2011年02月13日

蒋エン 費イ 姜維の流れを語るスレ

1 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/05(日) 13:11:21
なかったので建ててみた。まあキョウイがずば抜けてるんだけど。

蜀滅亡を語るとどうしてもショウエン、ヒイ時代が重要になってくると思うので。
キョウイの比べて地味な二人だけど。ヒイって結構裏がありそうな人物なんだよな。
正史を見てると。


2 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/05(日) 13:16:56
お、建てれた。三戦板は簡単に立てれるなあ

一応知らない人のために
ショウエン
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E3%82%A8%E3%83%B3
ヒイ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BB%E3%82%A4

キョウイは知ってると思うんで。
ショウエンとヒイは孔明直系なんだよね。
4 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/05(日) 17:09:01
>>1の考察ktkr
5 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/05(日) 23:05:07
蔣琬、費偉、姜維の3人が中心になり北伐してりゃ、成功してたな。
軍事に暗い孔明より、はるかにマシ
6 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/06(月) 01:41:52
>>5
そうだな
7 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/06(月) 10:48:49
>>6
いや、違わないか?w
北伐はどっちみち成功しなかったと思う。
8 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/06(月) 14:26:19
公明の直系て所に怪しいにほひがする
優秀な内政家ってイメージだ
9 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 00:22:39
益州派閥と涼州派閥ってのは実際あったのかね。
考察系サイトとかだと派閥争いみたいのあったらしいが
出身地で派閥組むかな?
10 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 00:27:02
当時の中国では、出身地はかなり重要
出身地が同じだと、簡単に仲良くなれたらしい
王允も、呂布と同郷である点を持ち出して董卓暗殺に引き込んだとか
11 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 00:36:03
ってことは益州出身が数多いだろうから
やっぱ益州派閥が与党になるのか

中国ってそういえば言葉とかどうなってるんだろう?
涼州と益州じゃ距離から考えてもそうとう方言とかあって意思疎通できんかな
12 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 02:09:20
>>9
無かったと思う。蜀内部で何度か派閥争いらしい事件は何度か起きてるけど、
当事者の両方が荊州人だったり、両陣営に荊州人と益州人が混じったりしてるから。
あと、蜀の構成員は荊州人と益州人だけじゃなく、
後漢末の混乱から逃れるために益州に逃げてきた中原の人間もだいぶいる。

>>11
政権中枢はほぼ荊州人が独占してたよ。蜀末期の最高首脳で益州出身なのは張翼ぐらい。
13 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 12:08:23
>>9
漢中幕府派と蜀中央政府という区分けの方がいいだろう
これが出来てくのは劉備亡き後の遠征のために諸葛亮が権力構築してから
逆に言うと劉備生前は派閥なんてなかった
14 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 12:21:48
蒋琬・費禕は諸葛亮の後継指名を受けていたし、席次の面からも姜維は独断で動けない。
また、両人ともそれだけの大局観を持つ有能な政治家だったということだろう。
彼らの死後、姜維を納得させられるだけの政治家がいなかったのが全て。
北伐を国是とする将軍が名実ともに軍権を掌握した以上、誰も制御できないのは当然のこと。
(しばらく陳祗がうまくやっていたのはさすが曲者というべきか。)

諸葛亮・蒋琬・費禕と最高権力者が続いてきた流れの後で、
費禕のアクシデントにより政治と軍事の権力が分かれてしまったのが痛恨。
姜維が有能な将軍だっただけに余計にバランスが崩れてしまったとも言えそう。
16 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 16:15:32
>>13
その区分けだと、誰が漢中幕府派のボスで、誰が中央政府派のボスなんだ?
蒋エンや費イは両方に影響力あったし、ずっと中央にいた董允も特に漢中と対立した形跡は無いんだが。
18 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/07(火) 16:17:45
>>14
陳祗は姜維に協力的だったよ。
むしろ、姜維が外征してる間、その後ろを固めてた。
姜維への反対勢力が成都に出現するのは、陳祗の死後。
20 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 12:14:17
>>18
「制御=反対」という意味で使ったわけではないよ。
「姜維の思うがままにさせるか否か」というニュアンスで解釈していただければ。

費禕の突然の死によって、席次面で姜維を制御することはできなくなった。
その状況下において北伐協力という現実路線で国を運営した陳祗も、
前任者たちとはタイプが違うが優秀な政治家だったということだろう。
もともと費禕に高く評価されていた逸材なんだしね。

そして、陳祗路線で国を運営する才覚がないと自覚していたであろう後任者としては、
北伐の中止(少なくとも抑制)という路線に戻したかった。
そうすると、姜維がその提案を受け入れてくれるはずはないから、
彼の実権を取り上げるという方法しか選択肢がなかったのかな、と思う。

あくまでも個人的な感想だからあしからず。
Jominian氏のように緻密な論理ではないのであまりツッコまないでね^^;
22 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 12:52:37
>>20
陳祗執政中の姜維の出兵記録

253年 数万の兵で南安を包囲するも撤退。
254年 襄武を包囲。救援に来た徐質と会戦して大勝する。河関、臨トウの二県を攻略後撤退。
255年 王経とトウ西で会戦して大勝する。狄道を包囲。救援に来た陳泰の軍と対峙。勝利できずに撤退。
256年 祁山、上ケイに進軍。?艾と段谷で会戦して大敗する。
257年 諸葛誕の乱に呼応して進軍。長城で迎撃に来た司馬望、?艾の軍と対峙。勝利できずに撤退。

陳祗が政権を握っている間、姜維は毎年大規模な出兵を行っている。
完全に陳祗は姜維の思うがままに北伐を行わせており、
段谷の大敗後に姜維の威信が急落した後ですら、出兵を続けている。
姜維が思い通りにできなくなるのは陳祗が死去した258年以降。
陳祗が死去してから254年までの4年間、姜維はまったく軍事行動を起こしてない。
24 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 13:10:30
>>20
薄っぺらいくせに長文ウザいんじゃ
考察するレベルにないならくんな
出ていけカス
26 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 19:09:38
キョウイとしては涼州を取って涼州王にでもなるつもりだったんだろうな。
カンシンみたいな感じで。
27 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 20:38:38
>>26
涼州一州で自立して王になるよりは、
蜀の大将軍・録尚書事・督中外軍事の方がよっぽど権力が大きいと思うが。
宰相で政治と軍事両方の最高権力者だぞ?
28 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/08(水) 20:52:58
8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 20:47:33
コテスレを馬鹿にする糞コテのJominian

三戦皇帝:献帝が三戦コテに官職を発表する
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1289918090/l50

25 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/02(木) 00:15:01
>>1もいなくなったみたいだし、俺の提案も受け入れられないみたいだな。
まぁ、そんなもんだろう。

所詮はコテスレという事だろうな。

27 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:28:42
自分の意見が通らなきゃコテスレと蔑むのかw
発言者の人格が現れているな

31 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/02(木) 14:41:58
要するにJominianは人間性が残念なコテなんだな
29 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 00:07:29
誰もJominianに高い人間性なんて要求してねーだろw
軍事的な考察と知識の豊富さが評価されてるんだよ
30 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 00:50:22
>>29
あいつの人間性は褒められたもんじゃないが、
ブログで書いてる軍事考察は大したもんだな。
31 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 03:15:45
>>29
自演擁護して悲しくならないのか糞Jominian
32 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 04:07:01
>>31
糞レスはsageでお願いします
34 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 18:10:45
>>16
明確な対立構造が出来るのは姜維の頃になってからだろう
それまでは漢中派が中央をグラップリングしてたが権力構造としては
本来上位である筈の中央を漢中が抑え込み
皇帝→漢中→中央政府という二重構造で政権が運営されてたことは間違いがない
36 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 21:22:28
>>34
漢中と成都の対立構造ができるのは、姜維の頃になってすぐじゃないよ。
姜維は費イの漢中と成都の両方に持つ権力を引き継いで、
費イの成都における代理人陳祗ともうまくやってる。
陳祗と劉禅の蜜月関係が続いてる間、
姜維は成都の劉禅・陳祗と漢中の軍隊の両方の支持を得て、毎年出兵を続けてる。

