戦国架空戦記物にありがちなこと上杉謙信の真の宿敵は北条氏康・氏政

2011年01月12日

【親父】長尾為景【強い】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/26(土) 23:23:40 ID:4j9AJNlw
合戦数百回、越後での下剋上の先駆者、まさに軍神。
謙信もこの父親がいなかったらあそこまでいかなかっただろう。


3 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/26(土) 23:57:56 ID:qvJNEjOU
主君を殺して佐渡に逃げたと思ったら引き返して顕定を敗死させ神保も倒して禁裏から旗を貰って安泰かと思ったつかの間反乱にあって鎮圧しようとして失敗して隠居。
浮き沈みが激しい。
4 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/27(日) 00:09:12 ID:5Qweh519
北条氏綱から送ってきた和尚の絵が気に入らないから返したって逸話があったり。
旗だってほとんど捏造で獲得したらしい。
それなりに面白い人物なんだが謙信のネームバリューがでかすぎていまいちマイナーな人。
5 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/27(日) 00:12:56 ID:mfZcifWJ
献身の父って考えたことなかった。長尾為景か。有能なのか?
9 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/29(火) 13:42:17 ID:eoGtQWJg
為景の絶頂期は大永年間だね
享禄三年(1530)以降、つづいて天文の大乱へとつづくから
10 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/29(火) 17:35:31 ID:zuFcJWfC
全盛期過ぎてるとはいえ当時の上杉相手に逆らうなんて正気の沙汰じゃないな
12 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/08/31(木) 22:12:40 ID:VKrZFCt9
親父やん。
13 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/01(金) 14:37:32 ID:PmqO7y/o
親父殿、能家は越中で一向一揆にやられてんだけどね

為景曰く、

越中に入った時、(神保に)合力を申届けたが、野伏一人も添えられず、
また尚順の手紙もなく、情けない次第で、これ神保所行である

と神保の非協力が能家の死につながったとしている
16 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/05(火) 21:08:06 ID:/Uezaswn
軍神や越後の虎といった異名は為景にこそふさわしいように思える。
18 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/09(土) 14:40:41 ID:0wDa9DoC
出発が守護代ってとこは同じけど、
とりあえず経久は主君は殺してないと
19 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/20(水) 00:30:18 ID:+zKeahSJ
為景が100回戦ってもまとめられなかった越後を、見事にまとめた謙信
20 : 2006/09/20(水) 01:01:47 ID:c1o+6AsB
長尾為景  武田信虎  北条氏綱  織田信秀  齋藤道三  
三好長慶  毛利元就  尼子経久  島津貴久  長宗我部国親

こいつ等が天下取り争ったら、誰が勝つかな?    
22 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/20(水) 02:38:29 ID:3FVW9+Kb
>>16
越後の軍神とか越後の龍とかそんな綺麗な異名は合わない・・・・・・

越後の悪鬼とか越後の狂犬とかの方が似合うw
23 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/20(水) 06:38:14 ID:neFck6Tg
>>19
謙信もやっとこさでまとめたんだけどね
25 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/27(水) 18:19:35 ID:FtJwfwgp
景虎と義輝に交流があったことは割と有名だが、その下地は為景の頃から
形成されていたようだ。
為景宛ての足利義晴御内書もあり、この頃から長尾と足利将軍家とのつながりは
あった模様。地方の氏族として将軍家の覚えがめでたいことは、為景率いる
長尾氏がよほどの成長株で、すでに京でも注目される存在だったことを窺わせる
26 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/28(木) 16:02:43 ID:+QVYtvgO
越後は東国みたいな遠国じゃないから
日本海は交易も盛んだし
27 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 12:49:36 ID:tTSo89Jk
>>20
家臣込みなら三好長慶、北条氏綱、島津貴久
家臣抜きなら齋藤道三、毛利元就、尼子経久
28 :名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/09(月) 12:39:29 ID:qkOU6jEF
>>22
ゲームだったら、謙信よりも為景に軍神補正があってしかるべきだなw
30 :名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/27(水) 15:32:38 ID:cH0e1f4Y
過少評価されすぎだけど晴景もそれなりに旨くはやってはいたよ
病弱だったのがアレだったが
31 :名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/27(水) 16:10:23 ID:GuZ1g2iI
晴景は和平路線で頑張っていたが、
結局和平じゃ小康状態なままで、
割拠する国人たちの領土に散らばる特産品などを
直江津に持っていく事も出来ないので国庫は潤わず税も下がらずじゃないかな。
それで国中の不満もうなぎのぼり。

