2011年01月12日

豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い

1 :人間七七四年2009/08/20(木) 17:04:13 ID:Pv0kr0Tu
スレタイ通り。


2 :人間七七四年2009/08/20(木) 17:16:58 ID:9eGU0gxL
豊臣には普代の家臣がいなかった
身内に頼ることになった
3 :人間七七四年2009/08/20(木) 18:57:00 ID:BrOVCxhJ
底辺から大名まで引き上げてもらった加藤らは「豊臣」や「羽柴」ではなくて「秀吉」個人に仕えてたんだろうな
4 :人間七七四年2009/08/20(木) 21:02:53 ID:SwsQiwe3
豊臣の衰退は秀吉が甥一族皆殺しとかDQNなことやった
報いだよ。
5 :人間七七四年2009/08/20(木) 21:11:57 ID:wmHE739K
まじめな話をすると秀吉には、どういう社会を目指すかという国家観が、まったく存在しなかった。
具体的な社会、国家像を持って、むしろその実現のために権力を欲した観のある家康とは
その部分で大きく違う。
7 :人間七七四年2009/08/20(木) 23:26:55 ID:FeX8DCv8
身分が固定された閉鎖的な(安定した)社会を作ろうとした家康

四百年も前に能力に応じて禄高も激変する自由競争の社会を作ろうとした秀吉

どっちが今の日本にとって良かったのか?
8 :人間七七四年2009/08/20(木) 23:33:55 ID:jEhfTekP
>>7
君がこの時代について無知なことだけはよくわかった
9 :人間七七四年2009/08/20(木) 23:45:38 ID:FeX8DCv8
さっそく思い込み激しい家康厨が貼り付いてんな
早く宿題やれよ!
12 :人間七七四年2009/08/21(金) 00:07:11 ID:U1YQhSue
>>5
太閤検地や刀狩で身分統制や兵農分離を完遂させたのは秀吉で、
家康もその基本政策は引き継いでるけど?
日本の近世封建制を完成させたのが秀吉というのは常識でしょ
逆に言えば家康がしばしば非難される身分固定がなされた閉鎖的社会を作った罪、
実は秀吉にも責任が有ったりするわけだけど
13 :人間七七四年2009/08/21(金) 00:15:16 ID:ObHl9u+t
>>12
太閤検地は家康や毛利のやった、惣国検地を真似した物
刀狩は東北や九州の大規模一揆のあった地域のみに出された、ただの対処法令
兵農分離が成立したのは徳川家光の時代

秀吉の政策はそれまでの慣習をそのまま受け継いだに過ぎないものがほとんど。

あと、江戸期が身分固定の時代というのはもうかなり古い考え方だと思うぞ。
近代以前という制約の中では、かなりの流動性のある社会だった。
14 :人間七七四年2009/08/21(金) 00:25:58 ID:U1YQhSue
秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
それを主張してる学者さんと著書を教えて
15 :人間七七四年2009/08/21(金) 00:54:52 ID:ObHl9u+t
>>14
> 秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
> これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
「広域を同じ企画で検地する」というのは徳川や毛利が先。
つーか山城は差し出し検地じゃなかったっけ?

> 刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
毛利に命ぜられたのも、「対処法」としての刀狩の執行に過ぎない。
刀狩が全国法令でも、恒久法でもなかったことは、山本博文氏の研究で既に証明されている。

> 家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
> 少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
> それを主張してる学者さんと著書を教えて
秀吉の時代に惣村への軍役は終わっていない。むしろ強化されているくらいだ。
つーか、兵農分離は信長や秀吉といった権力の都合ではなく、
軍役に人の代わりに金銭で代納できるようになった農村の経済的な成長の結果によって
起こったもの、というのが、それこそ今の「通説」だが。

そして寛永の大飢饉の影響から幕府による百姓使役の抑制が図られ、また、それに伴って
普請役なども含めた軍役の人夫が、農村からではなく、都市に集まる日雇い労働者から
調達するようになった。これにより「兵農分離」が成立した。

今はよほど古い人以外は、こういう説だと思うが?
16 :人間七七四年2009/08/21(金) 01:31:47 ID:U1YQhSue
山城検地では実際に奉行が派遣されて棹入れしてるよ
徳川や毛利は当初は差し出し検地で、実際に奉行が竿入れしたのは天正末から慶長になってから
つうか両国の惣国検地自体秀吉の命によるものなんだけど

大規模な一揆も発生せず、比較的安定した治安が保たれていた
毛利領に発令された刀狩令が「対処法」って意味がよくわからんね
柴田の刀狩や、雑賀一揆の後に行われた紀伊の刀狩は間違いなく対処法だと思うが
東北・北陸・東海・畿内・山陽・山陰・九州と全国的に刀狩を命じた
文書が見つかってるのに、全国法でもないという指摘も理解不能
江戸幕府の武家諸法度のようにきちんと成文化された法令じゃないからというのが理由なのか?
まあ一応研究者の名前が挙がってるから、今度関連のありそうな資料をあたってみようか

秀吉の時代に惣村への軍役が強化されたのは当面に唐入りという目標が有った以上当然だと思うが
そもそも太閤検地の目的自体、来るべき外征に向けての農村への支配体制の強化だったわけで
つうか百姓への賦役が兵農分離の基準になるというのも妙な話だね
秀吉が政権取った頃から農村部から大量の貧民が都市部に流入し社会問題化すると共に、
お得意の土木事業にもこれらの日雇い労働者が使われてるわけだし
一般的に太閤検地が兵農分離の重要な政策といわれるのは、支配者と農民の間で
中間搾取を行う特権や作合を否定し、その結果国人や地侍という中間層が消滅したことを指してる
この賦役の対象を固定化したという点で太閤検地が兵農分離の分水嶺として特別視されてるわけで、
農村の経済発展の結果、百姓に課せられた賦役が金銭納されたかどうかは
その歴史的重要性を損なうものではないよ
つうか現在でも中高生が兵農分離のポイントとして太閤検地を学んでる現状で、
「そんなこと未だに言ってるのは一部の古い人だけ」って言うのはおかしいと思わないのか?
もし太閤検地が兵農分離と無関係であると主張してる学者がいても、
それはそういう説があるというだけで、「通説」とは程遠いものだろう
18 :人間七七四年2009/08/21(金) 02:16:41 ID:sLSUoMWh
長期政権を築けたかどうかを言ってるんだとは思うが、道半ばの信長の後を引き継いで天下統一を完成させた秀吉と、秀吉の築いた統一政権を転覆させて無能な徳川将軍家でも三百年近く政権が続くような仕掛けを作っただけの家康とは比較のしようがない
富を築いた大富豪よりもそれをそれを横取りした泥棒の方が偉いって言うむちゃくちゃな論理
19 :人間七七四年2009/08/21(金) 02:22:45 ID:iAQtJy0z
スレタイからして、もっと面白いネタスレにすべきだと思うんだけど違うの?
20 :人間七七四年2009/08/21(金) 08:50:33 ID:g/3JFsqI
>>18
お前はアンチ徳川の強迫観念を早く治す為に病院に帰りなさい。
21 :あと適当になおして2009/08/21(金) 09:33:34 ID:CCm8Bl6x
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わった。
そして、大坂の陣でも家康たちの“智略”により、大坂城の堀が埋められた…。
どうしてこうも差がついてしまったのか−。