これが崩れるのは陳祗が死んで黄皓が台頭し、尚書令が姜維の思い通りにならない董蕨になってから。
やがて、諸葛瞻と董蕨が平尚書事に、樊建が尚書令になって、黄皓と結託して姜維下ろしに動き出して、
成都と漢中は決裂する。
37 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/09(木) 22:38:30
>>36
だーれがすぐなんて言ったんだ?
対立構造として明確になるのは姜維の頃っつっただけじゃねーか

38 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 11:03:51
諸葛瞻はどうして姜維と対立したんだろう
39 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 13:27:49
諸葛瞻は黄皓が政治をするようになってから滅亡の時までヒキってた
40 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 14:35:24
>>38
なあなあで済ます事ばかり考えて政治を正そうとしなかったとか、
黄皓と付き合っていたとか書かれてるから、
政治姿勢と派閥関係の問題で姜維と合わなかったんじゃないだろうか?
41 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 17:40:48
センが実権を握ったのは最後の三年だけ

みたいのを前に見たんだけど。本当だとしたら
出世遅くない?孔明の息子なのに。
42 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 18:17:55
>>41
17歳で皇帝の娘婿になり、騎都尉任命。
18歳で羽林中郎将となり、その後20代から30代前半の間に射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進。
34歳で行都護・衛将軍・平尚書事。

エリート中のエリートでも、騎都尉になれるのは早くて30代。羽林中郎将は30代後半。
射声校尉や侍中は40代。尚書僕射は50代。衛将軍・平尚書事は60代。

皇族でも有り得ないレベルの超スピード出世ですが何か?
43 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 18:24:25
諸葛瞻は17歳のとき、公主を娶り、騎都尉を拝命した
その翌年、羽林中郎将となり、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された
45 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 20:09:36
センって調べたら結構若いんだな。
キョウイと25歳も離れてるのか、30代後半で死んだのか。
若いとも思うが。

キョウイとか劉備、まあ孔明でもいいけど30で一応それなりに軍率いて戦ってるから
若かったから負けたって言い訳はたたないな。
46 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 20:13:18
ずっと成都の朝廷で要職を務めてきた諸葛瞻にとっては、
ずっと外征してる姜維より、皇帝側近の実力者黄皓と仲良くした方がメリット大きいだろ?
それに軍事経験が無くてずっと成都にいた諸葛瞻が、姜維にシンパシーを抱く理由も無いし。
47 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 20:15:21
諸葛瞻は劉禅の要請で動いたんだったな
都に残ってたのは雑兵ばっかりだったし
とりあえず蜀の象徴として出陣したんだろう
それが逆に漢中の時の曹彰的位置になってあいつを討てば大手柄だと思わせ魏軍の士気上げたのかもしれんが
48 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 20:19:19
綿竹は諸葛瞻・尚親子ばかりがピックアップされてるが
一緒に戦った黄崇・李球・張遵ら名将の子が忘れられてる
49 :琥珀 ◆Y3QOlaygLcAw 2010/12/10(金) 21:00:49
>>48
三国志の事くわしいな。

50 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 21:22:12
>>48
近衛兵の指揮官の羽林右部督李球はまだいいとして、
なんで尚書張遵や尚書郎黄崇のような事務方が兵を率いているのか理解できない。
51 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 21:32:49
>>47
都に雑兵のこすか?最悪に備えて
残すだろ
52 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 21:52:42
>>49
とりあえずここは三戦だからな^^

>>50
それほど人がいなかったかこいつらも象徴的に出したかだな
張遵張飛の孫だし

>>51
精鋭は姜維が率いてるんじゃないか?
しかし諸葛瞻も成都から七万ぐらい率いてた記憶がある
53 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 21:57:13
>>51
漢中にありったけの兵を援軍に送った後だから、
たぶん、諸葛瞻が率いた兵は、実戦経験のない近衛兵だろうな。雑兵と言っても差し支えない。
54 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 22:00:37
あと最前線で戦ってた?艾には勝てないだろ
諸葛瞻は孔明の子って言ってもほとんど戦ったことないし夏侯楙が少しマシになったみたいなもんだろ
55 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 22:08:04
つーかそんなに象徴的やつを出したきゃ劉?殿下でも出陣させろよ
結構士気上げできそうじゃないか
56 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/10(金) 22:24:16
>>54
軍事的には夏侯楙と同レベルじゃねえか?そもそも実戦経験無いんだから。

>>55
象徴ってわけじゃ無く、成都に残っている将軍の中で一番偉いから出てきただけだろ。
官位だけなら、姜維に次ぐ軍のナンバー2だからな。
57 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 14:42:41
>>56
諸葛瞻も一回は勝ったからな
夏侯楙は兵数で勝っただけ

あいつらこんなに官位高かったんだな
しかしこの頃の主力の廖化やら張翼やらがみんな出てるから人手不足だったんだな
58 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 15:28:15
>>57
本来、?艾指揮下の兵力は・天水太守王キ、隴西太守牽弘、金城太守楊欣の軍を主力とする三万。
姜維との沓中での戦いでは、この三将が指揮をとっている。

しかし、山越えの際を終えて蜀本土に侵入した時に率いていた兵力は一万。
この時から蜀降伏に至るまでの一連の?艾の作戦行動の中に、主力で歴戦の武将である三将の名は出てこない。
綿竹の戦いでは、これまでの作戦行動の中に名前が出てなかった?艾の子?忠と司馬師簒が、
諸葛瞻を攻撃して敗れている。おそらく、?艾は山越えの時には主力の三将の軍をどこかに置いてきたらしい。

そして、戦歴不明の?忠と、蜀討伐のために司馬昭が?艾の下に派遣した腹心の文官師簒という、
指揮能力が信用できない二人を諸葛瞻との戦いで使わざるを得なかった時点で、?艾軍の質もかなり怪しい。

主力の三将の軍を欠いていて、軍事能力が怪しい将に指揮させなければいけなかった時点で、
数・質ともに?艾軍はかなり苦しかった。一度諸葛瞻に敗れたのは、数・質ともに苦しかったからで、
諸葛瞻の軍事能力とは関係ないと思われる。
59 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 16:04:45
>>58
おおそうだったのか
諸葛瞻も結局は親の七光りで育ったんだな
とにかく人材不足に尽きるな
60 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 19:01:13
譫は亮の子だけど、一緒に付き従ってた時期なんてほぼ無いわけだし、
彼に亮と同じ功績を求めるのはちょっと可哀そうだな。
61 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 19:11:33
成功者の2代目はぼんくらな法則ってあるしね。
62 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 19:27:01
>>60
でも、出世の速さと、30代で宰相になった地位の高さを考えると、
父親ほどではないにせよ、それなりの功績は残さないと許されない立場。
63 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 19:47:33
とりあえず譫も好きでそこに生まれたわけじゃねーんだからかなりの重圧だったろうな

>>61
だが陳泰や司馬師・昭、諸葛恪なんぞは優秀だったな
この差はどっから来るんだろう
64 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 20:02:25
諸葛亮と陸遜は単独で伝が立てられてる人物として対比されることがあるが、
彼らの二世は功績という観点から見て真逆の立場だな。
譫も抗も期待やプレッシャーが凄まじかったと思うが、何が彼らを分けたんだろう?
65 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 20:18:26
>>63
陳泰や司馬師や司馬昭や諸葛恪は、功績をあげて、経験を積みながら普通に昇進して出世したけど、
諸葛瞻は功績も経験も無いのに、どんどん出世して若くして実力に見合わない地位に就いたから。
ちゃんと功績をあげて経験を積みながら出世してれば、もう少しマシだったかもしれない。

