2011年04月20日

【肥前の熊】龍造寺隆信【竜造寺】

1 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/04(金) 19:10:47
五州太守龍造寺隆信を中心に九州周辺で起こった争乱を語るスレ。

前スレ
【肥前の熊】龍造寺隆信【五州太守】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1203054003/

関連スレ
龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1271704721/
【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220009690/


2 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/04(金) 21:10:07
戦死が無ければ、鍋島の台頭は無かった
3 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/04(金) 22:36:03
>>2
そうだね。で?
4 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/04(金) 23:54:52
沖田畷隆信生存ルート

鍋島・松浦・大村が島原から南下し天草占領
家晴・隈部・阿蘇も南下して隈本・宇土占領
隆信本隊が肥後入りした後に氷川付近で島津本隊と決戦

という電波を受信した
7 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 07:04:26
大名国人の後詰めや援軍要請を無視し続けた隆信なら
島津みたいに夢見がちな戦略はとらず秀吉を受け入れそうな感じはする
8 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 12:25:46
秀吉と戦ってもやっぱり全滅前に降伏して、結局佐賀藩の範囲くらいに
なるんじゃない?
筑前筑後以東、肥後は取り上げて、唐入りに重要な肥前北岸も没収。
肥前西部は残してくれるかどうか。

普通に従っても筑前・豊前・肥前北部は取り上げられるだろうけど、
十分な代替地もらえるかなぁ。
長宗我部だって国替え案がキツいから戦ったわけだし、龍造寺も強いまま
ならヘコまされるのでは。
10 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 15:59:08
>>8
織田政権から引き継いだ外交ムードがある長宗我部とは違って
領土問題で隆信に文句言ってくる奴が居るかどうかかが最初の課題

それで沖田畷の勝ち方は結構重要
有馬・肥後衆・島津を全員取り逃がした場合、島津と泥沼継戦で後々まで尾をひくだろうし
主要人物を残らず討ち取ったら維持出来るかはともかく、八代まで文句無しに進出出来る可能性も高くなる
9 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 13:02:00
>>前998
>一回目の時って同行したっけ?
>すでに出家して円月だったんで寺に残ってたと思ってた。

寺に入ってても一族皆殺しの適応内の可能性があったんじゃないかな。
大叔父がどうしたか知らないが。
11 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 16:32:08
>領土問題で隆信に文句言ってくる奴
長宗我部の場合は毛利が伊予欲しがったのが原因なんだよな。
龍造寺が大版図を維持したら、文句言うヤツがいるいないに関わらず、
筑前と肥前北部(とたぶん筑後も)が秀吉自身の唐入り構想に必要だから
没収確実。
12 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 18:39:38
豊前・筑前・肥前は海運の問題からして入り用だろうけど
肥後・筑後は閉塞した内海にしか(肥後は天草を考えなければ)接しておらず
どちらかというと褒賞用・戦力抽出の土地で海外戦略上の優勢順位は低い
策源地にしたいなら唐入り用の木材集積地になった豊後日田みたく直轄領に組み込む筈
14 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 22:56:19
>>12
閉塞した内海は言い過ぎだよw シナの船来て貿易してたんだしw
16 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 00:33:36
>>14
>>12が海外遠征に意味がある土地だって言ってるように見えた?
それは読み間違いだ。
13 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 21:07:45
肥後は佐々に遣ったくらいだもんな。

でも筑後はどうだろ?没収されたのは史実だし。
15 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/05(土) 23:48:12
問題は海外遠征には取っても意味のない土地だという事だろ
意味が出て来るのは国内の政治状況的に何かある場合
17 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 01:01:53
その肥後は小西と加藤が先鋒になったが、本来佐々が先鋒になる予定だったの
だろうか。
佐々が小西役で肥前にどこか足して加藤役かな
18 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 04:06:36
実際出した兵数から見るに、誰が将帥でも肥前肥後は3万人ぐらい出させる丼勘定してたんじゃないの

肥後国人一揆と島原天草一揆も龍造寺の中途半端な介入が遠因になったと思うわけ
そんでこの一揆の芽を事前に摘み取る事が出来たのは
周辺で唯一強権を発動出来る隆信ぐらいしか居ないんじゃないかと
もし生き残るならこのあたり頑張って頂きたい
20 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 13:11:55
秀吉がお気に入りだった安って隆信の義娘だろ。
うまく行けば隆信と秀吉は親子関係だったのに残念。
22 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 14:32:15
北肥前、東松浦・壱岐8万石が没収されるのって正式には文禄の役が始まった直後だろ
しかも波多のワガママによるもので

出兵に必要なのは正味名護屋付近ぐらいで、波多が大人しかったらそのまま龍造寺領だろ
24 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 15:10:22
波多だけがそう思ってただけで体外的に東松浦も龍造寺領
そうなったのは鍋島の謀略みたい話になってるけど

だいたい松浦党がうじゃうじゃしていた上松浦を波多の下に一元化(義娘と孫を送り込んで)したのが隆信だし
25 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 16:58:37
豊臣政権が波多を龍造寺の下に位置付けてるなら領地没収の権利あるのか?
波多に直接指示出したり。