象徴的なのは、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と、“鳴くまで待った”徳川家康だろう。
島津義久は「相手は家康だし、打ち破るのは簡単ではない。三成と秀頼がもうちょっとしっかりしていれば…」
と秀吉恩顧の大名とその継嗣の“不徳”にあきれ顔だ。

織田信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉の方が家康よりも勢いは強かった。
ところが、今やすっかり逆。
「これまで積み重ねてきたものの差が出てきたということでしょう」と三河出身のある武士は話す。
ウサギとカメの例えではないが、物心ついてから人質として、岡崎に帰ってからも小大名として、
信長の無理難題により正室や長子を死なせざるを得ず、時には脱糞するなど苦労に苦労を重ねてきた
家康に対し、幼少期からの苦労では負けていないはずの秀吉に一分の慢心もなかったとは言い切れない。

また、秀吉(豊臣家)と家康(岡崎衆)の「環境の違い」も無視できない。
信長の天下統一事業を受け継いだ豊臣家というだけでチヤホヤされるのに対して、
家康をはじめ三河の武士は戦場で結果を出してナンボ…。

大坂冬の陣の後、秀頼は「今日は今季一番むかついた負けだった。いつもは相手を意識
しないけど、今日は(徳川)家康だし、本当は豊臣家の家来なのだから、絶対に負けた
くなかった」と悔しがったが、今の実力差を再びひっくり返すのは至難の業といえそうだ。
22 :人間七七四年2009/08/21(金) 11:41:19 ID:1crzTdbX
>>21
内堀を埋めたのは約束違反じゃね?
23 :人間七七四年2009/08/21(金) 11:49:31 ID:vXCsxT9G
個人戦じゃなくて豊臣家VS徳川家って見れば勝敗はあきらかだなw
24 :人間七七四年2009/08/21(金) 11:51:13 ID:g/3JFsqI
>>22
内堀の、しかも東軍側の手による埋め立ては最初から講和条約の中に入ってる。
むしろ約束通りの行動。
25 :人間七七四年2009/08/21(金) 11:52:43 ID:d4QJqVe+
一族や子供に恵まれたかどうかの差じゃない?
息子一人に弟一人、あとは姉の血族やら奥さんの血族
頼みの秀吉に、息子は大勢いて十八松平のように
一族もたくさんいた家康の違い。
26 :人間七七四年2009/08/21(金) 14:10:00 ID:0/Y1tyWi
結局、秀吉は自己中で自分さえ良ければよい
強欲な人間だったからだと思う。
人格は家康の方が上。
27 :人間七七四年2009/08/21(金) 15:04:44 ID:mAqLZq7l
家康は自分より上の秀吉や信長がいたら天下をとりにいかない

秀吉が死んで
怖いものがなくなったから天下を取りに行った

徳川が長く続いたのは
順番に恵まれた
譜代がいた
豊臣は秀吉一人の政権
28 :人間七七四年2009/08/21(金) 15:55:43 ID:ol1lCUbe
>>27
徳川と豊臣の能力の差は長く続くような準備をしたかしないかの差じゃないか?
無駄な海外遠征をしたり秀次を殺したり自滅した感じ。
豊臣と徳川の順番が逆なら徳川の世が続いて豊臣の出番は無い。
29 :人間七七四年2009/08/21(金) 20:58:27 ID:1crzTdbX
秀吉は、織田の武将たちを完全には抑えられなかったんだよね
(小牧・長久手でも)。
恩賞にはやる武将たちに恩賞をやるための朝鮮出兵という一面
もあったんじゃないかと思う。
30 :人間七七四年2009/08/21(金) 22:32:09 ID:g/3JFsqI
よく秀吉が家康を抑えるために、旧織田系武将の筆頭として、前田利家を厚遇したと言われるが、
むしろ秀吉は利家を始めとした織田系武将を抑えるために、外様である徳川や毛利といった諸侯に
大きな権力を与えたように見えるんだよな。
33 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/08/23(日) 06:24:05 ID:5AaA6tAR
徳川と毛利には同族化という幻想を頑張っただけだろうけどな。
34 :人間七七四年2009/08/23(日) 11:50:50 ID:kbn6GrHg
>>25だが、何で誰も一族子孫の違いに触れないんだ?
秀吉が晩年劣化しなくても、関が原の処理で豊臣の
直轄地や鉱山が取り上げられなくても
「豊臣と名乗る大名は若年の秀頼だけ」
「徳川、松平という大大名が地方にいくつも存在。その首領の
家康は政治を取り仕切ってる」
から豊臣はジリ貧になっていたと思う。
豊臣恩顧大名も、代替わりした子供の世代には
強そうな方に付きそうだしな。
35 :人間七七四年2009/08/23(日) 22:20:10 ID:nRliVDux
>>34
とりあえず本姓と苗字の違いがわかるまで書き込むな
36 :人間七七四年2009/08/23(日) 23:53:25 ID:JTomBkqz
>>35
豊臣は本姓と苗字兼任と思うんだが。
39 :人間七七四年2009/08/24(月) 13:25:53 ID:rMDM23wX
家康 利家 輝元 隆景 氏郷   長康 如水 三成 正家 長盛