>>64
陸抗は校尉から出発して、功績を重ねて昇進したから。
68 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 21:38:45
諸葛瞻ももっとはやく実戦に出すべきだったな
しかし趙雲の子の趙統みたいに早々と死なれたらさすがに困るが
70 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 21:53:16
趙雲くらいの地位や名声があった将軍は他にいくらでもいたから、
その子孫だって言っても、そんな希少価値無いでしょ?
趙雲の息子なら、地道に実績積み重ねていかないと偉くなれないけど、
諸葛亮の子で皇帝の娘婿なら、超弩級の御曹司だから、
前線に出してあっさり死なれたら困る。
71 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 22:00:08
なるほどな
しかしそんな要人なら護衛の用心棒みたいな将でも付けるべきだろ
要人の警護が甘いから費禕が殺されたりしたんじゃないか
72 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 22:31:44
ヒイは大将軍となりながら、本性のおもむくままに博愛心を示し、帰順したばかりの者をあまりにも信用しすぎていた
結果、魏の降将郭循に刺殺された
悲しいことではある
73 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 22:43:21
そもそも、諸葛瞻は前線に出るべきという考えが間違っている。
諸葛亮死後の蜀の宰相は、姜維以外前線に出て戦ってない。
諸葛瞻は未来の宰相なんだから、戦争なんかやらなくていい。
将軍号を与えたのが間違いだった。
74 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 22:52:17
>>72
信用し過ぎたのがあだになった
郭循は本当は劉禅を刺したかったができなかったから費禕にしたみたいだな
劉禅死んでも後継ぎ劉濬で五十歩百歩だからむしろ魏には好都合だったろう

>>73
確かに諸葛瞻は自ら敵陣に突っ込んでくような勇猛なやつじゃないよな
どちらかと言えば文系
後方で輸送だの物資補充だの指揮してればよかったんじゃないかね
75 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/11(土) 23:24:38
>>74
いや、だからずっと朝廷にいたら良かったんだよ。
それで皇帝の側近や尚書系の仕事を経験して、政治に専念してれば良かったの。
軍事なんか手を付ける必要は無いの。
76 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/12(日) 02:15:16
綿竹は成都の喉元、抜かれたら首都攻防は必至。
蜀は、総力動員して綿竹を防衛すべきだったと思うんだが。
前レスにもあるが、?艾の奇襲部隊は主力では無いので、戦歴で劣る蜀軍でも
総力戦になれば勝つ算段はあった。
問題は剣閣防衛だが、まぁ姜維が負けるなら蜀は終わりだから仕方ないね。
77 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/12(日) 04:11:31
>>76
剣閣抜かれたら、鐘会の13万が四川盆地に雪崩れ込んでくるんだけど
蜀の総兵力以上の軍勢が全軍成都に向けて進軍してきたら、
姜維指揮で総力挙げても負けるわ。
78 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/12(日) 09:13:32
もうちょっと早く鍾会と乱を起こす打ち合わせを出来ていたら、何か変わったかね?
会は晋将だけど蜀の将とも親交があったし(蒋斌とか姜維とかさ)。
79 :燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/12(日) 09:43:29
>>75
完全に文官として生きろってか
まあ孔明も内政型だったからそれもいいだろう

>>78
とりあえず将達の結束がない
鍾会達はいいかもしれんが胡烈とか不満なやつらを手なずけるのが先だと思う
80 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/13(月) 20:12:14
>>78
時間が足りなさすぎる。
そもそも、魏の兵が鐘会にまったく心服して無いと言うのが問題だ。
旧蜀軍の将兵を動かせたとしても、10数万の言う事を聞かない魏兵を押さえられるかどうか難しいと言わざるを得ない。
81 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 18:09:16
ショウカイと乱起こした時点でもうキョウイは老将でしょ?
若いうちにもっとがつがつ攻めさせるべきだったなあ。
84 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 21:11:20
>>80
兵の家族を人質に取ったのがまずかったのでは、あれは
85 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 21:12:48
夏侯覇って、蜀に降ってからはほとんど何したか分からない空気じゃん。
姜維の指揮下で王経を撃破したぐらいしか、記録が無い。
生きてても生きてなくても、大勢に影響無い人間だろ。
87 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 21:50:04
魏時代だって無駄に戦歴長いだけで大した功績は無いし、
夏侯覇程度の実戦経験と能力のある武将なんて、蜀にだって掃いて捨てるほどいるだろ?
頭数以上の役には立たない無能なベテランなんて、いてもいなくても大して変わらん。
88 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 22:06:49
もうちょっと公孫淵が空気読んで存続してくれてたら変わったかも
89 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 22:26:15
遼東公孫氏が存続してても、別に国境に兵を貼り付ける必要は無かったから関係無かったんじゃ?
国境に兵を貼り付けなきゃいけないような関係になった時点で、遼東公孫氏は潰されるだろうし。
91 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/19(日) 23:42:20
>>84
蜀を平定した時点で遠征軍を用いて自立できるほど、
鐘会は将兵の心つかんで無かったから、人質取らなくても兵は離反してただろ。
92 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/20(月) 22:20:28
魏の内部分裂を狙うとか出来なかったのかなあ。
司馬一族と相反してる奴らとかいたはず
93 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/20(月) 22:39:03
魏を割ってまで、蜀と組む魅力があるかどうかだな。
十万以上の大軍を擁して、呉と同盟して反乱した諸葛誕ですら、司馬氏の前に滅ぼされた。
死ぬか反乱するかってところまで行った人間でなければ、
蜀と組んで反乱するより、魏の内部で司馬氏と政争する事を選ぶのではないだろうか?
94 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/21(火) 22:56:11
蜀と組んで魏と戦うより、司馬氏と政争して生き残る方がデメリット少ないだろ
蜀は姜維しかいない上、段谷以後は勢いも無く政治と軍事の連携も惰弱
呉は長江ラインでの防衛に強いが、攻めは弱いし権力闘争で代替わりも激しい
魏は中原に鎮座して最大勢力を擁し、人材豊富で正統王朝という大義もある
95 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/23(木) 11:31:50
中国の広さを考えると遠征して勝つって難しいよな。
行くだけで疲労困憊になりそう。

96 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/23(木) 19:46:07
>>95
実際の軍事活動もそうだが、遥か彼方の戦線や敵の動きを読んで軍を動かしたりするのも
結構大変そうだな
どんなに優れた情報網があったとしても、結局は人力なのでスピードには限界がある
97 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 22:09:42
なんであんな広いのに分裂しなかったんだろうねえ。中国。
蜀は蜀でやってりゃ良かったのに。
98 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/25(土) 23:00:02
>>97
運河代わりになるでっけえ河川のお陰

これらが物理的につないでるから中華圏が成立するわけだな
100 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 12:42:15
>>92
諸葛亮の目標はまさに魏を割ることでしょ。
でも蜀漢スローガンは「北伐遂行内閣」であり、荊州派益州派のバランスのためにも、
魏の分裂を誘うためにも定期的に軍事行動しなければならない。

よく魏延の長安奇襲は名案という人が居るが、長安を手に入れることだけが目標ならそれでいい。
でも長安落とせても維持は困難で、まして進撃できるかというと微妙なわけで、
総合的にはリスクに見合わない行動になってしまう。
魏延とか姜維は軍人だから短期目標しか無くてもいいんだろうけど、そーいう人がトップになると
大国とガチンコ勝負を繰り返した挙句ジリ貧ということになる。