形式的には龍造寺が統制できなかったことも手落ちだから、豊臣としては
龍造寺を減封して龍造寺はその分波多を取り潰しって形?
26 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 17:34:07
独立支藩と似たようなもんだろ
幕藩体制ほど厳密なものじゃないだろうけど
27 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 17:43:23
龍造寺藩31万石
波多藩8万石
鍋島藩5万石
があって有事の時は一緒に龍造寺家として動けよ、と
鍋島藩が龍造寺藩も動かしていたから奇妙な関係に拍車がかかってるけど

結局波多分の足りない兵は鍋島が余計に軍役負担して補ってたしね
29 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 17:56:49
波多の騒動のすぐ後に江上家種が釜山で戦死したのもデカいんじゃない? >鍋島の余計な軍役負担
30 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 18:29:16
平戸松浦5万石
有馬5万石
大村2万5千石
宗4万5千石
これも龍造寺として動かせたら江上も死なずにすんだかもね
龍造寺のは急造水軍だったし
32 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 20:40:04
江上家種の領地って秀吉が知行割りした時、養子の伊勢松(勝茂)が9千石を相続して
残り千2百石が家種の隠居分になってたね。
33 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 20:59:26
江上の領地って普通に考えると鍋島の神埼郡ともろに被るんだよな
佐賀城⇔蓮池城の交換の時一緒に領地の入れ替えでもやったんだろうか
34 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 21:28:35
城下町なんて無いし家臣も全員地方領主な時代だから
領域的なものじゃなくてどの家臣が誰の幕下に居るかで考えないと

まあ自分には分からない
35 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 21:28:55
三根郡と藤津郡の一部だったと読んだことあるけど定かではない。
因みに家種の隠居分は2人の実子(佐野、勝山)が相続したらしい。
37 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 22:30:18
文禄初頭の政家配下なら家種と家信が最大級の領主だろうけど軍役負担分がどの位だったのかがね
40 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 22:59:38
だから最大『級』

隆信の息子達で一番動いてたのは家種だから
軍の指揮権力は強いと思うんだけど・・・
なんか家種の立場が微妙で
41 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/06(日) 23:55:34
薩摩・大隅・日向諸県・奄美・琉球
肥前・筑後・肥後玉名・壱岐・対馬

すごくバランスがとれてる
42 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 07:20:13
龍造寺となあなあ関係だった松浦・大村・宗が独立を保ってて
あれやこれや画策していた連中は飛ばされるか、中央派遣組の下に取り込まれたのがなんとも皮肉
43 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 16:30:52
肥大化した龍造寺と和を結べば安全が保障される末端地域と
それ以外の回廊地域との違い
45 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 17:57:20
神代の領土拡大(筑前方面)も、普通に考えれば大友傘下の小領主を食い荒ら
したんだよな。大友の獅子身中の虫は龍造寺ばかり目立つけど。
46 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 18:08:06
元々が少弐領だったとこを大友がハイエナしに来てるんだから仕方ない
47 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 18:55:47
1550〜60年頃だとまだ少弐VS大内の色が強く残っていて
大友の勢力は博多の大友五城周辺以外は筑前にも浸透してないと思うよ
48 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 20:21:27
1555年に隆信から三瀬を奪われた勝利が志摩の原田から援助してもらって
怡土郡長野に陣所を移し隆信が引いた隙に代官を討って三瀬を取り返してる

神代は志摩と怡土方面の豪族とは懇意だったみたい
49 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/07(月) 20:54:09
神代って山賊の大親分というか、中世の悪党みたいな勢力だったんだと思う。少なくとも勝利の代までは。
51 :奇矯屋onぷらっと ◆a..l..g..o 2011/02/08(火) 01:14:04
神代って名乗るのに覚悟要らんか?
神の代って。
54 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 14:06:39
>>51
「しろ」には「〜に捧げる米をとる田」という意味もある。
神田、コウジロと同じように、神社に奉納する田の地名だろう。
52 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 05:22:27
神代の云われは神代氏が言うには正に『神様の代わり』なんだけど、
隈代や熊代と表記していたのを神代に変えたのは三瀬に拠点を構えた後の勝利だろうし、
夢買いの逸話を信じるならば決意表明的なものではある。

後個人的には、神代に名を変えたのは拠点が神埼郡の三瀬だったというのも大きいと思う。
神埼の由来が神幸(カムサキ)でゴッドブレス的な意味だから。験を担ぐ意味でも。
53 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 09:54:35
神の代わりに勝利する男
クマ代大和守勝利