家康 輝元 氏郷 直家 景勝   如水 三成 行長 吉継 玄以

輝元 直家 景勝 義弘 政宗   三成 行長 吉継 叡恵 兼続

直家 政宗 義宣 輝政 秀康   三成 行長 兼続 高虎 勝元 

直家 長政 宗茂 利常 盛親        
42 :人間七七四年2009/08/24(月) 15:52:24 ID:cD48CxR/
>>34
なあ、家康も豊臣一族なのを知ってそう言ってるのか?
あと、徳川、松平は後期だよね、時代がごっちゃになってる。
家康も、親兄弟いないところから這い上がって来たんだよ。
まあ、松平党がいたけどね、その差はでかいか。
43 :人間七七四年2009/08/24(月) 20:16:24 ID:PCNkO4h5
そうなんだよな
秀吉は家康を親族として信頼している面もある
秀頼も徳川家の一員になればよかったのにな
46 :人間七七四年2009/08/24(月) 22:59:42 ID:ynk33Xhe
淀のババアがいる限り無理
あのデブは死ぬまでかまぼこさえ食えればそれでも良かったのかもしれないが
47 :人間七七四年2009/08/24(月) 23:00:01 ID:13FAkmRU
秀頼と家康の二条城の対面は、秀頼が家康の「いる」場所に出向いていったわけだから、
言い訳の仕様もなく臣従の儀式なのに、なぜその対面の後になって、既に世間的には
徳川家臣である豊臣家を、主戦派が仕切るようになったのかが良くわからん。
48 :人間七七四年2009/08/24(月) 23:02:43 ID:ynk33Xhe
追い込まれすぎると、人は距離感を無くして狂うもんだ
大日本帝国の滅びようを見なよ
49 :人間七七四年2009/08/24(月) 23:25:43 ID:lqR2ej3I
何を前提に書かれてるのか、意味のわからないレスばっかりだなー

主張がなんなのかすらわからない
51 :人間七七四年2009/08/25(火) 10:38:36 ID:ONicsfSu
家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった
秀吉は自分が死んだら家康が天下を治めるのがいいと思っていたんじゃないか
できれば豊臣は西で徳川は東をみたいに
53 :人間七七四年2009/08/25(火) 11:42:08 ID:knBZWzs0
秀吉はどうやって国を平定するのかについては抜群にアイデアがあったけど
どういう国家にしたいのかについてはあまり伝わってこない
対外戦争や豪華な建造物ばかり作っていたイメージしかない
57 :人間七七四年2009/08/25(火) 12:59:41 ID:KjZNoDuP
研究者とは違うと思うが、山内昌之がそんな事言ってたな>秀吉の国家観の無さ
58 :人間七七四年2009/08/25(火) 16:43:34 ID:ONicsfSu
秀吉が信頼していた大名って家康が一番じゃないか
たとえ自分の死後家康が天下をとっても別にいいと
どうせなら死ぬ間際に徳川に譲ってしまえばよかったんだよ
59 :人間七七四年2009/08/25(火) 17:04:15 ID:ROo4hLdz
天下人にとっては一挙手一投足が政治
家康は律儀者と言い続けたのも政治だろ
60 :人間七七四年2009/08/25(火) 17:09:01 ID:y7OSZT/7
いや、秀頼のことお頼み申すって頼んでるやん、
あくまで五大老と五奉行に秀頼を支えてって欲しかったんだよ。
61 :人間七七四年2009/08/25(火) 17:20:33 ID:fP/H9sxZ
平和の使者である神君家康公に逆らう暗愚秀頼では頭脳明敏な秀忠にも到底及ばない
62 :人間七七四年2009/08/25(火) 17:25:33 ID:KjZNoDuP
つーか秀頼は、家康に対して兵を挙げるなら二条城対面のときじゃないとおかしい。
あれで世間的には豊臣も、徳川傘下に入ったって認識するんだから。

対面終わった後に、騙されたとでも思い始めたのだろうか?
63 :人間七七四年2009/08/25(火) 17:32:24 ID:3vfLxPQC
秀吉は織田秀信に13万石しかくれてやらなかったのだから、秀頼もその程度で満足すべき。
秀頼の側近が思い上がっていたんだろうな。
64 :人間七七四年2009/08/25(火) 18:41:23 ID:zO8syXvk
>>59
ホントにこういう司馬史観の奴っているんだな
65 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:16:38 ID:y7OSZT/7
武田などの強豪と戦いながらも織田・徳川同盟を守り
続けたのはやはり律儀だからではないだろうか。
67 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:25:59 ID:+EKRSOPW
>>60
本当に秀頼を身を案じているならば、朝鮮出兵なんてさっさと止めるべきだし
大老制度だって生前から運用を始めて実務面を詰めるべきだろう
面倒なことは何もせずに全て丸投げしておいて秀頼を支えろと言われても
家康だって困り果てるよ
何もしないなら豊臣政権の存在価値なんてないのだから
68 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:40:05 ID:PCBuNLBe
>>65-66
当時の織田と武田の国力差知ってて言ってんの?
69 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:42:42 ID:KjZNoDuP
>>68
国力差なんて相対的なものだ。
つーか信玄の在世時、「国力」というほど織田権力はまだ統合されてない。
ゆるい織田権力集団がやっと形成されていたに過ぎんよ。
70 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:48:38 ID:PCBuNLBe
>国力差なんて相対的なものだ。

意味がわからない
71 :人間七七四年2009/08/25(火) 20:53:43 ID:KjZNoDuP
>>70
織田権力が「公儀」化していない以上、その差というのは「絶対的」じゃないって事。
これでも解らない?
73 :人間七七四年2009/08/25(火) 21:10:22 ID:ONicsfSu
秀吉と家康を互いに認めあっていた

徳川、豊臣は親戚なんだから仲良く日本を治めればよかったのに

秀頼は右大臣にもなっている。家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった。
74 :人間七七四年2009/08/25(火) 21:33:16 ID:y7OSZT/7
>>68
武田は川中島や三方原の戦い(徳川惨敗)をみても分かるように、
戦に強い。
下手すると滅ぼされかねまい。
75 :人間七七四年2009/08/25(火) 21:56:05 ID:PCBuNLBe
>>74
武田が戦に強いのは同意だが、三方が原当時に
織田と武田の国力差は織田400万石、武田120万石と織田が圧倒的に大きい
徳川が織田との同盟を捨てて武田に走る合理的な理由なんか見出せない
「武田になびくという方策もあったはず」なんて話は成り立たないと思うよ
織田・徳川同盟が続いたのは家康の律儀な性格によるものでなくて
冷静に現状の力関係を分析した結果でしょう
76 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:00:16 ID:KjZNoDuP
>>75
数字だけ見りゃそうだが、当時織田は四方に敵を抱えていて広がった勢力圏は
むしろ重荷に働いていた。
冷静に分析しても、あの時正しく東の防波堤であった家康が武田に着けば、織田勢力圏が
重大な危機を迎えたことは容易に想像できる。
77 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:06:05 ID:PCBuNLBe
>>76
石高は兵の動員力と直結しているが、石高を軽視する理由は?
78 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:18:20 ID:KjZNoDuP
>>77
当時の織田の軍役体制は、石高とあまり連動していなかったから。