楽毅が斉と戦うのに外交を尽くしたように、小国が大国を攻めようとする時はガチンコ以外の
道を選ばなければいかんということですな。
101 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 12:49:24
>>100
長安維持が困難なら孔明の北伐だって意味なくなると思うが。
孔明だって領土拡大のために北伐してたんだろうし。
102 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 21:17:52
孔明の場合、長安はゴールでは無く目安だったんじゃないか?
仮に到達したとしても、そこで徹底的な防衛戦を行うとは考え難い・・・・・
>>100の通り、魏の内乱や弱点を探りつつの軍事行動だったと思うよ
諸葛亮は慎重だったが、それは先見の明と冷静な分析力の結果だったと思う
魏は何度か負けても耐えられるが、蜀は一度の大敗で国力が一気に傾くし
103 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/26(日) 22:14:39
>>102
長安取った後防衛しようがさらに攻めようが維持できなくちゃ始まらないと思うが。
104 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 10:16:43
長安を維持できない理由
・圧倒的な国力差
・本拠地が遠い
・魏の全力討伐が始まるお
・後背地域(涼州方面)押さえてない
・荊州持ってない
・呉はなにかとやる気が無い
などなど

長安にこだわると遠征軍が孤立撃破され漢中以南も危険。

関羽敗死の時点で蜀の自力優勝はなくなっていることは諸葛亮自身が知っていただろうから、
魏と本気で領土の取り合いをしようとは思っていなかっただろう。

小競り合いで勝ち続ければ敵の権力闘争に影響を及ぼして、離間工作もしやすくなる。
北伐というのは魏の領地を削るよりも魏を揺さぶり続けるという意味のほうが大きかろう。
でもそれは非常に難しいことなので主旨を理解していた蒋苑費偉は自重して国を保ち、
軍功にこだわる姜維はやりすぎて国を滅ぼした。
105 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 13:05:45
>>104
やっぱり馬超は長生きすべきだったんだな。
馬超って名前だけで羌族らとある程度連携がとれるもんな。
羌族を手なずけるだけで涼州方面は大丈夫でしょ?
106 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 13:27:39
>>104
諸葛亮の意図を蒋苑や費偉が理解していたなら、姜維も理解してたはずだからな
やはり、軍功や自身の立場を保持する為に北伐やってたのかなぁ
姜維にとっては、諸葛亮の国内向けのポーズが自分を正当化してくれた形か
>>105
羌族に評判がいいのは、馬超の数少ない美点だからな・・・・・
成都包囲の威圧に一役買った程度で、短命の上に後継も残さなかった生粋の破壊者
107 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 16:47:40
姜維はすごく優秀なんだろうけど、蜀における立場が悪すぎだよね。
戦功立ててなんぼになっちゃうのは仕方ない気がする。

地元の名士でもなく先主以来の来歴も無く元は魏将でしたって辛いなあ。
108 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 17:30:04
でも、姜維は戦功がまったく無いのに、蜀に仕えて6年で輔漢将軍まで昇進して、平襄侯に封じられてる。
これは趙雲が降格される前より高い地位。初めて戦功らしい戦功をたてるのは、その4年後。
109 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 17:45:08
記すほどでもない地味な仕事をこなしてたんだろうけど、
明らかに始めから出世コースに乗ってるんだよな。
蜀が外敵に対して極端にアグレッシブなのは劉備以来の伝統だけど、
一旦規模を縮小した北伐を再び大々的にやるようになったのは姜維の志向が大きいでしょ。
窮地に陥った時、後ろ盾や調停勢力が無かったのは出身のせいもあるだろうけど。
110 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 20:09:32
>>108
正史に書かれてないだけでなにか戦功あったんじゃね。
111 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/27(月) 20:29:53
>>110
蜀に仕えてからの姜維の官職から推測すると、軍政畑と思われるから、
戦功よりは実務能力を見込まれて昇進したんじゃないかと思われ。
33歳で軍首脳の一角の輔漢将軍になれるほどの人間が、
そこまで昇進する前にどんな戦功あったかまったく分からんってのは不自然。
112 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/28(火) 00:58:07
魏からの降将というのもありそう>出世コース
我が国へ降れば良い待遇もらえますよアピールとかさ。
113 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/28(火) 01:24:21
>>112
降伏したばかりの時に将軍に任命されて、亭侯の爵位をもらってるから、郡の参軍事程度の人間には過ぎた厚遇だろ。
普通ならこのまま飼い殺しにしても十分宣伝になるけど、目立った功績が無いうちから、
出世し続けて、帰還する北伐軍を統率して成都に入るという大役を担ったんだから、相当能力を評価されてたんだろう。
114 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/28(火) 22:44:39
キョウイの前半生って結構謎だよな。
親が馬超の乱で死んでいるなんて説もあるけど。
115 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/28(火) 23:32:16
>>114
親父の名前と官職と死因がバッチリ分かってて、
なおかつ学んだ学問の流派や、初めて出仕した時から蜀に降るまでの官職まで、
詳細に記されてる人間の前半生に謎もクソも無い。
116 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 02:58:11
むしろ、関羽の方が謎じゃないか

蜀にとって重要なのは、やはり有能な政治家だったのかな?
軍事じゃ、魏がガチで来たら勝ち目は無い訳だし
生き残るためには、内政と外交でギリギリのバランスを保つしか無かった気が
117 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 07:59:57
なんか蜀って後半は政治家ばかりで軍事が出来る人が少なかった印象。
キョウイぐらいか。あとはエンウとかもいるけど。劉備時代に比べると少ないよな。
118 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 10:06:14
>>116
魏がガチでこようが蜀内部の国力や体制が整ってれば十分守れる
てか実際に最後の滅亡までに魏は何度も攻め込んで負けて帰ってるだろうが
なんでか魏の勝ちが最初から最後まで決まってるかのように語るのがいるのが謎
119 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 10:59:36
魏にとって蜀討伐は国家の命運がかかるほどのものではない
司馬派閥と曹派閥で政争の具に出来る程度の問題なのである

で任されたほうは何か失敗して弾劾されてはかなわんので自然と事なかれ的になる

諸葛亮の狙いはそこにあり、勝たなくても負けない状況を長く続けることで
魏の内部抗争を助長できると思っていたのであろう

実際のところ司馬派がキレたり、もっと力がなかったら分裂していたかもしれないよ
120 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 13:56:24
事なかれ・・・?
魏は諸葛亮の北伐にも姜維の北伐にも
何度も野戦で挑んで負けているというのに・・・?
むしろ諸葛亮の北伐では野戦で負けまくってるから防衛主義になってるような
121 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 14:00:05
諸葛亮の北伐では野戦で、しかも追撃した将軍は二人とも死亡
正面からの会戦でも蜀軍が勝利
これでなして事なかれ主義なのかわからん
122 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 14:39:41
思い切ったことが出来ないから負けるということがわからないのだろうか
123 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 14:46:25
普通に正面から挑んで負けているだけなのに言い訳がましいと思わないのだろうか
124 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 14:51:17
仲達なんかお得意の機動強襲で正面から孔明の本陣を狙い、
なおかつ歴戦の張コウに背後から襲撃させるという大胆な策戦で挑んでいながら
諸葛亮率いる蜀軍に両方とも大破させられているというのに
これで言い訳するのは無理ありすぎ
125 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/29(水) 19:40:33
>>119
司馬懿の派閥が弱すぎたから、曹爽派に圧倒されて、
クーデター起こさないと覆せないところまで来たんだが。
126 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 22:02:00
蜀軍は局地的には強かった。特に隴西での軍事的プレゼンスというやつでは、
諸葛亮に留まらず姜維時代のかなりの時期まで優勢を維持していた。