景虎人気は晴景への不満から現れたことをみるとそんな仕掛けじゃないかと。
33 :名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/06(火) 16:30:49 ID:q5+1NRWw
>>25
永享の乱の前後から越後長尾は将軍家と密接な関係だよ
越後上杉が在国守護となったのは房定以降だけど
35 :人間七七四年2007/02/20(火) 17:11:05 ID:HhSvRYbI
>>25
というより越後守護も関東管領もヌッ殺しちゃあ権威の後ろ盾は将軍家頼るしかないだろう。
いくら下克上の世だからってそのままでは非合法政権だから、なり振り構わず工作するさ。
36 :人間七七四年2007/03/23(金) 14:57:28 ID:UEu8oLE1
山内上杉を殺してるのに、御内書与える義晴もなんだかな

このころは関東の公方と管領なんて京ではどうでもよかったのかな
37 :人間七七四年2007/03/24(土) 04:34:41 ID:frZHv8Sa
どうでもいいどころか、ほとんど敵だよ敵。

早雲に潰された伊豆の堀越公方の成り立ちを調べるとよくわかる。
38 :人間七七四年2007/03/24(土) 14:37:22 ID:Mjxs7k2E
茶々丸の自刃と顕定討死って十数年の違いなんだね
謙信の父の話だから、もう少し時間差があるのかと思ってた
40 :人間七七四年2007/04/16(月) 02:44:29 ID:UTUFrEcc
>>39こんな時間じゃあ何も釣れないよ。よい子はもう寝なさい。
44 :人間七七四年2007/05/12(土) 14:36:28 ID:RYfloEu0
そうだね
高景は明国にも聞こえた勇将だったし
47 :人間七七四年2007/07/27(金) 11:41:32 ID:vm8SaqDb
出典は何だか知らないが、ググると出てくる
51 :人間七七四年2007/10/10(水) 16:43:40 ID:UmL6/uJI
為景の度胸は相当なものだよね。
越後守護につづいて関東管領まで。。。
梟雄の類だね。
52 :人間七七四年2007/10/30(火) 16:13:56 ID:R1BhFWYB
>>47-48
歴代古案という書にあるようだ
絶海中津が明国に留学したさい、高景の肖像画を求められ、
帰国後に描かせて送ったそうだ
58 :人間七七四年2007/12/06(木) 13:59:38 ID:/O14sZUU
主家も主家の宗家もためらわず討ってしまうんだからね
息子は何故この親父と考え方が変わったんだろか?
59 :人間七七四年2007/12/06(木) 19:53:12 ID:1prZLJbB
財政破綻させたけどね。
61 :人間七七四年2007/12/24(月) 18:53:06 ID:DxvAZDOR
息子は討つべき相手が上にいなかった。
でも強いものに立ち向かうって思想はそのまま受け継いでいる。
63 :人間七七四年2007/12/26(水) 20:47:41 ID:Y94C9+29
下克上とは言うけれど、若干18歳で守護と戦ったのは、
国人たちに担ぎ上げられて守護の横暴に立ち向かうため。
65 :人間七七四年2008/01/03(木) 11:20:08 ID:hU4b3tSl
この人の父は北条早雲&扇谷上杉に大敗した山内上杉の危機を救う為に
越後より急南下しいまの神奈川県平塚市まで破竹の進撃をし相模守護代を捕縛し扇谷上杉を降伏に追い込んだ最強武将なんだぜ。
謙信は偉大なる祖父を越える為に小田原まで行ったんだぜ!
68 :人間七七四年2008/01/03(木) 16:06:22 ID:hU4b3tSl
この人は父が一向衆に殺された際に見殺しにした主家にキレただけ。
下剋上って言うより復讐だよね。家格の違いもあり上杉派や独立志向の揚北衆の反発により戦乱が激しくなり財政も破綻させ結果的には下剋上に失敗して隠退に追い込まれたからね。
まぁ翌年に死去してるから体調不良で隠退したとも言われてるが隠退により謙信の兄が守護に擁立されて一応の安定は見ているから世情安定を望まれ連立政権化したと言えるかも。
71 :人間七七四年2008/02/05(火) 16:18:06 ID:E6Aa03b6
為景が家督を継いだのは永正三年(1506)。
宗瑞が没したのは永正十六年(1519)。
この間に為景が関東に行ったり 宗瑞が越後に入った形跡はないんだが どうだろ?
72 :人間七七四年2008/02/23(土) 21:17:48 ID:qhBKto3a
若き時に武者修業で各地をまわってた設定にすればなんとでもなるよ。
73 :人間七七四年2008/03/11(火) 15:08:42 ID:iOUfsjAw
為景の親父能景は永正元年(1504)に河越城を攻めているんだね。
ここいらかな 可能性があるのは。
78 :人間七七四年2008/05/14(水) 04:05:29 ID:77HHyfvP
守護代殺しは房能の父の房定もやってるから
やられる前にやったってのもありそう