肥前のクマ
龍造寺山城守隆信
55 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 15:21:05
ややこしいのは島原半島にも神代(コウジロ)という地名があってそこの神代城に神代氏が居た事と
直茂の兄が鹿島から島原の神代に移ったのと、神代(クマシロ)が山内から川久保に移ったのがほぼ同時期な事
57 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 19:13:56
隆信と勝利の最大の総力戦は永禄4年の川上合戦だと思うけど、この時の軍勢を見ると
隆信勢8千で勝利勢が7千8百とほぼ互角だったんだね。
58 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 20:48:23
神代がそれだけ人数をもって来れるのが驚き
山内兵は4000ぐらいなんだろうけど残りはどこから引っ張ってきたのか
59 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 21:48:06
綾部や馬場の一部が神代に加勢していたと考えられなくもない
少弐系の残党ならまず神代を頼るだろうし
60 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 22:40:00
龍造寺対神代も龍造寺対有馬連合も
肥前で一番強い奴は誰だ!? ってのを暫定的に決める為の戦いで領土の奪い合いじゃないんだよな
63 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:27:22
>>60
中世的な戦いと言うか、負けても領主がそのままみたいな戦いだよな。
そういうのを決めたら勝者はどんな利益を得たの?
67 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:49:18
>>63
負けた奴の手下の領主が、みんな勝った奴の手下になる
九州ではよくある光景
61 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:05:39
龍造寺対神代は一旦神代が波佐見まで逃げているのをみても、領主権の奪い合いではあるだろ
すぐに神代が戻って来るのをみると領主権=支配といえる程のものじゃ無かったんだろうけど
62 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:27:02
波佐見まで逃げたのに僅か3ヶ月で山内へ舞い戻るとは只者じゃない
64 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:35:38
絶対戦争論でいう所の拡大された決闘だな
つまるところ勝者が得るのは信用
65 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:40:35
絶対はいらない
戦争論だけでないと意味が通らなくなる
66 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/08(火) 23:48:51
龍造寺の戦闘はかなり決闘な印象が強いね
挑戦状はよく出すし、負けたら一旦は大人しくなるし
69 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 00:39:21
龍造寺と島津と秋月の急膨張は、大敗した敵国に攻め込んで、
片っ端から国人を無血降伏させてったからなんだが。
70 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 00:40:08
決戦志向でも挑戦状送りつけて戦域を指定するのは理に適ってる
後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
71 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 01:00:15
63年の龍造寺と有馬連合の合戦後
有馬は当主の蟄居や杵島郡の事実上の失陥があったり
敗者に血を流させるというのも当たり前に重要な事だね
72 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 06:33:52
永禄六年(1563)龍造寺側から見たら丹坂峠の戦い(隆信が有馬を撃破した場所)
有馬側から見たら百合野合戦(有馬が最初に陣を構えた場所?)

永禄四年の川上合戦もだけど隆信が事前調略で敵を誘導し撃破した、と戦史ではなってる
73 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 13:03:05
>後詰め決戦なんて戦略的には下策だし
詳しく
75 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 15:22:05
挟まれる前に移動して後詰め軍を出迎えるもんじゃないのか?
あぁ、少なからず城側の手当が要るから確かに不利か。
77 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 19:34:15
>>75
普通に考えりゃ相当不利よ
城方の後詰めに連絡線を遮断されないようにしつつ決戦場を設定しなきゃならん
って時点で前後に意識を注がんとならんくなる
ヘタすりゃ寄せ手が飢えるしね
後詰の来援で城方の意気があがれば城から出撃される可能性も高くなるわけで
こういう物質的な面だけじゃなく精神的にも圧迫されると、動揺しやすいのは
大多数を占める兵卒やら雑兵ってことで単純な戦闘力の低下も否めない
こういう死地で兵に死力を尽くさせるのが名将なんだろうけど
76 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 16:22:31
北肥戦史で隆信が勝利に宣戦布告する行

 永禄四年辛酉九月上旬、龍造寺隆信、使を山内へ遣し、神代勝利へ申されけるは、隆信、御辺に対し鬱憤片時も止む事なし。
 所詮有無の一戦を遂げて、両家の安否を極むべし。
 然れば今月十三日、山と里との境なれば、河上へ出合はれよ。
 勝負を決し申すべしといひ送られけり。勝利、仔細に及ばずと返答あり。
 其後、又勝利よりも、河浪駿河守を龍造寺へ差遣し、弥々当月十三日、河上に出合ひ勝劣の程を試み候べしといひ遣されけり。
 斯くて其日になりしかば、勝利、熊川の城にて勢を揃へ、都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。
78 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 21:07:26
>都合七千余騎河上に出張し、手分を定めて口々を差固む。

手分(布陣)はどうしたんだろか
82 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 18:38:48
>>78
神代勢
河上與止日女社西の総門に勝利本陣を構え三瀬武家、同安家、古河真清、畑瀬盛政など二千余
大手宮原口へ嫡男長良を大将に叔父蕃元、福島利高、千布家利など三千余
南大門口へ二男種良を大将に松瀬宗楽、杠紀伊守、合瀬、芹田などの一千三百
河上川の東の都渡城へ三男周利を大将として八戸宗暘、西河、古湯、鹿路などの一千五百余

龍造寺勢
大手宮原口へ隆信の旗本勢三千五百余で第一陣は広橋一祐軒、第ニ陣は福地信重、三陣が隆信本隊、殿軍は弟長信
南大門口へは納富信景を大将とするニ千五百余
都渡城へ弟信周を大将として、従弟鑑兼、小川信友などのニ千余

結果は神代方に裏切りが出て隆信が大勝 勝利の二男種良、三男周利が戦死し
勝利自らは大村領の波佐美村まで落ち大村純忠の庇護をうけていたらしい
79 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/09(水) 21:53:33
神代が熊の川城を中心に陣を敷いて
龍造寺が古湯城を中心に陣を敷いた