しかし、「状況を作れば戦場では勝てる」という以上の優勢を築けないまま、
国家レベルの戦略構造を覆すような大勝や政策を生み出せずに、30年を過ごしてしまった。
その間に魏は苦闘しながらも隴西の支配力を順次強めていき、
反撃可能な体制を生み出し、実際に反撃を成功させた。
これが勝敗の岐路。
127 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 22:14:09
もうそのころには魏じゃなくて晋だけどな
てか小国相手に30年かけて反撃する大国って…
128 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 22:28:01
魏だよ。

で、日本とは何もかも基準が違うんだよ。
洛陽から天水まで直線距離で直線距離で500キロあるんだぜ。
百年の衰退と30年の分裂の末にようやく中原を統一した、
支配人口が前代から1/5になるまで統制力が弱体化した国家が、
500キロ彼方の異民族や不平軍閥で溢れかえる地方を、
しかも敵国からの断続的な侵攻・調略・略奪を跳ね除けながら、
数万の大軍の兵站地として使えるまでに整備するのに、30年かかった。
どこかおかしな所があるだろうか?
129 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 22:48:35
魏じゃないだろ
名前だけそう残ってるだけで、もう魏の皇帝にすら誰も従わず
司馬一族の旗を仰いでる状態
これで魏の手柄とかいわれてもな
しかも、結局蜀を滅ぼせたのは、蜀の内部が姜維の無謀な軍事行動で
崩れていたことが大きいし
130 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 22:50:48
>>128
>数万の大軍の兵站地として使えるまでに整備するのに、30年かかった。
つまりそれ以前に10万近い大軍で何度も行われ、そのたびに蜀軍に撃退されて泣いて帰ってた魏軍の対蜀遠征は
あなたの中ではなかった事になってるわけですね、わかります
131 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:10:02
>>129
じゃあ、そんないい加減な言葉を使わずにせめて「司馬氏時代」と言ってくれ

>>130
意味がわからん?

隴東からでは五倍の戦力で攻めても、秦嶺一点に防備を固めた漢中は落とせないってだけだよ。
無論これは、数次の対蜀侵攻の成否や、魏の西方政策を現代の視点から分析した結果論だ。
当事者達は千里眼じゃないから、曹叡や曹爽は「戦果が出せる」と踏んで侵攻したのだろう。
一方、攻防両面の価値から隴西強化を図ったり、異民族の収攬に尽力したのが司馬孚・懿、
郭淮や?艾の事跡。個々人がどれだけ蜀の軍事力を高く評価していたかは一概には言えないけどね。
魏の対魏政策は、直接攻撃と西方安定の間を揺れ動きながら徐々に後者へシフトしていっている。

対する蜀は、30年前には秦嶺の数本の細道に集中していれば済んでいた防衛戦力を、
260年代には東西300キロに展開せねばならなくなっていた。この状況で魏の大動員を受けると、
数の劣位がもろに効いてくる。どこか一つでも突破されれば、全戦線を縮小させねばならない、という状況。

段谷の敗戦がなければ、という思いはもちろんあるのだろうが、
もはや二国の戦略条件自体が、「戦場なら勝てる」から、「なんとかして戦場で大勝しなければ後が無い」
まで後退していたんだ。「大敗しない」だけでは遅かれ早かれジリ貧は免れなかっただろうね。
132 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:26:30
>>131
んじゃ司馬時代だから魏じゃないでFAな

だから結局司馬が侵攻できたのは姜維が段谷で大敗し
漢中の防衛軍を引き払って遠征軍にし、それを遠征ですりつぶす、なんていう
非常識なことやったからであって
それがなけりゃ王平がやったように漢中で諸陣営と城のネットワークで魏軍の侵攻ルートふさいで終わり
これが無かったから侵攻軍は攻め込めただけ
これがあったら普通にいつもどおり魏軍のほうがジリ貧になっておしまい
133 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:31:46
それを言うならせめて「司馬氏時代だから曹氏時代じゃない」。だろ。国の実効支配者という意味で。
なんでこんなくだらないことで負けないプレイするんだよ。
134 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:36:37
>>133
だって国は既に司馬一族のもので
司馬昭も晋公の位につく事が規定路線になってる
蜀滅亡の2年後にはめでたく名実共に魏は滅亡
ぶっちゃけこの当時の魏なんて、それこそ曹操が漢を傀儡にして魏国おったてたころと
同じ状態だろ
これで曹操の国を漢だとかいったらそれこそお笑い草だろ
135 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:41:14
>>132
全然違う。
天水・狄道ルートから十分な兵力で南下されると、漢中を経由せずに巴蜀を荒らしまわることが出来るんだ。
王平が漢中でいくら頑張っても意味が無い。

だから武都・陰平に戦略価値がある。姜維の手元に十分な兵力と成都からの信頼があれば、
ここで機動的な防御を展開することで、263年時点の亡国は防げた可能性は高いだろう。
しかし、「負けない」だけでは、魏に固まりつつあった隴西情勢を変えることはできない。悪化していくだけ。
秦嶺ほどの要害ではない西方二郡では、大軍を向こうに回した防御にいずれ限界点が来る。
結局は、諸葛亮にも為し得なかった規模の決定的な「大勝」を求めて、隴西へ出陣さぜるを得ない。

姜維は、失敗はしたが、非常識でも無策でもない彼我の国力なりに理に適った軍事行動を展開したんだよ。
136 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:44:30
>>134
いや…曹操の魏公王国や司馬氏の晋公王国を指したつもりならいいが、
曹操が丞相をやってた国を魏と言ったら笑われるのはあんたの方だよ。
137 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:49:25
>>135
それこそ無理無理
結局魏軍は263年には諸方から進軍しつつも漢中に入って集結し、
そのまま漢中の攻略に入ってる
姜維もその後で剣閣で防いでるように、漢中を経由せずに、なんてそれこそ夢物語
大体諸葛亮時代でさえ、漢中から武都・陰平にいたるルート使ってるのに
なんでそんな天から降ってくるようなルートになるんだか
結局トウガイがやった攻略ルートは無謀無謀といわれてたルートで退路もなく、
蜀国内が十分固まってたらあっさり防がれて全滅するのがオチ
蜀内部が厭戦気分になり、兵力も磨耗していた事から成功した仇花にすぎん
138 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/30(木) 23:51:54
>>136
あれを漢だと本気でいったら笑い話にもならんと思うが
単なる曹操の支配する軍閥にすぎん
司馬の支配してたのも同じ
139 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:05:52
>>138
じゃ、まずは適当な三国志ファンに
「曹操が丞相をやってた国って魏だよな」って言ってみようか。…笑われるでしょう?
あんたの言いたいことも十分にわかるし、蜀を倒した国は実質晋だよ。それはあんたに反論してる人らもわかってる事実。
ただ>>134の最後の一文は余計としか思えない。
140 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:11:46
>>139
十分にわかるならそれでいいんじゃないか
曹操軍閥とでも呼べばいい
141 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:12:00
ゴメン途中で送信してしまった。
あと>>127の
>>もうそのころには魏じゃなくて晋だけどな
このいい方じゃ誤解を招いてもしょうがない。
「もうその頃の魏は実質晋」これはここに書き込んでる人全てが納得してることだと思えるし、
後は言い方の問題でしょ。まだ名の伴わない晋、もう実の伴わない魏。どっちで呼んでも間違いじゃないと思う。
先に言ったように、晋ってだけじゃ誤解を招くと思うけどね。
142 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:13:19
あんたはその状況で魏の皇帝だったら、漢中に一兵も送らず西側だけに軍を送るような愚策を執るのかい?