つーか、信長勢力圏の軍役体制は、慣習に頼った、当時としては遅れた動員制度で、
武田のように整備されていなかった。

そして信長は、味方に参じた者は、軍役に従う限りはそれまでの既得権を丸呑みにしていたので、
織田家は必ずしも充分にそのスケールメリットを享受出来ていた訳ではなかった
(それでも畿内の人口、経済力のメリットは勿論大きかったが)

あの辺は信長も綱渡りで勢力圏を保持していたというのは、頭に入れておいたほうがいいと思うよ?
79 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:29:12 ID:PCBuNLBe
織田の軍役体制が石高に連動していなかった
織田の軍役体制が遅れた制度で武田に及ばなかった
どちらも初めて聞いたわ
織田の勢力軽視にしか聞こえないけどな
80 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:31:57 ID:HxtKg3T3
>>79
それをはじめて聞いたのなら君は勉強不足だわ
81 :人間七七四年2009/08/25(火) 22:32:48 ID:ROo4hLdz
検地すら織田政権後期にならないと行われないのに石高に応じた軍役なんてそりゃ課せないだろ
83 :人間七七四年2009/08/26(水) 00:51:11 ID:VO5kQCf4
織田は兵農分離のはしり
武田は半士半農
84 :人間七七四年2009/08/26(水) 01:28:47 ID:JwsH44NR
>>83
織田は兵農分離なんて行われてないよ。
その軍団の構成も武田とかと大きく変わるものじゃない。
確かに傭兵としての足軽部隊を使ったのは確かだが、そういうものは織田に限らず
使われていた。
信長の軍隊に新しい所などひとつも無い。軍役体制などはむしろ遅れていたといっていい。

彼らが強かったのは足利将軍権威に寄って、人口の多い畿内で軍役を比較的効率的に課せた事と、
ここが信長の軍隊の肝だが、信長の下に徴収された兵員を使う司令官に優秀な人間が多かったことによる。
85 :人間七七四年2009/08/26(水) 01:49:43 ID:WNVHJAip
織田は兵農分離を行っていないなんてのは極端すぎるな
徹底的に推し進めたのは秀吉の検地、刀狩だが
87 :人間七七四年2009/08/26(水) 08:20:33 ID:FgfjHAqD
>>85
太閤検地は軍役体制の強化のためのもので兵農分離とは関係ない。
刀狩にいたっては大規模一揆への対処法でしかなく、これも兵農分離と何の関係もない。

つーか、この当時兵隊だけでは戦争行為は完結できない。信長も秀吉も農村からの軍役に
頼り切っていたわけで、兵と農はむしろ密着していた。

兵農が分離したのは江戸期に入ってから。
88 :人間七七四年2009/08/26(水) 09:45:21 ID:BGxoxLuq
秀吉は「組織」というシステムを構築しなかった。
個人の力量に頼り過ぎた。
89 :人間七七四年2009/08/26(水) 11:29:15 ID:dz8YhQGl
>>87
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけないでしょ
その政策を通して身分の固定化、安定化を推し進めていたんだよ
90 :人間七七四年2009/08/26(水) 11:53:28 ID:JwsH44NR
>>89
身分固定と言うのはむしろ、国内で戦争がなくなったことから起こった自然な流れであって、
(農民だって軍役なんかしたくはない、戦いが無ければ戦いたくない。)
秀吉の政策とは関係ない。

それに安定化などというが、秀吉の時代に農村はまったく安定していない(朝鮮役の軍役で
全国の農村が荒廃しておる)、これは政策的な矛盾でしょ?

江戸期になって定着した兵農分離を、織田や豊臣の政策に求めるのは間違い。
豊臣期と徳川期では、農村政策が大きく転換している。
農村の安定化は、徳川の政策だよ。

信長が大軍を動員できた理由を兵農分離に求めるのも間違い。
単純に人口が多く飛びぬけて経済的に発展していた畿内のスケールメリットを
信長が享受できたからに過ぎない
(信長に関してはそのスケールメリットを把握できたことにこそ天才と言う評価を与えるべき。)
91 :人間七七四年2009/08/26(水) 12:06:25 ID:dz8YhQGl
>>90
身分固定が為政者が何もしなかったけど自然にそうなったなんてことはありえない
宗教と結びついて一揆を起こす農民を政策よって抑えるのは天下平定後の課題だ
秀吉の政策とは関係ないなんて無理がありすぎ
朝鮮役の軍役で農村が荒廃なんてのは検地、刀狩とは全くの別物だ
むやみに混同しない方がいい
92 :人間七七四年2009/08/26(水) 12:26:05 ID:JwsH44NR
>>91
正直太閤検地や刀狩を過大評価しすぎだと思う。

太閤検地の画期は、戦国大名の政策であった、均一の基準による軍役の賦課が、
統一政権によって全国的に、大名に適応されたことであって、住民把握とはまた別の話。

刀狩にいたっては全国法として発布された証拠は一切存在しない。
九州や東北などで部分的に実施されたに過ぎない。
身分固定のための施策というには弱すぎる。
しかも実施された九州や東北ですらルーズで不徹底だった。

統一政権による直接の住民把握は、寛政期の宗門改め、万改帳の成立による
事実上の戸籍制度の発足からだよ。
身分固定などもここから起こったと考えるのが自然。
93 :人間七七四年2009/08/26(水) 12:52:21 ID:dz8YhQGl
>>92
太閤検地は土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税している
耕作し納税する人物をハッキリと規定したということだ
刀狩は3か条からなるけど最後の条で
 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。
 百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
と言っている
この頃から武士と百姓を分けようとする意図が見えるでしょう?
豊臣政権の頃はまだ完全施行とはいかずに、その後の江戸幕府体制を待たないと
徹底的に行われなかったのも、ある意味事実だが、それをもって
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないというのは暴論過ぎると思う
94 :人間七七四年2009/08/26(水) 13:25:31 ID:JwsH44NR
>>93
うーん、「武士と百姓を分ける」って考えは、鎌倉以前からの常識で、当時の
社会通念みたいなものでしょう?豊臣政権から言われるまでもないことかと。

兵農分離の議論をするといつも疑問に思うのは、農村から賦役、使役と言う形で動員される
人々を、「兵士じゃないから」って理由で無視する人が多い事。
彼らがいないと軍隊の運営自体が不可能なのに。
この賦役、使役を農村ではなく、都市に集まる労働者からまかなえるようになったのは
やはり江戸期から。
これは一国一城令による足軽も含めた家臣団の、藩都と呼ぶべき城下町への集結で、
各国の都市規模が一気に大きくなったことが大きい。

こういう部分から考えても、兵農分離とは江戸期の現象であると理解すべきだと思うよ?