平子朝政萌え
83 :人間七七四年2008/05/26(月) 22:57:23 ID:ilM0nsut
>>16
混ざってるようだが
越後の龍 甲斐の虎 な
84 :人間七七四年2008/05/27(火) 01:35:44 ID:O8yBWyKM
>>83
「越後の龍」も「越後の虎」も謙信の異名だ。
「甲斐の虎」の対としてなら「越後の龍」となるが。
ちなみに武田信玄の異名に「甲斐の龍」ってのもある。
謙信の「越後の虎」は謙信の名乗りに「虎」の字があるからで、
信玄の「甲斐の龍」は信玄が龍朱印を用いたからと言われている。
逆に越後の龍・甲斐の虎としたときの由来は一切不明。
86 :人間七七四年2008/05/28(水) 07:23:34 ID:6zWNRV1V
その中からどれか選べってのなら「越後の龍」も「越後の虎」だな

これはキャラクターから。
87 :人間七七四年2008/05/28(水) 07:25:09 ID:6zWNRV1V
まちがえました

○ その中からどれか選べってのなら越後の龍 甲斐の虎だな。
88 :人間七七四年2008/05/28(水) 22:38:03 ID:+tjo1dqb
「甲斐の虎」は畠山?の肖像画からのイメージや、信虎をはじめ周りに虎がつく人物が結構いたからつけられたような気が。
よく分からないけど。
89 :人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/03(火) 01:01:12 ID:LH29a4qj
まぁイメージで言うなら主を二度も殺した為景は
飼い主を噛み殺した越後の狂犬って感じだな。
91 :人間七七四年2008/06/24(火) 10:46:41 ID:jQ5KISYd
主筋にあたる守護上杉と関東執事上杉を殺害。
息子と正反対だなw

でもどれも一応越後国人たちの支持を得てやったことなんだよね。
あとになって「そんなはずじゃなかった!」と騒ぐのも国人たちだがww
92 :人間七七四年2008/06/25(水) 00:12:55 ID:wzkcP8jA
房定による国人締め付けは房定が有能な分決定的な対立には至らなかったが、
房能は実力も無い癖に国人衆の権益を奪おうとしたからな。
顕定はどう見ても無能だし。
国人衆にしてみればウゼエ房能とバカ顕定をやっつけてのほほん定実がトップになると思ったら、
輪をかけてタチの悪い為景が定実を無視して国人衆を牛耳りはじめたため、
オイオイおまえが出てくんなよすっこんでろよと上条氏の乱に乗っかったわけだなw
93 :人間七七四年2008/07/10(木) 18:48:09 ID:pO1YtQBM
寅の年に生まれた謙信が景虎と名付けられたから龍より虎の方がしっくりくるんだがな。
94 :人間七七四年2008/07/11(金) 09:14:32 ID:1HUxShgw
相模の虎、甲斐の虎ときて、さらに越後の虎か。
トラトラトラだな。
96 :人間七七四年2008/07/11(金) 16:37:59 ID:fM1H/JuX
氏康は獅子も虎もあり。
他には確か織田信秀が「尾張の虎」で、長宗我部国親が「野の虎」だったかな。
97 :人間七七四年2008/07/11(金) 18:01:05 ID:1HUxShgw
虎ってとありきたりだから、やっぱり龍でいいんじゃない?
どう考えても虎より龍が強いだろうし。
100 :人間七七四年2008/08/01(金) 10:47:53 ID:0XNRwJWC
甲斐の虎:親父が虎だった
相模の虎:印判が虎だった
越後の虎:名前が虎だった おまけに家臣が放し飼いの虎みたいな奴ばっかだった
102 :人間七七四年2008/08/09(土) 22:11:40 ID:D8G6mEOO
為景は時々負けているけど、信玄や謙信よりも強そうな気がする。