この戦略の要点は、東西数百キロの広範囲に小国の兵力を分散させることで兵力差を最大に生かすことにあるんだぜ。
当然大軍で漢中を攻めて漢楽二城や陽平の兵力を釘付けにする。
それでも蜀が漢中しか守らない大馬鹿なら、例えば武都から真東へ取る道と、白水まで出て再北上の道とで、
陽平関を北西南から包囲することが出来る。それで(姜維だか王平だかが主力で守る)漢中は完全に封鎖される。
成都から来た援軍が剣閣辺りを守るなら、漢寿から東方盆地の巴は荒らし放題。
263年頃の魏はそこまで圧倒的な侵攻能力は持っていなかっただろうが、北伐が止まって10年もすればどうか?

敵を四川盆地に入れれば生産力に甚大な打撃を受けるわけだから、蜀漢は武都・陰平を前線基地にしたわけで、
最初の主戦場はまずここになる。無傷で剣閣まで引き込んで逆撃大破、なんてのは起きない。

それから、263年での魏は漢中に集結していない。諸戦線の中で陽平関陥落が最初の突破口になったというだけ。
おかげで漢中盆地は孤立し、姜維は二郡を放棄して剣閣まで退くはめになった。
ここまで後退してから侵攻を撃退したとしても、蜀漢の国力は段谷の比ではない打撃を被っただろうね。
144 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:21:55
>>141
その後でもごねてるようだが
>>142
あの状況で魏の皇帝だったらそもそも実権がないので兵も送れないな

だからもともと漢楽や陽平の兵力は姜維の無謀な軍事行動で
兵力を失っているから相手にもならん
集結してるぞ
主力のショウ会率いる大軍は漢中から剣閣至ってる
諸葛諸の兵力も吸収した上でな結局剣閣の防備がにっちもさっちもいかなくなったから
トウガイが無謀無謀といわれながらも陰平の間道を抜ける作戦を実行したわけで
この作戦自体、蜀側の黄崇が言うように、そのまま兵力を前に出して要害押さえるだけで
魏軍は立ち往生して全滅するしかない作戦だったわけだけどな
結局のところ、魏は主力を漢中から進めざるを得ず、姜維の無謀な軍事行動で兵力が減ってなければ
漢中常駐の兵力でそれを押さえ、後詰の兵で他の枝葉に十分対応できるだけの話でしかない
145 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:39:28
>>144
武都と陽平関が落ちないと、諸葛緒と鍾会は合流できないんだよ。地理的に。
?艾が合流するにはさらに陰平陥落が必要。
この近辺を守っていた姜維は、はじめ陰平方面で?艾と対峙し、
鍾会が漢中に侵入したと聞いて後退し、武都へ進出した諸葛緒に退路を阻まれ、
さらに陽平関が落ちたと知って四川盆地内まで後退して剣閣に立てこもる、と戦力分断に翻弄されている。
(それでも後退できたのはすごいが)
その後に、魏の三軍が合流する道ができた。?艾は実際にはしてないようだが。

だから、
>結局魏軍は263年には諸方から進軍しつつも漢中に入って集結し、
>そのまま漢中の攻略に入ってる
これが間違い。
「漢中(実質は陽平関のみ)を突破したことで、三軍が集結可能となり、そのまま剣閣の攻略に入った。」
というべき。
146 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:51:13
>>145
だから、結局漢中に主力が進み、その後で漢中で諸軍が集結し、剣閣にいたるルートは
変わらない
これで何をいいたいのやら
しかも漢中の陽平が陥落したのは兵力少なくって自分で降伏したものだしな
もともと蜀軍の後詰自体も占いを信じた劉禅の援軍遅滞が原因となって遅れており
兵力が磨耗してなくて国内が固まってる状態なら、漢中守備の常駐軍で魏主力を防いで
後詰の兵力で枝葉防いで終わり
陰平ルートに進んだところで全滅するのがオチ
実際にショウ会は剣閣の防備が固くて撤退することを検討してたくらいだからな
147 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:51:52
>だからもともと漢楽や陽平の兵力は姜維の無謀な軍事行動で
>兵力を失っているから相手にもならん

王平時代の漢中戦力
:総数3万弱

姜維時代の同
:漢楽二城 計1万
:姜維が配置した陽平〜武都間の防御戦力
:陰平方面を守る姜維本隊

兵数自体は、そんなに劇的に減っているかというと疑わしかったりする。
徴兵を受けて本国の衰退や人心離れは起きていたかもしれないが。
148 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 00:54:41
>しかも漢中の陽平が陥落したのは兵力少なくって自分で降伏したものだしな
その状況を引き起こしたのが、隴西の戦略情勢の変化だ、と繰り返し言いたいのだが。

>後詰の兵力で枝葉防いで終わり
同じことは既に言った。
>だから武都・陰平に戦略価値がある。姜維の手元に十分な兵力と成都からの信頼があれば、
>ここで機動的な防御を展開することで、263年時点の亡国は防げた可能性は高いだろう。
そのうえでこう言った。
>しかし、「負けない」だけでは、魏に固まりつつあった隴西情勢を変えることはできない。悪化していくだけ。
>秦嶺ほどの要害ではない西方二郡では、大軍を向こうに回した防御にいずれ限界点が来る。
149 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:06:13
>>148
だから関係ないっつーに
姜維が無謀な軍事行動で漢中守備軍を遠征軍にしてすりつぶしてなけりゃ
防衛兵力としちゃ十分
実際にそれで防がれてて蜀滅亡のときの魏兵力だって同じくらい
結論ありきで無理にできないことにしなくていいんだよ

言ってない言ってない
単にあんたが自分に都合よく変えてるだけ
結局西方2郡とやらで魏軍が展開した兵力は数万程度
防衛戦力として後詰の軍から割いてやれば十分すぎる程
それとも無謀な陰平ルートにでもすがるのか
151 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:16:30
>遠征軍にしてすりつぶしてなけりゃ
姜維本隊は遠征軍であると同時に、二郡守備軍として機能してる。
姜維と漢中軍が漢中に引きこもっていたら、武都・陰平救援は成都からでは絶対に間に合わない。
鍾会が陽平関を落とせなければ、?艾と諸葛緒が無理して剣閣まで到達する必要は無い。
各三万の大軍で二郡支配を定着させ、漢中-陽平-剣閣-フ-成都と連なる主要街道を
いつでも横撃できる距離に前線基地を置いて終わり。
蜀が隴西に行った波状攻撃による揺さぶりを、以後魏が四川盆地に対して行うことになる。
152 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:22:14
>>151
段谷の敗北からその後の無謀な戦役の消耗がない状態なら
漢中守備軍にもともとの数万があり、姜維の手持ちに数万の兵がある事になる
これで漢中で魏主力を迎撃し、枝葉の対処で姜維の手持ちを使えばいい
そのまま後詰兵力が到着して魏はいつもどおり突破できずに終わり
後は無謀な陰平ルートにでもすがって全滅するくらいしか手はないな
ま、そんな事せずに帰るだろうけどな
153 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:23:47
曹爽は6万程度の兵力で漢中を攻めて王平3万に防がれた。
鍾会は漢中を攻めた手持ちだけで10万あったうえに、陰平・武都を攻めた隴西根拠の別働が6万。

この兵力差が魏の西方経営の成功を物語っている。
154 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:25:33
>>153
7万だろ