95 :人間七七四年2009/08/26(水) 13:44:37 ID:dz8YhQGl
鎌倉期こそ武士も農民も渾然一体だと思うんだがな?
自分の耕した土地を自分の力で守るから「一所懸命」なんて言葉もあるし
経済安定期を経て職業としての武士と農民が完全に分離したのは江戸期だろうが
豊臣時代から武士と農民を分けようという意図があったことは明らか
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけは無い
96 :人間七七四年2009/08/26(水) 14:44:51 ID:JwsH44NR
>>95
違う。鎌倉期の武士は「農園経営者」ではあるが、農民では決して無い。
一所懸命の一所とは、耕した土地のことではなく、所有する土地のこと。

武士の発生当初から、農民と武士は既に分離していた。
97 :人間七七四年2009/08/26(水) 14:47:34 ID:6Gm/5R8A
上のほうで名前が挙がってる山本博文氏は近著で刀狩と太閤検地は身分固定の端緒となったとして
その歴史的意義は強調しすぎることはないとしているけど。
98 :人間七七四年2009/08/26(水) 14:59:39 ID:dz8YhQGl
>>96
鎌倉期はほとんど武士=農民だよ。支配者がという意味じゃなくてね
普段畑を耕して何かあれば武器取ったんだよ

99 :人間七七四年2009/08/26(水) 20:17:06 ID:/iKTX3Tl
>>96
当初から分離してたのかよw
最初と言ってることが180度変わってるぞw
100 :人間七七四年2009/08/26(水) 20:31:57 ID:JwsH44NR
>>98
鎌倉期でも武士と農民は違うぞ。武士と言うのは最低限何らかの領地、領民を持つものだ。
自分で畑を耕す連中ではない。

>>99
ん?もともと農民とは違う出自の「武士」が、(それこそ農民が徴兵によって集められた律令軍隊とは
別の軍事組織として形成されたのが武士なんだから当然だが)
武士が権力と人民を掌握していき、かつ合戦の大規模化、常態化によって、農村に日常的に使役を
賦課するようになったのが、兵農一致常態だぞ?
物事には「経緯」ってものがある。
101 :人間七七四年2009/08/26(水) 20:32:12 ID:1cm84YxN
おかしくないでしょ?
大きな流れとしては
専業武士たち同士で合戦をした源平の時代から徐々に集団戦の時代になって
戦国の終わりと共にまた士農分離されるというのは一般的な見方じゃないか?

何を噛み付いているのか分からん
103 :人間七七四年2009/08/26(水) 21:07:18 ID:F9q5vdnA
>>97
山本博文さんの「天下人の一級史料」、自分も軽く目を通してみたよ
なんつうか今時珍しい筋金入りの一次史料原理主義者つう印象だね>山本氏
この種のアプローチは比較的史料が豊富に残されてる江戸時代以降では有効でも、
史料の散逸が甚だしい戦国時代の研究には根本的に向いてないと感じた
山本氏の学問的業績見ても、評価されてるのは基本的に寛永以降の研究みたいだし
その山本氏でも秀吉の人掃令については、唐入りのための
時限法に過ぎなかったと主張する高木論文には懐疑的であり、
それらが結果的に近世身分制度の礎となったと主張してるわけで


104 :人間七七四年2009/08/27(木) 11:46:21 ID:mqEMAD2k
鎌倉の武士が率いている兵が普段畑を耕してるなんて常識だろ。
106 :人間七七四年2009/08/27(木) 12:32:32 ID:18y5Gpto
>>104
あと、そう言うものは資料を出してから言おうね。
108 :人間七七四年2009/08/27(木) 16:16:43 ID:xWQjkgc1
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わった。
そして、大坂の陣でも家康たちの“智略”により、大坂城の堀が埋められた…。
どうしてこうも差がついてしまったのか−。

象徴的なのは、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と、“鳴くまで待った”徳川家康だろう。
島津義久は「相手は家康だし、打ち破るのは簡単ではない。三成と秀頼がもうちょっとしっかりしていれば…」
と秀吉恩顧の大名とその継嗣の不甲斐なさにあきれ顔だ。

織田信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉の方が家康よりも勢いは強かった。
ところが、今やすっかり逆。
「これまで積み重ねてきたものの差が出てきたということでしょう」と三河出身のある武士は話す。
ウサギとカメの例えではないが、物心ついてから人質として、岡崎に帰ってからも小大名として、
信長の無理難題により正室や長子を死なせざるを得ず、時には脱糞するなど苦労に苦労を重ねてきた
家康に対し、幼少期からの苦労では負けていないはずの秀吉に一分の慢心もなかったとは言い切れない。

また、秀吉(豊臣家)と家康(岡崎衆)の「環境の違い」も無視できない。
信長の天下統一事業を受け継いだ豊臣家というだけでチヤホヤされるのに対して、
家康をはじめ三河の武士は戦場で結果を出してナンボ…。

大坂冬の陣の後、秀頼は「今日は生涯で一番むかついた負けだった。いつもは相手を意識
しないけど、今日は(徳川)家康だし、本当は豊臣家の家来なのだから、絶対に負けた
くなかった」と悔しがったが、今の実力差を再びひっくり返すのは至難の業といえそうだ。
109 :人間七七四年2009/08/27(木) 16:22:50 ID:Dy3dx+M4
秀吉はその気になれば家康を滅ぼすこともできた

しかし、秀吉、家康は互いに信長の下で苦労してきて、認め合っていた。

滅ぼすよりもともに天下を治めようと思った。

家康もそのつもりだったが、秀頼や淀の対応が悪すぎた。
113 :人間七七四年2009/08/28(金) 01:17:06 ID:VbpoJKtY
秀吉は一時本当に一番になった。家康が1番になったころは秀吉が
一番になって栄華を極めた後。秀吉対家康ならどちらも1番。
長続きしたほうが勝なら徳川。2世の出来は1世を超えるものは
でないね。ただ秀吉にとって不運なのは計算が狂って秀次がじゃまに
なったこと。60近くに跡継ぎ誕生じゃ老後の計画が狂いまくり。
豊臣家にとってはかえって実子(?)がいないほうがすっきりした。
秀吉の栄華のあとで実子に恵まれず計画通り秀次の代にうつれば徳川時代に
果たしてなったかどうか。利休も殺すことなく秀吉が先に死んでいたら
秀次は無理に戦争をしなかったのでは。徳川対秀次で関ヶ原になったかどうか。
114 :わんこ ◆tOct3QvkpQ 2009/08/28(金) 02:24:35 ID:GA6cJJv5
サルは譜代が少なすぎた。
戦国を代表する出世頭だがそれが逆に仇になった。
出自はごまかせてもそこはどうしようもないからな。