謙信たちが武道の達人なら、為景は刃物を持った薬中かなw

でも権威をうまく利用しているから、ただの気違いじゃない。
103 :人間七七四年2008/08/14(木) 21:42:42 ID:wN8QTqjF
昨今は為景の没年を上杉年譜の表記にある通り、
天文十一年(1541)と見る向きが強いけれど、
それじゃ今まで通説としてまかり通ってきた天文五年(1536)の根拠はなんだったんだろう?

どうにも出典がわからない。

晴景の生年も異説が出ているらしいし。
104 :人間七七四年2008/08/14(木) 22:01:40 ID:wN8QTqjF
ただし軍談などの栴檀野の戦死を根拠にしているとは思えないが、
布施、井上、花ヶ前が長く定説とした理由がわからない。
107 :人間七七四年2008/08/21(木) 18:49:30 ID:XPdUsCni
こんだけ存在感あるのに没年すら不確定なのも凄いな。
越後守護代家はほんと謎ばかりw
109 :人間七七四年2008/09/09(火) 16:02:54 ID:84LjQeoU
林泉寺の記録も結構いい加減じゃないかな。
謙信を養育したという伝承もうそ臭い(常安寺で育ったと考えるのが妥当)。
旧過去帳もあとから作ったものだろう。
そうなると逆に上杉年譜の為景没年の年代はどこから来たのかって話になる。

110 :人間七七四年2008/09/12(金) 01:07:44 ID:u1n/QzHs
>>97
いつ闘ったのを見たんだよw
どちらかの方が強いんじゃ意味ないだろ。
「竜攘虎搏」の喩えを知らないのか。
111 :人間七七四年2008/09/12(金) 01:39:12 ID:gXeMNN/I
転載

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/10(水) 14:09:19 ID:q4JQeDWc
大永4年(1524年)、北条氏綱は扇谷上杉氏の家臣、太田資高を寝返らせて
江戸城を攻略した。

扇谷上杉朝興はこれに対し、北条と対決する事を決意。
そのためには軍勢である。彼は越後を支配する長尾為景(謙信の父親)に、援軍を申し込んだ。

が、為景は、言を左右にして態度をはっきりさせない。
彼の元には氏綱から、このような書状が届いていたのだ。

「為景殿かねてよりお探しの名画、間もなく手に入れられそうです。」

為景は、絵画の愛好家であったのだ。

援兵は来ぬまま、江戸城は北条の元に下る。
為景の元には、羨望していた名画が、北条より届けられた。

為景にとっては主筋の衰亡よりも、絵画のほうが大切であった。
そして氏綱にとっては、個人の趣味趣向も、大切な謀略の種なのであった。
112 :人間七七四年2008/09/12(金) 09:26:37 ID:WQ2m7aNk
為景は一度贈られた絵画を気に入らないと北条に突っ返しているよな。
成り上がり風情がと見下していたんだろうか。為景も成り上がりではあるがw
113 :人間七七四年2008/09/15(月) 21:15:50 ID:Tjtq05ot
>>111
その頃、為景は上杉と対立しているからね。
114 :人間七七四年2008/09/17(水) 11:16:26 ID:9Nqs2vzM
為景は一向一揆を国内から見事排除しているな。
しかも信仰そのものを禁止している。
信長より強圧的だ。
115 :人間七七四年2008/09/17(水) 12:37:05 ID:U49kr7lW
この当時一向宗に対する警戒感は強いからな。
ただ、この当時一向宗は、畿内の細川政権と一体化していたから、
細川政権と地方政権との確執の結果、と考えたほうがいいかもしれん。