曹操も曹真も十数万の兵力で挑んで蜀軍に防がれておしまいでしたとさ
155 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:26:40
>漢中守備軍にもともとの数万があり、姜維の手持ちに数万の兵がある事になる
それって計6-8万の規模ってことか?
成都を初めとして全国から動員が掛けられる遠征時なら頷ける数だが、
漢中常備の守備力としては夢想としか言いようが無い。
156 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:29:13
>>154
>隴東からでは五倍の戦力で攻めても、秦嶺一点に防備を固めた漢中は落とせないってだけだよ。
>この戦略の要点は、東西数百キロの広範囲に小国の兵力を分散させることで兵力差を最大に生かすことにあるんだぜ。
>この状況で魏の大動員を受けると、 数の劣位がもろに効いてくる。どこか一つでも突破されれば、全戦線を縮小させねばならない、という状況。
>天水・狄道ルートから十分な兵力で南下されると、漢中を経由せずに巴蜀を荒らしまわることが出来るんだ。
157 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:29:30
第一、劉備時代には下弁に曹休や曹洪、曹真などを置いて数万単位の軍をおいており、
本当にそんな事ができるなら、漢中攻防戦のときに曹操主力が劉備と対峙してたんだから
さっさとやればよかったろうに
158 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:33:13
>>157は>>154の続きな

>>155
実際に蜀軍は諸葛亮時代に漢中を常時策源地としていたが、このときには5万から6万程度の兵は常駐してるはずだぞ
>>156
だから答えに成ってないレスでコピペっても意味なんかないの
漢中守備軍で主力防いで南下軍とやらを後詰で防いでおしまい

てか、あんたの主張って「兵力増えたから魏の経営成功!!!!」じゃないの?
全然関係ねえじゃん
それと>>157が加わるわけね
159 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:37:26
地理をよく見てくれ。
隴蜀争奪の最要衝は、北に散関、東に南鄭、西に武都、南に四川盆地が繋がる中心に位置する陽平関なんだよ。
曹操時代は漢中を兵站の補助地に、陽平を交通の起点にしたから、最短距離で武都や下弁へ進出できた。
陽平関がなければ、武都までいくのさえ、天水と秦嶺山脈を迂回せねばならず、隴西の治安維持と兵糧備蓄が重要な課題となる。
曹操の時代には、中央から一時的に大兵力を持ってくることが出来ても、兵站を維持する地力が到底足りない。
それが整備されるのに250-60年代まで掛かったんだ、と繰り返し言ってるのに。
160 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:41:11
「兵力増えたから魏の経営成功!!!!」
厳密には違う。魏国が保有する絶対兵数のことを言っているのではない。

「隴西に常駐し、そこから長駆侵攻できる兵站環境が整備されて兵力増えたから魏の経営成功!!!!」
だ。

>実際に蜀軍は諸葛亮時代に漢中を常時策源地としていたが、このときには5万から6万程度の兵は常駐してるはずだぞ
根拠が無い。先に王平時代の成功を挙げておきながら、三万では姜維時代と変わらない言われてから増やされても困る。
161 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:42:49
俺、かなりの姜維擁護論をぶってるはずなのに、蜀厨?の人に魏厨扱いされるのってなんか妙な感じだなあ。
162 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:50:36
>>159
だから何度も言ってるだろ
既に下弁に曹休達がいるって
あんたのいう事ができるんだったらさっさとやれって話だ
>>160
だから曹操時代に既に下弁にはだなry

根拠あるだろ
お前の中では北伐は常に2万以下で行われてたのか?
魏延が一万の兵をよこせ、と言ってたのを採用したら、諸葛亮の本軍は半分以下になる
第一北伐ではバショクに任せた先発隊が2万で諸葛亮がその後方に本隊
どう見ても5〜6万はいる
>三万では姜維時代と変わらない言われてから増やされても困る。
こんなことお前は一言もいってない
163 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 01:51:34
>>161
姜維擁護論というか
無理やりに魏の勝利は絶対的!みたいに持ってこうとしてる様子が見える
164 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 02:28:51
>下弁にはだな
地図を見た?
漢中と陽平関無しで、下弁の曹洪軍を維持し、しかも蜀へ南下できると思うなら、どんな兵站と連絡道を使うのか教えてくれ。
むしろ漢中があってさえ下弁が争奪点になる辺りが当時の曹操の限界。

>お前の中では北伐は常に2万以下で行われてたのか?
中華の兵制をなんにも理解していないね。
この時代、常備兵なんてのは少数なんだよ。
兵戸であれ、徴兵であれ、普段は全国で農事についている。
力役の順が回ってくると、首都や前線へ入れ替わりに赴いて守備に就く。
そのため、兵役に就いているのは平時なら兵役人口の数%。分かると思うが、現代の徴兵制と同じ構図だ。
三国時代ならこの割合は跳ね上がるだろうが、その多数の就役地は前線ではなく首都。
首都近郊が最も豊かな兵糧生産力を持つし、多くの地方ではそんなに大軍を常駐させる屯田地がない。
そのため、三国とも敵の襲来を受けてから首都から主力が進発するという後手の問題が起きるし、
辺境の兵糧生産力を向上させることに特に尽力したのが魏。

大軍の遠征や、危急の時には大動員が掛けられて、限界一杯の兵員が招集される。
しかし、王平の時代、『漢中単独』では三万しか召集できなかった。これは現地戸籍民と、
他郡から就役していた守備兵を合わせた数になるだろう
諸葛亮時代の八万とか十万という動員は、『蜀漢全国』から成年人口の何割かを動員する数年に一度の大事業になる。

衰微していたとはいえ、蜀滅亡時の人口百万や兵員数十万を考えれば、
単独では大した人口を養うことの出来ない漢中が三万を擁していたというのは、
蜀漢最大の重要拠点に相応しい「大軍」と言うことが出来るだろう。
165 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 02:41:49
>>163
蜀漢末に至ってはほぼその通りだろうね。
そこで最初のレスに戻る。

>しかし、「状況を作れば戦場では勝てる」という以上の優勢を築けないまま、
>国家レベルの戦略構造を覆すような大勝や政策を生み出せずに、30年を過ごしてしまった。

蜀漢には三十年の時間があった。根本的国力差という大きな壁があるが、
それをどうにか乗り越えて隴西、さらに隴東での戦略的優位(「戦場でなら勝てる」なんて優位ではないよ)
を確立するすることが出来れば、歴史は変わっただろう。
それをやろうとしたのが諸葛亮や姜維だ。
その結果の段谷の大敗というのは、兵家の常というしかない。その後に起きた成都との不和は別問題だが。
確かに段谷によって「蜀漢末」の到来が260年代に早まったかもしれない、それがなければ10年20年の延命ができたかもしれない。
が、純軍事に限るなら、小規模でも隴西霍乱は必要な戦略だし、
誰かが段谷と同じ挑戦を、しかもできるだけ早く遂行しなければ、戦況は逆転できない。

