろう
諸葛亮に匹敵する名声を得るものが現れれば分裂の可能性は低くない
あくまで諸葛亮はナンバー2なのだから
名声を得た者本人にその気がなくとも周りがほっておかないことも考え難くない
だからこそ、諸葛亮は政敵になりうる存在を作らないように苦心しているんだろって
195 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 06:44:11.41
>>190
簒奪のお墨付きまで貰って全権を掌握している諸葛亮が,
自身の権力は手放さないままで政敵となりうる存在を作らないようにするって,
それは挙国一致政策ではなくて諸葛亮独裁体制と言うべきでは?
197 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 08:24:51.49
>>195
そりゃ丞相な訳だしある意味独裁で当たり前
んで「ワシの考える挙国一致」で政策を進めるのも当たり前
んで「ワシの考える有能な子」で固めようとするのも当たり前

封建制度下ではあたりまえだし、そういう体制下で生まれがちな弊害を
可能な限り上手く処理したからこそ、孔明さんは激賞されてるのでは?
198 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/11(水) 02:34:00.16
>>195
独自の裁量で政治、軍事を委ねられるという意味で用いているのであればその通りだが
独裁とはひとりの実力者が独断的に一切の事を運ぶ様子で悪い意味で使われる
そのためこのケースでは適切とは言いがたい。

>>197
本来であれば皇帝が上にいるからほとんどの丞相が独裁には当たらないぞ
皇帝が幼少でもない限り、全権を担うなんて事はない。
そもそも、一家臣が政治も軍事も担っていたら簒奪リーチな状態でまともであるはずがない
そんな状況で簒奪を疑われなかった孔明は稀有な存在といえる。
191 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 03:59:46.59
北方(禁止ワードか?)の影響を受けてるおれには、
ホウ統さえ生きてればな、って思うけど。
たぶん北方サンもそういう考えが根本にあるよね。
192 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 04:40:15.96
>>191
というか羅貫中さんが既にそういう仕様で書いてるよね
194 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/10(火) 06:12:21.55
四川麻婆豆腐の例もあるし
やっぱり辛いものを常食してる人種ってどこかおかしいんだな
200 :無名武将@お腹せっぷく2011/05/11(水) 03:17:59.27
>そんな状況で簒奪を疑われなかった孔明は稀有な存在といえる。

李厳がブルペンで投球練習を始めたようです


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