為景は特に、細川政元と盟友関係にあった越後上杉氏から、下克上してしまったわけで。
116 :人間七七四年2008/09/17(水) 15:39:58 ID:s7MZhq++
夢を壊すようだが、
「越後の龍&甲斐の虎」の表現はあくまで後世のあだ名にすぎず、
リアルタイムでは、景虎だけ「越府の虎」と呼称されてたのみだと思われ。
117 :人間七七四年2008/09/17(水) 15:54:00 ID:y6EN15lL
>>115
上杉房能は能景を一向一揆鎮圧に向けてこれを死なせたけれど、
これを長尾を潰す謀略と解釈すると、
なるほどその直後為景が国内の一向宗を殲滅して、
房能を自害させる流れも納得できますね。
118 :人間七七四年2008/09/17(水) 17:33:17 ID:U/OrgZm2
京兆家の当時の標的は畠山じゃないかな
畠山尚順はバリバリの義材派で、能登畠山もそれに協調姿勢
越中はいわずと知れた河内畠山の守護国で、一時は越中公方なんてのもあった

長尾の件はとばっちりというか、思わぬ余波というか
顕定が死んだ後、高国は為景と組んで憲房のこと袖にしてるくらいだし
119 :人間七七四年2008/09/17(水) 17:39:49 ID:U49kr7lW
>>118
その後晴元政権の成立でまた越後大混乱。
120 :人間七七四年2008/09/17(水) 19:52:46 ID:U49kr7lW
為景には変な伝承が残っているな。

為景が猟をしていて山の奥深くまで分け入ると、巌窟の中で座禅している僧がいて
「わしが弓矢を見に帯びて来てさえ物すさまじい場所なのに、なんとしてかような崖の処にいるか」
「自分と言う心があればこそ、さびしく思うもの。心がなければさびしいとは思わぬもの。」
「そのように答える者は何者ぞ」
「巌松無心風来たって吟ず。問えばこそ堪えたよ。」

いかにも禅風な逸話だけど、何で為景なのか良くわからん。
121 :人間七七四年2008/09/18(木) 09:03:53 ID:6IKmxsWl
>>120
はじめて聞いた。どこで伝わる話なの?
122 :人間七七四年2008/09/18(木) 12:05:49 ID:c1LMZO2f
あ、>>12の下から2行目は「堪えた→答えた」ね。

>>121
「醒睡笑」って本。
123 :人間七七四年2008/09/18(木) 12:17:08 ID:35vIyiWb
>>122
さんく。ネタ本としてはなかなかのものっぽいねw
124 :人間七七四年2008/09/20(土) 15:03:41 ID:8WFMLd26
いま出版されたばかりの「上杉三代記」を読み始めているけど、
為景が家督を継いで房能を追い出すところから丁寧に描かれていて、
なかなかいいね。
作者の嶋津義忠は70ぐらいの爺さんなのに、
採用している学説が新しい。
北条早雲の扱いは古ぼけた解釈のままだが、為景はちゃんと18歳で守護代になっている。
かみや綾子も出る辺り心憎いね。
謙信や景勝のところまでたどり着くのが楽しみだ。
128 :人間七七四年2008/10/13(月) 00:27:28 ID:gj/vndez
実行力の塊というか、ただ単に戦が好きなのかな?という気がしないでもないな。
129 :人間七七四年2008/10/13(月) 00:40:30 ID:cPGFNNrY
戦は天文五年(一五三六)を最後にぱたりと止まってる。
死んだのか、もしくは隠居したのかは知らないが、
それまでだいぶ心身を蝕んできたのだろう。
130 :人間七七四年2008/10/16(木) 23:44:10 ID:9yePsyQs
好きで戦してたわけでもあるまいて
131 :人間七七四年2008/10/17(金) 01:21:48 ID:nTNjyVAR
この人はなにげに、細川高国、畠山尚順、伊勢宗瑞とかと連携してるんだよね。
132 :人間七七四年2008/10/18(土) 22:25:35 ID:KMmh2eZX
>>130
権力の安定実質化の為に中央の将軍うあ天皇からお墨付きを獲得したり
婚姻政略で主家を傀儡化したり「出来る」ヒトなのに、何か揉め事があると
話し合い抜きで「とりあえず戦でケリつけようか?」というカンジがするんだよね。
133 :人間七七四年2008/10/19(日) 13:46:17 ID:xIDmw0Kg
為景が参加した合戦って、
1.房能及び房能派に対する戦争
2.顕定及び顕定派に対する戦争
3.越中における一向一揆勢・反守護派に対する戦争
4.定実及び定実派に対する戦争
以上の4種類だな。