純軍事以外の手段でなら、また方法もあるかもしれないけどね。
166 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 05:12:37
姜維は、軍事主眼の戦略だっただろうし、内政から剥離した状態だったので
他に効果的な方法は考え付かなかったのかも知れんね。
段谷の大半に関しては、一方的な姜維の作戦ミスとは言えないので、そこが
上手く運んでいれば・・・・・・という感はある。
でも、責任は姜維一人で負ってるんだよな。
168 :無名武将@お腹せっぷく2010/12/31(金) 07:49:05
蒋エン達と一緒に初詣へ行きましょう、えんりょする事は無いから。
別にヒイをひいきしているわけではないよ。
姜維にきょういくって言っちゃっただけだしさ。
169 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/01(土) 23:35:22
涼州ってさ三国志のゲームとかだと左上のたいしたことない地域だけど
あれずっと左上の向こうぐらいまで影響力あるわけでしょ?
170 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/01(土) 23:53:52
魏の時代は敦煌ぐらいまでしか支配を受け入れてないけど、
実質的には関中より西は半分別天地。
171 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/02(日) 12:10:30
>>169
前漢や唐のような強大な帝国なら彼方へと影響を及ぼせる、って話で、
魏晋南北朝のような弱い時代では逆に不安定な敵になる。
だから三国時代ではゲームくらいの「弱い辺境」ってくらいい。
数字に出来ないところで、服従させられない異民族が群をなしているわけだが。
172 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/03(月) 11:43:21
>>169
并州と涼州って理念上、隣接する州なんだぜ。
173 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/04(火) 21:07:06
地図上の左から回って北上するとかはできなかったのかね。
174 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/04(火) 21:15:01
三国時代なら、并州らへんの鮮卑が西南へ突っ切って、雍州を攻撃したりしてる
175 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/04(火) 21:32:34
>>173
北伐の話か?
それが隴西経路だってばyo
177 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/05(水) 03:02:28
>>174
まぁ漢や魏の統治が及んでないってだけで人が通れない地域ってわけじゃない
からな。
178 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/06(木) 10:55:23
>>169
ゲームでは世界の隅っこ、なんで魏に反抗しようと思ったかも理解できない
地味な方の公孫氏はゲームよりは影響範囲広かった。朝鮮半島の少なくとも
北西部まで支配してたとみていいだろう。
179 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/06(木) 23:49:40
>>178
しかも海洋貿易で呉とも繋がってたんだろ?
そういう意味で言ったら、呉が手を伸ばした範囲も相当広かったはずだな
180 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/07(金) 00:01:11
>>178
憶測するまでもなく、公孫度の時代に朝鮮半島北部の楽浪と帯方を手に入れたとバッチリ公孫度伝に書いてある
181 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/07(金) 08:26:45
>>179
呉が手を伸ばしたと言えば台湾(?)だよな。
益州南東部にも手を出して諸葛につぶされてる
182 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/10(月) 22:13:03
実際アレだけ広いんだから成都陥落なんてありえないよなあ。どれだけ怠けてたんだ?
って感じ。
183 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/10(月) 22:39:16
まともな部隊を全部剣閣に送っちゃって、残りも?艾に負けたから、あとは成都へ一直線だろ。
しかも、成都には食料がほとんど無い。真面目にやったら兵や食料が湧いてくるわけでもないし。
184 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/11(火) 01:11:50
蜀の勢力範囲に対して、実質的に使える土地は半分以下じゃないのか?
しかも兵士の最大動員数も全盛期で約100万、末期はさらに少ないはずだし、
常にその数を動員出来るはずもなく・・・・・・
この時代、ましてや蜀みたいな峻険な土地では、面では無く点と線で戦局を見る
185 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/11(火) 14:42:02
南方も馬忠や張嶷が抑えてれば資源供給するし兵も出せたかもしれないが、
二人が死んだあとはどうなんだろう。
186 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/11(火) 15:56:05
霍弋がいるじゃん。蜀が滅亡した後はそのまま晋の南中の都督に横滑りして、
交州に攻め込んで呉から奪って、部下を刺史に任命するほどの勢力を誇ってたから、
その気になったら結構やれたかもしれない。
187 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 18:58:47
末期ってなんで豪傑少なくなるんだろうか

初期って名も無い農民や山賊にもめちゃくちゃ強いのがいて曹操や劉備は取り立てている
何時の時代にも元々強い人はいるだろうに、末期にはこれだという豪傑が出て来ない
188 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 19:41:55
>>187
名も無い農民や山賊から、曹操や劉備に取り立てられた豪傑なんていないんだが。
農民あがりとか山賊あがりとかいうイメージ付いてる奴は、
ちゃんと調べたらもともと豪族か侠客か役人のどれか。
189 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 19:50:36
武勇達者な人間というのは、中小群雄がひしめいていた時期に群雄の直下で百とか千とかいう規模で活躍し、
勢力伸張や鞍替えに伴って昇進していった人間。
国家が成立すれば、群雄ではなく皇帝の直下の軍人とは、数万規模の軍を率いる都督となる。
小部隊の長と大軍の都督では、当然必要な能力も出身も若い頃の経歴も異なる。

武勇達者な人間は相変わらず百や千の部隊を率いて活躍していたはずだが、彼らが歴史に名を残すほど
出世するのは非常に稀な例となっていく。

割拠期と鼎立期と、どっちの軍が強いかといえば後者だろうね。
190 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 20:09:51
戦術とかちゃんとしてる正規兵の方が強いだろうけど。
あの時代どれぐらいの戦争してたか分からないんだよな。

集団戦とかあまり関係ないなら正規兵じゃなくても十分使えると思う。
191 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 20:40:32
しょっちゅう戦ってたと思うが。賊や小さな反乱の討伐とか、国境での小競り合いとか。
192 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 20:43:35
県ごとに軍閥が割拠していた時期なら、戦術も怪しくて一人の剛勇が先頭に立って戦況を変えることも頻繁にあったかもしれないけど
そこに集団戦の出来る正規軍にやってこられたら同数ではとても勝てないだろう。
戦争ってのは、設営と兵器を担いで行軍して、毎日衣食住を整えて、地形を見て陣を張って、偵察して、適切な時期に会戦して、
それを何十日も維持して…と、煩瑣な手続きを繰り返しながら最後まで勝つ力を維持しなきゃならない事業だ。
地元の反乱兵には殴り合いの強さとは別に地の利とか兵站の有利とかあっただろうけど。
193 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 21:31:49
三国鼎立後期の張疑と吾彦とかは、個人的武勇で名をあげた武将なんだが。
194 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/12(水) 22:33:49
順序が逆なんだよ。
割拠期に出世した者の中には、個人的な勇猛さで頭角を現した者もいる。
その中でも大きく出世した人間は、小単位の勇猛さだけではなく、大局を見る指揮能力も持っていたことになるだろう。

安定期の張嶷や吾彦は、官吏として有能で出世して軍事を担った人間だ。
それがたまたま武勇も併せ持っていただけ。
戦場にあるに当たって、彼らの武勇は勿論有利に働いただろうが、
豪傑的な小さな局面の戦働きを積み重ねて出世したわけじゃない。
195 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/13(木) 01:59:39
群雄割拠時は腕っ節だけで成りあがれるけど、
国が安定してくると他の要素も必要になってきて
ただの腕自慢は名前の残らない兵士になるってこと?

群雄割拠の時代に豪傑と呼ばれてた連中より強い
安定期の一般兵とかもいたのかな

196 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/13(木) 02:18:17
>>194
吾彦は陸抗に武勇と肝の太さを見込まれて取り立てられたし、
張嶷は山賊の群れの中に斬り込んで上司の家族を助けたのがきっかけで劉備に取り立てられたんだが。
197 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/13(木) 07:18:38
張嶷は県長の妻を助けるという義勇で、郷論の目に止まって士人と認められるようになったもの。
夏侯惇などと同じ。彼らは個人の腕っ節が評価されたのではない。

吾彦は文武才幹有り、という人物。「小将」という下級指揮官から成り上がったという
この時代ではかなり珍しいケースだが、
陸抗に「勇略」を認められて諸将の前で胆力を示して抜擢されたもの。
敵陣に突入して取った首の数とかが問題にされた初期の勇将達とは明確に違う。
198 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/14(金) 15:59:39
シナは原則武人蔑視だから、勢力が安定すると文官が郡を支配する理想形
に収束される。
小軍閥が成長していく間は小隊長クラスが叩き上げで将軍になることも多
いが、世代交代するうちに軍の高位が文官のものになる
199 :無名武将@お腹せっぷく2011/01/14(金) 17:40:09
蔑視というよりさ、国家機構が、官僚制度と祭祀礼教と文書行政で成立しているんだから、
それに適応できない人間は役に立たないので出世しない、ってこと。
群雄割拠の時代ではこの機構が崩れるので、官僚型ではない人間に出世のチャンスとなる。


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