逆に普通に大身の武家にでも産まれて
結果天下取れてたなら付け入られる隙があっても防げたろうに。

俺は秀吉と家康の差は家臣とみとる。
117 :人間七七四年2009/08/28(金) 12:41:18 ID:o4/rCAQx
>>114
おっと、足利幕府の悪口はそこまでだ。
118 :人間七七四年2009/08/28(金) 13:04:11 ID:hrMUvraX
足利も豊臣も力で天下取ったけどその後のビジョンが見得てこないんだよ
豊臣の世が続いても室町時代みたいに各大名が勝手なこと始めて太平の世にならなかったと思うぞ
やっぱりブレーンの核に宗教家、学者を据えて日本のあるべき国家を真剣に考えていた家康は偉大だ
119 :人間七七四年2009/08/28(金) 16:07:06 ID:NKyq518L
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120 :人間七七四年2009/08/28(金) 17:59:20 ID:GriFnbQp
バカだな
徳川の太平の世がが日本に停滞をもたらしたんじゃんかよ
足利将軍だって5、6代くらいまでは大大名や関東公方征伐したりして力あるし、徳川将軍も実質的にはそれくらいまでであとは紀州藩に乗っ取られてるわけだし豊臣もそれくらいもてば良かったんだよ
であっさり享保維新で倒れて開国しとけば今頃日本は世界の超大国だったんだよ
それが家康がせこいクーデターなんか起こすからアメリカのいいなり、中国や北朝鮮にさえバカにされるような国に成り下がってしまったんだよ
121 :人間七七四年2009/08/28(金) 18:11:41 ID:NVU4tqEt
それは戦後の話じゃんか。むしろ教育が行き届いていたおかげで、わずか40年で世界に追い付いたんだよ。

欧米の回想によると、「日本の鎖国の扉を開けたら、強い日本人が飛び出してきた」そうだ。
122 :人間七七四年2009/08/28(金) 19:06:05 ID:GriFnbQp
ほんとバカだな
そもそも鎖国しなければ40年かけて追いつかなきゃならない遅れなんか生じないしアメリカに負けるわけもないだろ
黒船来る頃にはもう大東亜共栄圏できてるし太平洋戦争の頃には東シナ海や樺太から石油が供給されてたんだよ
124 :人間七七四年2009/08/28(金) 19:31:48 ID:XwWjT4eV
>>122
中東やアフリカなんかの、鎖国してない国々がヨーロッパに差をつけられやられた事をご存知?

ヨーロッパが近代化したのは、新大陸からの気が遠くなるような収奪のおかげだ。
日本が遅れた事に鎖国云々は、関係ない。
(つーか今時、『鎖国』なんて言葉は使わない。一般に管理貿易体制と理解されている。)

知識がないのに無理して歴史を語らないほうがいいよ?
125 :人間七七四年2009/08/28(金) 19:59:57 ID:oz4QTrhD
このスレ立てた人は、もっとネタっぽいスレにしたかったんだろうが
ネタにマジレスしちゃう奴がいて、ちっともネタスレにならないなw
128 :仙台藩百姓2009/08/28(金) 23:49:56 ID:Q1ljyR+e
>>124
その管理人が無能だったのが遅れを取った原因だったわけだけど( ^ω^)
それに貿易は行われていたといっても交流は制限され
幕府の監視下で極めて局地的なものであったのは事実だお( ^ω^)
何より海外情勢を知らなかったならともかく、幕府は知っていながら黙殺し
外交は幕府が自ら一手に引き受けていながら何もしなかった
欧米の躍進を知りながら何ら政策も施さず惰性で政を続け
国内に土足で踏み込まれてから慌てふためき言われるがまま不平等条約を結び
およそ150年経った今日に至っても覆せぬ日本史上最大最悪の負の遺産を残したお┐ (´ω`) ┌
この間に損なった国益は想像を絶するものであり徳川家・幕臣全て極刑にしても飽きたらぬ大罪だお(#^ω^)ピキピキ
それに僅かな間に日本が欧米に追い付いたなど妄言に等しい
技術というものは決して一朝一夕にはならいお┐ (´ω`) ┌
日本は上辺だけを真似しただけに過ぎず総合的な技術を底上げするには到底及ばなかった
例えば設計は完璧でも材料学が追い付かずバネ一つパッキン一つとっても
計画値を満たせず性能は格段に落ちるといった状態でちぐはぐな技術だった
結局日本が欧米に追い付くには100年の時を要したお┐ (´ω`) ┌
つまり維新後に流入した学問が実を結ぶまでを待たねばならなかったわけだお( ^ω^)
129 :人間七七四年2009/08/29(土) 00:54:38 ID:dRqFptAZ
>>128
遅れをとったとか言ってるが、需要のない技術が根付くわけないだろ。
当時の中国の状況を見てもわかるが、欧米の技術地というものは、東アジアにおいて
「必要」が無かった。
国防の問題にならない段階で、いわゆる産業革命の成果を日本社会に取り入れる必要は
まったく存在しなかった。日本は黒船により国防問題に直面したが故に、近代化という名の
産業革命の波に巻き込まれたに過ぎない。
そして幕末、日本における産業革命をリードしたのも中央政府である幕府だ。
明治政府の初期の政策は、その幕府の成果に多くを負っている。
その後の急速な近代化を考えても、幕府が無能だとはとてもいえない。
130 :人間七七四年2009/08/29(土) 01:57:07 ID:lDKGTeGc
>そして幕末、日本における産業革命をリードしたのも中央政府である幕府だ。
>明治政府の初期の政策は、その幕府の成果に多くを負っている。
大方小栗あたりが幕府の余財を使ってせっせと西洋文明を摂取しようとしたことでも指してるんだろうが、
幕藩体制という構造的欠陥を抱えながら近代化が成功するわけがないんだけどな
小栗や榎本がいくら頑張ってもどうしようもなかったのが江戸幕府であり日本の近世封建制の限界
その創始者である秀吉や家康に責任を求めるのは酷だろうが、以降の徳川将軍や幕閣の不見識は責められても良い
131 :人間七七四年2009/08/29(土) 05:31:07 ID:vCjdC+rE
秀吉は開放政策というか積極策
鎖国の責任は自分の後継者の無能ぶりを考えて、自分の死後鎖国するよう遺言した家康
132 :人間七七四年2009/08/29(土) 07:46:42 ID:vCjdC+rE
秀吉は有能な人間こそが日本を統治するシステムを模索し、秀頼への愛情との狭間で苦悩しながら、家康に政権を託した