ぐらいしか分かんね
んで川上は隆信の爺さん兄弟や叔父さんが勝利にぶっ殺された所でもあるのよね
因縁を感じるよね
83 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 18:53:54
やっぱり数字は誇大なんだろうなぁとしみじみ思う。
神代方の名字なんて脊振山地の地名ばかりで、あの山の中から兵7、8千
なんて出せないよなぁ。
84 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 19:34:12
守勢側だって事で無理やり動員しているとしても
その半分以下ぐらいが妥当な数字かな

少弐方の敗残兵を一時的に吸収して下につけているならもう一声増やせるかも
85 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 19:47:24
隆信方の八千もないな。数年後の村中城篭城の時だって五千が精一杯だったから
隆信四千、勝利三千ってところだろか
87 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 20:02:38
>>85
永禄十二年の時は隆信の旗本譜代だけで戦ったんだし
東肥前諸将の大半が降っている永禄三年時がそれより下って事はないな
86 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 19:47:46
戦争すっぞ!ってお触れ出したら筑後あたりからも人が集まってたみたいだしな
大隈重信の家系もそれっぽいし
88 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 21:04:33
ちょっと気になるのは三瀬側を背(東)に布陣している筈の神代勢が
三瀬にも撤退出来ず波佐見(西)に落ち延びている事
93 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/11(金) 15:27:46
>>88
味方の裏切りで退路を断たれた、ってのは?筑前に逃げられたなら筑前に
いればいいかなぁと。
89 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 21:39:33
龍造寺の追撃が厳しくて北の峠超えて筑前に入ったんじゃないの
そっからなら原田領→草野領の唐津街道で陸路からも行ける
90 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 21:44:02
谷田合戦(弘治元年)では三瀬城まで追撃されたから反対の方へ落ちたんじゃないかな
この時は高祖城主の原田了栄入道を頼ったらしい
91 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 22:01:37
なるほど、川上合戦の時も谷田合戦時と同じような落ち延び方して伊都に来た
川上合戦の時は伊都から更に波佐見まで落ちていった…とするとしっくる
92 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/10(木) 23:24:08
広橋一祐軒(信了)は川上合戦でも武功一番、佐嘉城防衛でも一翼を任せられてる叩き上げの主力部将なのに
須古攻めなんかで失って勿体無かったね
94 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/11(金) 19:19:06
> 筑前に逃げられたなら筑前にいればいいかなぁと。
前回と同じところに居たら龍造寺の追撃が来ないとも限らないでしょ
龍造寺に原田への介入機会をみすみす与えるようなもの

あと原田が波多と関係悪いってのも関係してるかも
有馬・大村・波多の親族連合が出来そうな時期だし
100 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/12(土) 14:59:26
>>94
筑前経由で逃げたって記述があるんだっけ?
95 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/11(金) 20:10:45
永禄3年だと龍造寺は三潴の堤に築城の手伝いを派遣してる
大友からの要請で有馬の東肥前への再進出も同時期

龍造寺の活発化と大友の締めつけが強化され始めた時期だし
弘治年間とは原田側の事情が違ったのかもね
96 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/11(金) 22:06:33
久留米にも進出してるね。直茂(信昌)はこの頃から筑後方の担当だったみたい。
97 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/12(土) 00:46:42
与止日女神社は川上の西側だから

   北
 山山山山山
  2河A
 1 川
西 3川B 東
   川
   川4
   川C
   南
1勝利隊 A隆信隊
2長良隊 B信景隊
3種良隊×C信周隊
4周利隊×
龍造寺の本拠地は戦場の南
神代の本拠地は戦場の更に東

たぶんこんな感じ
99 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/12(土) 01:03:18
>>97
その図なら普通に潰走して西へ逃げたって事になるな
102 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 05:14:54
龍造寺四天王は
前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
後任護衛組・江里口+円城寺(千葉譜代)
信昌麾下?・木下(京出身?)
って分類かな
105 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 18:46:26
>>102

> 前任護衛組・成松+百武(龍造寺譜代)
この二人天正以降は大身の旗本クラスだからな
成松信勝300町
百武賢兼280町
106 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 19:09:31
このスレの人々、四天王の能力値を数値化するとどうなる?
項目はとりあえず信長の野望天道準拠で。強制はしないので独自項目でも
いいです

スレ違いだったらごめん
107 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 19:21:32
>>106
総合力は成松>百武>>>その他の三人じゃないかね?
成松と百武はれっきとした重臣で軍功もあるし、
政務もそれなりにこなしてるけど、他の三人は旗本程度。
109 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/13(日) 21:57:25
賢兼の父兼定は隆信の父周家と共に討死してるし、隆信も可愛がったと思うよ。
110 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 01:23:15
江里口は西肥前攻略で特に活躍したらしい事、その間は信房配下だった事。
筑後に龍造寺の矛先が向かった後は信昌配下になったらしい事。
円城寺は納富・鍋島兄弟の指揮下で対大友の迎撃戦で武功をあげた事。松浦郡中の戦いで功があったらしい事。
木下は昌直の名前が信昌の偏諱にしか見えない事以外はよくわからない。