1は房能の増長への対抗及び父の戦死の原因を房能に求めたため
2は顕定の復讐戦への抵抗
3は越中守護畠山尚順の要請
という理由がある。

1が「親父を見殺しにした上俺達家臣の既存権益を奪うつもりか!!」なら、
気持ちはわからんでもないし、連続する2は仕方が無いものともいえる。
3は隣国の要請だし、一向一揆は親父を殺した張本人だから戦争好き以前の話。
とにかく合戦で何とかしようとしたのは4だけの気もするけどな。
134 :人間七七四年2008/10/20(月) 09:44:55 ID:NY7mpTiS
不思議なことに三分一原の後は死ぬまでの六年ほど一度も戦争してないね。
死亡説が覆りつつある今、非常に疑問。
135 :人間七七四年2008/10/20(月) 10:44:50 ID:atgcrood
死亡はなくても何らかの体調の問題があったのかもしれない。
136 :人間七七四年2008/10/20(月) 17:58:02 ID:NY7mpTiS
順当に考えれば三分一原で負傷した可能性が高いかも。
死傷者が少なくなかった辛勝みたいだから。
138 :人間七七四年2008/11/08(土) 14:32:55 ID:9udSSOgx
失脚して表舞台にでれなくなったのかとも思ったけど
それなら一悶着ありそうだから
やっぱ再起不能なぐらいの負傷があったのかな
142 :人間七七四年2008/11/29(土) 07:00:25 ID:ud5UprBS
軍記ものの中の謙信は、信長に負けないくらい残虐だけどな。
実際にそう言うイメージもあったんだろ。
143 :人間七七四年2008/12/04(木) 15:43:30 ID:12CwkYHY
甲陽軍鑑だとすごい暴虐だが激強い謙信…
特に越山して松山城へ急行してきた謙信が松山城を落城させた北条武田共同軍の目の前を
上杉軍の横腹を見せながら行軍して北条側の砦を攻め潰して、また横腹を見せながら帰っていくし。
輝虎は強すぎでやべぇーって北条武田も傍観して去るのを待ってる始末。
146 :人間七七四年2008/12/07(日) 09:45:45 ID:WEBcZuCH
関東には何度か出向いてはいるな。
関東の紛争には傍観を決め込んでたみたいだけど。
148 :人間七七四年2008/12/07(日) 10:40:54 ID:nzfOPFsZ
16歳で親父に連れられて出向いたぐらい。
149 :人間七七四年2008/12/11(木) 21:06:49 ID:aNMhVNzj
>>148
どこに行ったん?
150 :人間七七四年2008/12/12(金) 06:14:25 ID:xsLcyYsK
武蔵まで出かけて、関東衆をふるぼっこwww
能景爺さんは謙信より強いんじゃないかと
151 :人間七七四年2008/12/12(金) 10:22:02 ID:L5b/lDTQ
爺さんがんばって相模までやって来てたろ。
相模守護代だか相模分郡守護代だか分からんが捕縛してるし。
152 :人間七七四年2008/12/16(火) 18:25:28 ID:xYsI/dXA
当時から戦鬼と呼ばれたらしいね。
出典は知らないけど。
153 :人間七七四年2008/12/18(木) 19:35:32 ID:6iZoeZag
たった今「日本の教養テスト」で、
雪合戦は長尾為景と上条定憲の争いが起源だとかやってたけど、
長尾と上杉の家紋が逆だった…
155 :新年おめでとうござる2009/01/01(木) 00:54:24 ID:3G2EjsW3
長尾弾正右衛門尉は紀州にいる越中守護の畠山尾張入道卜山と頻繁に情報交換しあってたようですな。
158 :人間七七四年2009/01/06(火) 09:27:26 ID:Nm9tq1KM
>>155 越中守護代の神保越前守慶宗が主君(守護)である卜山(畠山尾張守尚慶)公に弓を引いたからね。
依頼された越後守護代の弾正右衛門尉としては越中に攻め込まざるを得なかった。
もっとも弾正右衛門尉も主君である越後守護上杉房能公を討ったんだけど。
ある意味神保越前は親父(能景)の仇みたいなもんだし。
160 :人間七七四年2009/01/07(水) 14:38:14 ID:dYdesr0b
弾正左衛門尉は関東管領上杉顕定まで排すような輩。
下剋上の申し子のような人間だ。神保越前の謀叛の討伐に乗ったのも
義のためではあるまい。
161 :人間七七四年2009/01/07(水) 22:50:48 ID:6E2KQ0Hx
畠山は細川や一向宗にさんざん苦しめられた上、越中神保の謀反だからな
長尾の手も借りたい状態であったことは間違いない
162 :人間七七四年2009/01/08(木) 00:33:39 ID:OaX+7Kqz
為景にとって一向宗は不倶戴天の敵だからな。
1520年前後の越中騒乱は細川高国の斡旋で一向一揆と畠山の和睦で終了したはずなのに、
一向宗は認めない、信者を見つけたら注進せよ、と逆に煽ってるし。
元々畠山−上杉対一向一揆の構図が畠山−長尾対一向一揆に変わっただけ。