家康はバカでも無能でも自分の血が少しでも入っていれば将軍が務まるシステム作りだし日本に停滞もたらした国家への業務上背信
134 :人間七七四年2009/08/29(土) 09:29:40 ID:dRqFptAZ
>>131
> 秀吉は開放政策というか積極策
> 鎖国の責任は自分の後継者の無能ぶりを考えて、自分の死後鎖国するよう遺言した家康

歴史知らないのに無理して書き込みしなくても…
136 :人間七七四年2009/08/29(土) 11:48:29 ID:1E5+5FF+
秀吉は豊臣政権が長く続かないことを知っていたのだろう。
己の無力さを悟っていた点と、統一事業の後継者に家康を選んだ点では評価できる。
137 :人間七七四年2009/08/29(土) 12:11:16 ID:UMfo2kgq
続いて欲しかったから、秀頼の事お頼み申すって家康に言って
ったんでないの?
138 :人間七七四年2009/08/29(土) 12:17:35 ID:ePfzrr5S
秀頼の事ではなく、豊臣家の事を頼みますって書かれた文章ってあるのかな?
秀頼の事=豊臣家の事って考えるのが普通だけど・・・・あえて穿った見方をしてみる。
139 :仙台藩百姓2009/08/29(土) 12:34:46 ID:q+lPjw9O
>>129
必要があったじゃんお( ^ω^)
必要だから幕府も慌てて欧米文化を取り込もうとしたわけだお
それに黒船の来航で突然国防問題が沸き起こったわけではないお
以前から幕府は世界情勢を知っていたし、ペリー来航の30年も前から外国船の来航が問題視されていたが
幕府はたいした対応もせず臭い物に蓋で見てみぬふりをした
そして何の対策も考えなかった幕府はペリーの威圧に慌てふためき醜態を曝し
民衆一般にまでその無能さを知られてしまい不安と不満が爆発する結果を招いたお
幕府はこの期に及んで地方の知識人をかき集めた付け焼き刃で挑んだが
結果は知っての通り外国どころか諸藩にすら遅れをとって瓦解したお( ^ω^)
結局幕府が残したものと言えば莫大な負の遺産だけだったお┐ (´ω`) ┌
140 :人間七七四年2009/08/29(土) 12:44:58 ID:mr+TY6c6
>>139
幕末は9割9部まで公武合体による国家改造が規定路線だったじゃん。
それが倒幕にいたったのは孝明天皇の急死とそれによる岩倉、西郷などの過激派が
主導権を握ったため。明治維新が倒幕と言う方向に至ったのは「偶然」に近い、って言うのは
今の維新史の研究では常識だと思うが。

幕府の企画していた改革と、明治政府の改革との間に、どれほどの差があったと思う?
142 :人間七七四年2009/08/29(土) 14:53:34 ID:vCjdC+rE
江戸幕府の業績ってなんか目立った業績あったっけ!?
147 :人間七七四年2009/08/29(土) 21:00:48 ID:44zGc8N5
徳川は豊臣の後を継いだ

秀吉は別に天下なんぞは
信頼していた家康に治めてもらうつもりだった
148 :人間七七四年2009/08/29(土) 22:36:39 ID:UMfo2kgq
>>142
文化財の保護

大名たちに治水工事など各種やらせる
149 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 07:58:26 ID:61Ui9Tf7
秀吉の時代が超外向きすぎたんで、その後に国内を充実させるのは悪くない
でもそれがあまりにも長すぎたのが日本にとって不幸だった
それも外交を独占していたくせに新しい技術を取り入れるわけでもなく、何事も前例どおりの巨大な官僚機構じゃね
ほんと寸でのとこで明治維新起きて良い方向に舵切れて良かったよ
外国に攻め込むほどの豊臣と危うく外国の植民地にされそうだった徳川
なんでこんなに差があるの?w
150 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 08:11:39 ID:86pd2RDd
それは徳川末期の事じゃまいか

だから秀吉は未だに朝鮮では評判が悪い
151 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 08:35:55 ID:LqJ9ewBf
>>149
不幸だった・・・って、何か不幸だったのか?
歴史ってさ、時代の流れがあるんだよね。
しかも、秀吉の時代と、幕末を一緒にしているあたりが・・・大丈夫か?
152 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 09:29:33 ID:61Ui9Tf7
たしかに歴史には流れがあるから幕末までを一つの流れとして比較したんだが?
それがおかしいというなら豊臣衰退期と徳川隆盛期だけを比較するのもおかしな話
秀吉と家康の同時代を比較するならかたや天下人かたや関東のいなか大名で秀吉の家臣
秀吉なんか最初は足軽なのにね
なんでこんなに差がついちゃったんだろw
153 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 10:02:26 ID:EWG63z1k
>>152
300年前と後を単純比較するのがどれだけおかしな事か理解出来ないんだな君は。
154 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 10:27:35 ID:61Ui9Tf7
都合のいい時代設定しなきゃ満足にオナニーもできない引きこもり家康厨おつw
156 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 11:55:39 ID:EWG63z1k
>>154
結局それかよw
お前みたいなタイプは自分がどれだけ恥ずかしい事を言っているか理解すらしてないから困る。
157 :名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 17:16:51 ID:QK7s56jQ
たしかに
徳川は豊臣にやられたな

でも秀吉から
天下を譲ってもらってよかった
158 :人間七七四年2009/08/30(日) 20:26:29 ID:laHzD8YN
82 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:18:29
戦国板家康スレで政宗厨が暴れている


意味が分からん
160 :人間七七四年2009/08/30(日) 21:53:53 ID:laHzD8YN
「仙台藩百姓」とかいうコテハンのことでしょ。
161 :人間七七四年2009/08/30(日) 22:00:54 ID:n48Be8F+
>>160
馬鹿?
162 :人間七七四年2009/08/30(日) 22:16:41 ID:laHzD8YN
>>161
そうだね。仙台藩百姓は馬鹿だね。
163 :人間七七四年2009/08/30(日) 22:19:36 ID:KsBoQC5U
>>162
お前が
164 :人間七七四年2009/08/30(日) 22:48:23 ID:laHzD8YN
>>161=>>163=仙台藩百姓、乙。
165 :人間七七四年2009/08/31(月) 15:31:47 ID:nDhkCDbH