江里口・円城寺は鍋島の寄騎もやっていた千葉→龍造寺家臣で、木下はほぼ最初から鍋島家臣だったんだろう。
どちらかというと、この三人は直茂の覚え目出度い豪傑だったと。
111 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 01:42:42
全員共通しているのは軍奉行をしていた事かな。
惣軍奉行で城主・家老クラスの上位二名と、格は並みの侍大将三名。木下は足軽大将ぐらいだったかもしれないけど。
112 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 15:07:31
龍造寺五天王なのに鍋島の唾つきすぎだろ……
所詮は鍋島時代に選ばれた5人ということか
113 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 19:24:19
力自慢縛りをしないで成松百武クラスからの人選となると勝屋勝一軒あたりが入るだろうけど
114 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 20:09:55
勝屋は周防出身らしいがどういう経緯で肥前に来たんだろうか
115 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 22:02:59
旧大内の家臣だったらしい
龍家家臣のなかでは智将で軍師的存在だったのかな
117 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/14(月) 23:52:11
鎮西史だと勝屋は隆信の代弁者っぽい事よくしてる
また後藤に家信を送り込んだ時も勝屋の親族と思しき輩が就いていってる

龍造寺家の側近自体は石井氏や太田氏が居るけれども
勝屋は隆信の私設秘書な立ち位置だったんだろう
118 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 02:20:42
木下氏について一つ
水ヶ江城中館の南にあった木下伊予守覚順の邸宅を覚順の子、仙叔(昌直の兄弟?)が
改築して光円寺を建立したとのこと

木下昌直は隆信や直茂の幼なじみだったのかも?
119 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 09:52:41
昌直が覚順の養子、ってのは覚順の存在と昌直京都出身説をおりあいつける
ための創作?
実子がいるのに他国者を養子、ってのも変だし。
120 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 11:59:21
仙叔が京都で修行した坊さんだったという伝承がことの発端だろうね。

?昌直と仙叔は実兄弟
?昌直と仙叔は義兄弟
?昌直と仙叔は同一人物

大筋でこの三説が考えられるけど、昌直が養子だとすると?が消える。それでこの場合(昌直養子説)だと自分は?推し。
つまり木下覚順が京の僧仙叔を養子に迎えて仙叔が昌直と名乗る。
昌直はその後戦死して光円寺建立は鍋島生三が行った(別説で生三の建立説がある)。とすると辻褄は合う。
122 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/15(火) 23:46:15
昌直は沖田畷で戦死したと云われているが、生きていたとの説もあるな
生存説を取れば昌直が出家して仙叔と名乗ったとも考えられるが
131 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 20:37:05
>>122の昌直が出家して仙叔になった、としたらの話ね
123 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/16(水) 20:54:39
生きていた場合、剃髪して京都へ修行しに行って帰って来るまで最長でも13〜14年ぐらいなんだよな
コレは長いのか短いのか
124 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 03:08:57
10年以上は長いだろう十分
問題は年齢的なもんの方が大きいと思う
天文の初め頃の生まれだとすると行く前からかなりのいい歳で
戻ってくる時は棺桶に片足突っ込んでる年頃になる
125 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/17(木) 11:20:28
坊さんコミュニティーって重要だからな
特に龍造寺みたいな京の公家さんに伝手がない所だと
126 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 06:29:20
その光円寺って真宗系なのな
九州に真宗が浸透し初めたのがかなり遅かったってのがよく分かる
127 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 16:48:32
隆信自身は曹洞宗と関係が深かったみたいだけど
円月として入っていた鬼丸の宝琳院は天台宗

慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは
龍造寺派と言っていい曹洞宗の勢いを削ぐ為だったのかもね
128 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 18:33:00
信勝は成松を名乗ってるけど龍造寺一門だよね。
父は宗家胤栄の弟胤明だが馬場頼周が仕掛けた罠にて杵島志久峠で戦死しており
訳あってか信勝は成松姓、信勝の兄信勢は西村姓となったらしい。

「大将の御前にて討ち死にを遂げ生前より兼ねての御恩を奉り報いるべし」と、金地に日の丸の扇をはためかせて
「やあやあ、我こそは去んぬる年、豊後の大友八郎を討ち取ったる成松遠江守信勝なるぞッ!」と
大声で名乗りを挙げ、長刀を手に嫡男信実ほか残った従者十六人と共に島津勢百人余りに挑み、
自ら七人をなぎ倒し八人目で壮烈な最後を遂げた。
132 :奇矯屋onぷらっと ◆a..l..g..o 2011/02/18(金) 23:31:40
>>128
全然知らんかった。ありがとう。
129 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 19:39:36
>慶長年間に浄土真宗の寺を沢山佐賀へ入れたのは

関ケ原の役に鍋島は西軍に加わり進退に窮した。このとき京都西本願寺の高僧に、
斡旋を依頼し、鍋島家は取り潰しの危機を脱することができた。
その恩に報いるために、鍋島は浄土真宗の普及に勤めたと云われている。
130 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/18(金) 20:19:51
その西本願寺と鍋島の間を取り持ったのが木下仙叔だったとなると面白いな
長年の外交努力が実を結んだ瞬間というか
こんなこともあろうかとってな真田さんばりの用意の良さというか
133 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 01:23:19
杵島志久峠での戦いって家兼が有馬晴純に大敗した時のこれかな