とはいえ能景さえ一向一揆戦で戦死してるから、越中騒乱に参加した家臣連中も、
もし自分が死んだら後は〜、という遺書みたいなのを本国に送ってる。
最初の出兵は冬の到来で撤退してるが、
やっぱ為景自身は勝つ気マンマンだったんだろうなw
163 :人間七七四年2009/01/09(金) 09:21:25 ID:UZ5nwWis
畠山氏から越中分郡守護代に任じてもらったから上杉だけでなく、足利支流畠山氏の家臣でもあるわけだ。
関東管領顕定を討った時には、幕府つか細川高国だっけ?から為景の正当性を認可してもらってるし。
のち義輝暗殺事件の後に輝虎は河内畠山氏から上洛支援要請を受けてるし。
長尾一門って献金を通じて足利一族とはけっこう親しかったんじゃないかな?
164 :人間七七四年2009/01/14(水) 11:36:31 ID:NqeT6Bq6
謙信の兄が健康な豪傑だったら上杉軍団は恐ろしい強さだったな
165 :人間七七四年2009/01/14(水) 22:06:56 ID:YrPX4Yi7
謙信が仏門から出てこないって事だから、余り変わらないのではw
166 :人間七七四年2009/01/15(木) 11:45:55 ID:VM9SmBh5
河内畠山氏と畠山尾州家(尾張守尚順、または尚慶)は同じなの?
尾州家は紀伊に在所の越中守護だったわけだが。
167 :人間七七四年2009/01/15(木) 23:48:39 ID:HcTyVKb0
河内、越中、紀伊は河内畠山
能登は能登畠山

尚順の時代に紀伊在所が多いのは大人の事情による
168 :人間七七四年2009/01/20(火) 01:27:44 ID:J3CLXRD7
畠山卜山(尚順、または尚慶)に抗した神保越前守慶宗(長尾弾正左衛門尉に討たれ滅亡)の出た
越中守護代神保家はその後、徳川の旗本として残り、江戸に住まいした。私事だが、それが我が田舎(実家)
である都内の某駅や地名になっております。どうでもいい話でした。
169 :伊勢左京太夫氏綱2009/01/21(水) 00:10:19 ID:WJ4U0x8L
信州(長尾信濃守)殿は、この左京太夫の贈りし絵をお気に召さなかったようだ。
邪魔な両上杉を北から抑えていただくためにも信州殿にぜひにもお受けいただきたかったのだが。
172 :伊勢左京太夫氏綱2009/01/21(水) 19:34:46 ID:hQWLiQ2/
あれは、牧稽の絵であって鷹など贈った覚えはないがの。何か勘違いをしておるな。
甲斐は全く信用できん。
173 :人間七七四年2009/01/24(土) 19:47:39 ID:NrMv7ZVu
一言で言って