-政界事情通生の声 ◆cc3RB/STnCwU氏
8月上旬に民主獲得議席数307と予想。

】生の声が政治を語る9
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/yume/1250922463/7
http://c.2ch.net/test/-/yume/1250922463/i


166 :人間七七四年2009/09/01(火) 21:21:32 ID:72VGTmqu
仙台藩百姓の知識は結構すごいと思う
168 :人間七七四年2009/09/02(水) 01:00:45 ID:Z3YpMpy4
元寇のとき朝鮮人に対馬をのっとられ、民間人が
虐殺されたのをご存知でしょうか?
さらに女子供も連れ去られ、高麗の王に献上された。

その対馬が今朝鮮人たちに「対馬は朝鮮のものだ」とか
言われてるんですが、どなたかご意見ください。
169 :人間七七四年2009/09/02(水) 04:59:49 ID:89r4k06W
環境だろw 家康んとこは先祖は怪しいけどそれでも代々の領主だし
譜代もおる。最下層から天下取ったんだから充分。その上、子々孫々
まで繁栄なんて間に合わないお。
170 :人間七七四年2009/09/02(水) 10:03:09 ID:Ps6Bn64k
>>166

ぷらっと氏に完膚なきまでに叩かれたのをご存知ない?
171 :人間七七四年2009/09/02(水) 19:43:54 ID:Ps1CxzGU
>>170
あら、そうなんですか。知りませんでした。
奇橋屋onぷらっと氏はもっと凄いんですね。
勉強になります。
172 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/09/03(木) 05:16:32 ID:hJLkOdlO
何だか名前が出されたので書いておこう。

オレの知識はwikiと岩波書店・小学館の「日本の歴史」を読んだ自己解釈に過ぎません。
断言しておきますが、オレは自分が調べたことのない家系に絡む人物の知識は小学生以下です。
173 :人間七七四年2009/09/03(木) 10:23:02 ID:zyiPyMmp
文献調べたり高度な事やってるのかと思ってなんの話をしてるのか追うと
くだらないトンデモ解釈なのがほとんど
174 :人間七七四年2009/09/03(木) 19:15:01 ID:ZEuXw0aS
とはいえ文献に示されてる事柄が全て真実かというとそれもまた疑問符がつくわけで。
あれこれと想像をめぐらし、いろんな解釈を見たり聞いたり出来るのも2chの素晴らしさだと思いますよ。
175 :人間七七四年2009/09/04(金) 07:44:12 ID:PZw7lJ1t
別に奇矯屋onぷらっと氏も、仙台藩百姓も、名無しでただ揚げ足取りだけしてる書き込みよりはマシだと思うけどな。

「ご存じない?」とか、他人がやった事を誇られても、単発の人間としては処置に困るわw
178 :人間七七四年2009/09/05(土) 12:56:31 ID:KZSUoYet
>>174
コンセンサスの得られない解釈、想像は妄想と呼ぶべきで
人様に開陳するべきではないよね

専門用語でいうところのチラ裏
179 :人間七七四年2009/09/06(日) 01:28:51 ID:EAVM9rwu
家康に信長死後の天下統一はできたのか?
秀吉にトップが無能でも問題ない長期政権が作れたのか?
182 :人間七七四年2009/09/06(日) 19:13:41 ID:xQjOwcdt
さすが戦国DQN四天王・筆頭の治める土地の人は、言うことのキレが違う!!
183 :人間七七四年2009/09/06(日) 20:07:15 ID:zJRcT7Gz
秀吉に二十歳過ぎの跡取りがいれば問題なかったろうに

そうすれば、家康も野心を持たずに豊臣政権の大老で終わってるはず
187 :人間七七四年2009/09/06(日) 23:22:49 ID:/z/lvNdB
つーか、秀吉の死後、実質的に既に家康の天下だった。
官位一つとっても政権内どころか、豊臣家の誰よりも上だし。
189 :人間七七四年2009/09/07(月) 00:09:52 ID:WHhg8T1r
家康の一族は性格が異常だったり知能が著しく劣る人物が多かったからな
そんな子孫でも無事治められる政権システムを立てた家康はやはり非凡な政治家だったよ
190 :人間七七四年2009/09/07(月) 01:13:38 ID:vsLy8lvR
>>189
> 家康の一族は性格が異常だったり知能が著しく劣る人物が多かったからな

またそう言うデマを
191 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/09/07(月) 05:37:07 ID:vS4CZmyh
一族を挙げてもらえばよろしい。

大河「徳川三代」家光が秀忠に「忠の字は不吉にござる」と吐き捨てたシーンを思い出した。
192 :人間七七四年2009/09/07(月) 07:46:27 ID:CpciVcx2
松平信康:盆踊りで民を射殺したりとアレな逸話が伝わる
結城秀康:秀吉の家臣を無礼討ちするなど激しい気性で有名、梅毒
松平忠輝:乱暴な素行が父に嫌われて改易
亀姫:逆恨みで宇都宮城釣天井事件を起こす
督姫:毒饅頭で義理の息子の殺害を謀る

徳川家光:ガチホモ、辻斬りをやってたという説あり
徳川忠長:後継者争いに敗れた後の狂乱が伝わる
松平忠直:家臣を討ったりと乱行が目立ち改易
千姫:色情狂

特に子供・孫の世代におかしな奴が多いな
その後の将軍も馬鹿ばっかだし
193 :仙台藩百姓2009/09/07(月) 11:09:48 ID:fkKef19p
信忠や広忠も暗愚であったと言われるし
清康も家臣に殺されてるぐらいだし
先祖も大概だお( ^ω^)
194 :人間七七四年2009/09/07(月) 16:05:13 ID:ONoqbiDD
ヒデヨリが家康の挑発に乗らずに家康が死ぬまで時間稼ぎができれば、徳川の世をひっくり返すこともできたかもしれないな

伊達と前田、福島あたりは味方につくやもしれん
199 :人間七七四年2009/09/08(火) 09:27:14 ID:/1qGEY32
>>193
三河を統一しそうだった清康の死は守山崩れとも言われるね。


vip_2ch_news at 05:50│Comments(0)TrackBack(0)戦国時代 

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