> 武雄鍋島家文書の中に、この時、少弐冬尚から後藤純明にあてて協力を要請した次のような書状が残っている。
> 「佐嘉の逆徒急度きっと取り詰め、退治を加うべく候。仍って其の表の事、一衆差し出され馳走に於いては、
>諸方の覚え、累年入魂の首尾、肝要の由、晴純に至り申し候。別して心を副えられ候わば、祝着たるべく候。
>なお老共申すべく候。恐々謹言  八月六日 冬尚(花押)   後藤伯耆守殿」
ttp://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/sisi1/html/tyu-sei2.html
134 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 01:59:25
周家が梶峰城落とした後は志久峠が龍造寺と後藤の勢力境界になってたみたいね
そこら辺で待ち伏せされて供回りもやられ放題な事態になっちゃったと
135 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 12:49:51
もう少し詳しく言うと志久峠(武雄市北方町)は
小城郡北西部梶峰城主多久氏(多久市多久町)
杵島郡北東部武雄城主後藤氏(武雄市武雄町)
の勢力圏の境目

小城郡東部の千葉領小城(小城市小城町)から真西にあって
佐嘉郡南部(佐賀市水ヶ江町)の龍造寺が肥前西部域へ出る時に通らないといけない峠
138 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 18:16:08
それにしても五人なのに四天王って良いセンスしているよなw
141 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/20(日) 09:36:21.97
>>138
ちょっと自分で考えればわからない?「四天王はこの五人です」なんて
誰も言ってないでしょ。四天王の候補者に二通りの意見があるだけ。

「武田二十四将」もメンバーの選び方が何通りかあるけど、「30人以上
なのに二十四将って良いセンスしているよなw」なんて言う馬鹿いない
でしょ?
139 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 20:31:20.64
不可抗力だ
ってか同じ藩が作ってんのに途中で気付かなかったのか
140 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/19(土) 23:05:36.73
西村家秀200町
西村信勢(龍造寺胤明の子)120町
西村信利102町

西村は三根、成松は神埼が本貫地だったと思う
家がつくのが高木・龍造寺宗家系家臣で
『信』つきが隆信直臣だね
142 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/20(日) 19:31:24.13
五人なんてまだまだ少ないな
武田四天王は板垣甘利飯富小山田馬場内藤高坂山県で八人いるぞ
145 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/21(月) 21:52:32.07
>>142
世代交代がはっきり表れてて面白いな。
しかも前世代は一族と国衆、次世代は低い身分からの取り立てという
出自の違いもある。

龍造寺四天王は後世視点だから面白みに欠ける。
第一に鍋島一族が除外されてること、第二に沖田畷での討ち死に者限
定っぽい点。
144 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/21(月) 17:13:45.28
佐賀の圓城寺は諸富町の三重にある
最近ちょっと話題になった三重津海軍所の近く
146 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/21(月) 23:37:00.71
他の家と同じ基準で選んだら、
四天王は鍋島直茂・納富信景・広橋信了の三人が確定だな。
あと一枠は誰がふさわしいだろうか?
148 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 00:02:21.44
>>146
むしろ小河信安が広橋より先に入るだろ
147 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/21(月) 23:42:27.81
龍造寺四天王は功臣を上から数えましたって人選じゃなくて
あくまで豪傑四人衆で、自分で槍奮って戦う下級佐官から尉官ぐらいの階級だからね
161 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 08:29:35.17
>>147
城主や奉行って下級なの?
149 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 01:00:35.74
今山の時期の上級指揮官は方面の守備配置でわかる

東口大手方面:鍋島信房・鍋島信昌・小川信友
北方川上口方面:龍造寺家就・納富信景・広橋信了
対西肥前勢:龍造寺信周・龍造寺鑑兼
対南部水軍:龍造寺長信・龍造寺家親

大友の主力は東口から来る豊後勢だけど
村中城の構造的に北口からの攻撃に弱いから
川上方面を固めている部隊に最精鋭が配置されてる
150 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 01:08:37.95
上級と言ってもこの時は一部隊平均500人ぐらいの小勢なのを留意
151 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 11:16:56.13
隆信が直衛千騎率いて全方位に出陣してたから部将一人の麾下は300〜400人ぐらいだろうね
信昌は直属三百騎だし
152 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 14:46:39.13
四天王の仏教的な意味あいを考えれば龍造寺の人選の方が他のより適当な気はする
153 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 16:31:46.47
広橋一祐軒が戦死した第四次須古城戦で木下四郎兵衛(昌直)の名前があるね
木下四郎兵衛は朝鮮の役にも名前が載ってる

須古城包囲の攻撃配置
本陣:龍造寺隆信2000
北.一間掘口:先陣広橋信了・第二陣鍋島信昌2300
東.白川口・男島砦:龍造寺信周・松浦党員の一部2000
南.湯崎川津口:納富信景1800
南.小塚口:納富信理・副島式部少輔・木下昌直1000?
搦手:龍造寺長信1000?
154 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 19:28:06.41
北肥戦史の杵島郡白石の須古城(高城)についての記述。

然るに彼の平井が居城高岳と申すは僅の小城と雖も北の大手は岩石峨々と峙ち一騎打の細道なり。
西は百町牟田とて深泥限を知らず東は男島に稠しく砦を構へたり。
南は堀を二重に深くほり塀を高く塗りて所々に櫓を掻並べ其構へ事々し。