長尾為景=柿崎景家のパワーアップバージョン
175 :人間七七四年2009/01/24(土) 23:04:58 ID:4wkOq4Ww
外交(上杉家を代表して)と内政(自分の所領内だけではなく、越後全体の)に深く関わり、
軍事活動でも(上杉家に対し)多大な貢献をしているってのは一緒だけどな。
そういう意味で言ってるようには見えんがw
176 :長尾左衛門大夫顕景2009/01/27(火) 21:07:25 ID:kzuuPr4I
長野左衛門大夫(方業)が謀をして我ら一族(総社家)を滅ぼそうとしています。内通した福蔵主を討ちましたが
気がやすまりませぬ。当家惣領孫五郎顕方の招いたこととは申せ、ここは御同名中(長尾一門)の信濃守殿に
ぜひにもお力添えを願いたく、お願いいたしまする。
177 :人間七七四年2009/01/29(木) 10:18:28 ID:9QVEmjj0
それは顕方殿が管領様に反旗を翻して伊勢に付いたからだろう?
白井家は管領様に忠義を尽くしているよ。
178 :人間七七四年2009/01/29(木) 11:21:07 ID:rXqCrl09
方業って箕輪長野の叔父で厩橋城にいたんだっけ?
182 :人間七七四年2009/03/14(土) 13:15:13 ID:wXc1E6jv
三浦沼田氏の家督争いに介入し沼田万鬼斎と側室の子を会津に追放して自分の娘婿を沼田城主にした方が方業?
のちに沼田城は戦わず降伏し北条の手に落ちてるし、北条が裏で糸を引いていたのかな?
謙信が越山した時に北条を排除し、三浦葦名氏に逃げていた沼田万鬼斎親子を沼田城に復帰させ、謙信に降伏したものの長野方業は北条への内通が発覚し殺されたし。
183 :人間七七四年2009/03/31(火) 14:10:05 ID:DiElg/iF
三浦葦名氏とは?
184 :人間七七四年2009/03/31(火) 23:31:05 ID:1RWbV/IN
>>183
三浦氏の子孫を称している会津の葦名氏のこと。
185 :人間七七四年2009/04/18(土) 13:22:23 ID:NBhiCQxu
三浦は平氏だよね、何故わざわざ苗字を二つ名乗るかな?
186 :人間七七四年2009/04/18(土) 14:38:45 ID:sw9vQSP0
>>185
葦名氏自身が称したのは平氏。
三浦葦名と呼ぶのは後世になって血統をわかりやすく明示するため。
葦名氏なんて三浦氏の分かれの会津葦名氏しか知らんが。
188 :人間七七四年2009/05/08(金) 04:50:22 ID:t+ccKvBw
千葉相馬、大江北条(安田・毛利)、結城白川、佐々木六角(京極・朽木)

血統がある程度確かなら言い方次第でいくらでも。
191 :人間七七四年2009/06/08(月) 17:56:34 ID:KL0xxXjL
この人が越後の財政握っていたから下克上が可能だった、って言う歴史群像の記事は
中々面白かった。
192 :人間七七四年2009/06/08(月) 21:59:43 ID:0DQEIOPE
あれはあてにならんがね。
194 :人間七七四年2009/06/23(火) 01:56:35 ID:V78rEFDG
>>192に同意します。
林泉寺は長尾の菩提寺であるからあれは長尾の財政を示す資料でしょう。
城の作事費は長尾の春日山、京都関係も長尾の幕府朝廷工作に費やされたもの。
享禄二年当時は後に長尾と対立する大熊が段銭として辣腕を振るっており、
毛利氏に大熊が公金を低利で貸し出しているのは彼が上杉の財政を握っている証。
長尾が上杉の資金を私的目的に流用したとするにはかの論では説明不足です。
197 :人間七七四年2009/07/22(水) 22:07:45 ID:uQSmeqKk
長尾一族の最実力者として認められていたようだけど、他の長尾氏への対応は
その時の状況によって是々非々。
199 :人間七七四年2009/08/06(木) 21:41:39 ID:5UDCvuvN
栴檀野討死説が根強くあるのは「天と地と」の影響もあるんじゃないの。
ちなみに映画「天と地と」では「世界のミフネ」が為景役。
200 :人間七七四年2009/08/07(金) 01:43:30 ID:ssKh4b2w
>>199
栴檀野はそんなに根強いか?
昨今では小説や論文で取り扱うのを見ないよ。
為景塚がある地元だけだろう


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