北は細道になっているから寄せ手を二段に分けて広橋・鍋島が交代々々で攻撃。
西側が搦め手か?大軍が展開出来ない深田地帯に長信。
東側には男島城という出城があり、そこに信周を配置。
南は堀と櫓で守られている所で部隊を複数の小部隊に分けて攻撃。
こんな所かね。
155 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 19:38:13.46
須古平井はもともと千葉家臣だったのが有馬側へついた後に独立した家
159 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 23:43:25.13
>>155
須古城はもともと白石家のものだったのが南北朝頃に千葉が奪取して白石本家が滅亡
分家の藤津郡嬉野氏が白石系の宗家になった
とされる
156 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 20:12:58.49
須古攻め一回目・永禄六年(1563)6月〜8月
須古攻め二回目・永禄七年(1564)2月〜3月
須古攻め三回目・天正二年(1574)2月
須古攻め四回目・天正二年(1574)10月〜12月

一回目はいったん隆信が退いた後、須古平井と隣接する武雄後藤に須古を攻撃させたが失敗
二回目の長信の須古攻撃のあと平井と後藤は同盟を組んだ
これも回数に入れると都合5回になる
160 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/22(火) 23:53:00.33
戦国の頃は『宇礼志野』表記が多いな
169 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 19:44:24.92
>>160
隆信の藤津攻略には重要な役割してるね。
162 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 09:05:24.70
佐官の中で下級でも全体で見たら佐官は十分に高級官。
将の補佐官、尉の上。衛府の四等官でも督・佐・尉・志で上から二番目。
164 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 10:05:22.05
主典(志・サカン)は判官(尉・ジョウ)の従だから『さかん』
通判官(佐・スケ)は長官(督・カミ)の従で『佐官』
四等官の主典は特に『左官(シャカン)』と言い表す事も多い。

佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。
167 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 11:59:47.85
>>164
>佐・佑(サ・スケ)は『さ』で支えとか『すけ』で助とかの意味が出て『隣りでささえる・たすける人』という意味で使われるね。
逆。


もともと漢字の左・右に「たすける」の意味があるから、日本語の「すけ」
の訓があてられた。
「サ」という読みは左の音。
166 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 11:06:27.84
>『さ』で支え
この意味がわからない
171 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 22:14:45.17
>>166
『左』の原義は支える手(叉・漢音サ、呉音シャ)
172 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 22:30:02.38
>>171
それは「『さ』で支え」の説明になってないだろう
「さ」だから支えなのではなく「左」だから支えなのだから
168 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 12:47:31.72
さ(音)に対してのじょう(音)
すけ(訓)に対してのかみ(訓)

って事か
170 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 21:33:59.65
藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど
有馬・波多・大村等が龍造寺に大敗した事で

・有馬義貞は一時失脚、晴純死後に復帰(生前に許されてた復帰した説も)してキリシタンに改宗
・波多親は追放され大友の佐賀侵攻期ぐらいまで復帰出来ず
・大村純忠はキリスト教に改宗した後反乱起こされ追放→復帰も藤津を完全に失陥

という事で晴純の作っていた婚姻同盟勢力が事実上崩壊して
藤津郡は龍造寺が大勢を決めるまでは反大村氏一揆が多数派を占める地域になった
平戸松浦や後藤の大村領攻撃(キリスト教寄進地含む)が激化したのも同時期
173 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 22:42:51.77
支えるは訓字だろう。
音の『さ』から派生して訓の『ささえ』になったと考える方が妥当だと思う。
174 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/23(水) 23:07:57.27
佐嘉のさは栄(サカエ)のさだけどな
あ、今気付いたけど元は(サカ)江だったのかも
175 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 00:10:18.85
永禄6年、大村純忠が横瀬浦で受洗後に大村領で反乱が起きたことについて

フロイス「ドン・ベルトラメウの館や町の家に暴徒が火を放ったので、彼は少数の家臣とともに逃れて町に近い城に入った」
「1ヶ月半領地を失うが、やがて一部地方をのぞき領地を回復した」
1563年11月14日

ヴァリニャーノ「ドン・ベルトラメウは改宗後2ヶ月を経ないで無一文となり国から追放された」
「数ヶ月後に突如姿を現わして城を一つ奪回した。徐々に領地を回復したが、3年後でなければ全旧領の主になることができなかった」

アルメイダ「反徒は大した困難なくドン・ベルトラメウの領地を奪い『彼をして現に籠居せる城』に逃れしめている」
1564年10月14日

どいつが嘘をついているのか
176 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 06:23:46.67
>藤津はもともと大村の本拠地だったんだけど

藤津大村氏は彼杵大村氏とは無関係だったってほんと?
龍造寺重臣の納富氏とか江上氏重臣の執行氏などはもともと藤津大村氏の家臣だったらしい。
177 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 08:50:06.75
藤津郡高津原の在尾に居た大村が『家』を通字にした一族で
彼杵郡大村の玖島に居を構えて居たのが『純』を通字にした大村一族
だったとすると辻褄は合うんだよね、ただ無関係とは言い切れない

当の大村藩は大村景家の子、藤津荘地頭の大村家信が元冦で活躍して
神埼郡内に二町分の領地を貰った辺りからを大村氏の始まりとしていから

納富氏はその時に大村氏の命令で藤津荘納富分から移った御家人だった、としてもこれまた納得の行く流れ
納富には執行分って地名もあるし執行氏と関係ないと断言も出来ない
178 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 08:59:29.87
ただ、肥前内に【富】が付く地名は他に幾つかあるし(吉野ヶ里から出た成富や諸富、微妙だが深江の安富なども)
納富というのが富を納める地、つまり納税所(田倉や)
鹿島に納富分という地名が長く残っているから納富氏はそこの出自だ
179 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 09:16:03.16
ミスった

ただ、肥前内に【富】が付く地名は他に幾つかあるし(吉野ヶ里から出た成富や諸富、微妙だが深江の安富なども)
納富というのが富を納める地、つまり納税所に(田倉や物成、室屋という地名と一緒で物の集積地)由来する苗字だとすると
神埼荘の納富地に居たから納富さん(近所の成富さんと同じパターン)だったんじゃないのかな

あと執行氏については櫛田宮の執行別当職由来(櫛田宮司本告氏と一緒に院親政期に下向)だったと取る方が自然

鹿島に納富分や執行分という地名が長く残っているから納富氏・執行氏はそこの出自だ(納富氏の略図だと確かそうなってた)
とするのは、少し乱暴かなと
十分あり得る話なんだけどね、近いし
181 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 11:03:40.03
隆信の家臣に「四人の槍柱、両弾ニ島」と云われた豪傑のなかに大村弾正の名があるけど藤津大村氏の末裔だろか
しかし有馬氏に内通したため上滝弾正と百武志摩に討取られたらしいが
182 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 11:40:04.14
その逸話ってヤクザのカチコミ以外の何物でもないよなw
183 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/24(木) 16:35:40.88
>>173
別に妥当でもなんでもない。
やまとことばとしてどくりつして生まれた言葉かもしれないし。

>>182
ヤクザがまだ武士的な行動規範で動いてるだけだろ
184 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/25(金) 03:03:49.37
一般的な解釈をすると純忠より前の、藤津に戦力の拠点を持って居た頃の大村氏が藤津大村氏
純忠以後、有馬の下位同盟者で大村城を建て血筋は有馬系の大村氏が彼杵大村氏という事になる

それで大村弾正が何物か、という事だけれど
・もともと五町田に所領を持っていた大村一族
・貴明に付いて後藤領に入った藤津大村の親族
のどちらかしかないように思う
185 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/25(金) 19:18:02.13
合戦場が藤津郡五町田だったらしいから
>・もともと五町田に所領を持っていた大村一族 だったとなるのかな

天正四年二月に隆信が藤津郡の横造城を攻めた時、有馬方から龍造寺へ大村越中守と
名乗る者が降伏してるがこの人物が大村弾正だろか
187 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/26(土) 22:27:09.45
普通はそうだけど、立場が変わった時に合わせて変えた例があった気がする。
例がみつかんねぇや
193 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 14:06:46.42
>>187
弾正忠から播磨守は正六位相当→従五位上相当
弾正(忠?)から越中守は正六位相当→従五位下相当

まぁ自然な変化ではある。
194 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 18:40:21.38
>>193
大村某は有馬の家来だった頃は越中守だったのに龍造寺に投降したら弾正となったらしい
もしかしたら格下げって奴かいな
195 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 22:02:33.64
>>194
忠じゃなくて少弼(正五位下)で格上げという可能性もあるが、
格下げだとおもしろいな(笑)
188 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/26(土) 23:16:01.79
藤津横造城合戦に今山後筑後へ逃亡してた元蒲田江城主の犬塚鎮家が先陣に加わってるが
勝利したのちに領地二百町貰って弾正忠鎮家から播磨守盛家と改名してるね。
189 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 01:56:03.16
同じ時期に大村弾正が越前守に改名したのかも、と

忌み名が残ってるなら藤津豪族系は諱に『景』がついてて判断がつけやすいんだけど
五町田籾岳城主は原直『景』だし
191 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 02:09:39.43
横造城は隆信によって破壊され新しく藤津郡に入った信房が常広城を建設
横造城と同時攻略した鷲巣の方は嬉野氏に与えられたという流れね
192 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/27(日) 05:16:26.63
藤津郡の新体制はこんな感じかな

(日守)嬉野越後守直通 500町
(鳥帽子岩)嬉野大和守通純
(鷹ノ巣)嬉野興右衛門通治
(湯野田)嬉野淡路守通益 70町
(吉田)吉田左衛門太夫家宗 300町
(籾岳)原 豊後守直家 150町
(鳥付)永田備前守純晴 150町
(五町田)上瀧志摩守盛貞 110町
(久間)久間薩摩守盛種 50町

(常広)鍋島豊前守信房 500町
(森岳)犬塚播磨守盛家 200町
(松岡)徳島筑後守信盛 80町
196 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/28(月) 00:19:23.20
>>192
畑方を勘定に入れてないなら
だいたい米が二万石弱取れるぐらいか
197 :無名武将@お腹せっぷく2011/02/28(月) 03:07:09.14
50町の領主なら大体は惣村単体の顔役・主
基本的に50町=500石が惣村一個=小字部落一個


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