2011年01月12日

【成皇帝】袁術様について語るスレ

1 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/03(土) 00:48:20 ID:S2U5HoWV0
何かと失策が目立つ彼ですが、
一時は袁紹と共に最大勢力の一つでした。
陛下について語ってみましょう。


3 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/03(土) 13:33:31 ID:KtFETgtV0
陛下ほど下種で、陰湿で、落ちぶれた男も珍しい。
でも陛下麗しいよ陛下
4 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/03(土) 13:51:30 ID:QqhT+slP0
一応wikiから

 袁術(生年不詳- 199年)は後漢末期の群雄。仲の初代皇帝。字は公路。父は後漢司空の袁逢。袁紹は異母兄とも
従兄ともいわれる。同母兄は袁基。袁術は袁氏を陳の宣公時代の大夫・轅濤塗の末裔(轅濤塗は帝舜の血脈)と称し
た。

御曹司から諸侯へ
 若いころは侠気をもって知られ、仲間達と遊びほうけていたが、後に行いを改め孝廉に挙げられ、順調に昇進し河南
尹、虎賁中郎将に至った。

 189年に霊帝が崩じた後、袁紹と共に政事を跋扈する宦官数千名を誅殺する。その後董卓が都に入ると、後将軍に
任じられたが、害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ奔った。長沙太守の孫堅が南陽太守を殺害したため、袁術はその
後任に収まり、南陽郡を支配し、孫堅を豫州刺史に任じて董卓を攻撃させた。南陽郡は人口が多く豊かであったが、
袁術が贅沢を尽くし、税を際限なく取り立てたために人々は苦しんだ。
5 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/03(土) 13:52:19 ID:QqhT+slP0
二大勢力
 袁術は袁紹と対立しており、それぞれ群雄と手を結んで争っていた。袁紹についたのが曹操、劉表、韓馥ら、袁術に
ついたのが孫堅、公孫瓚、陶謙らである。袁紹が董卓のたてた献帝に対抗して、劉虞を擁立しようとするが、袁術は真
っ向から反対している。

 192年(初平3年)、孫堅に命じて劉表を攻撃させたが、孫堅は敗死する。

 193年(初平4年)、兗州の曹操を攻撃するも曹操と袁紹の連合軍に大敗、揚州へと逃走し、寿春に拠る。

 李カクが長安に入ると、袁術と手を結んだ。

 その後、孫堅の遺児である孫策に揚州を攻略させ、楊州刺史劉繇を撃たせるなど勢力を拡大するが、奪った領土は
袁術子飼いの武将に分け与えられた。この行為は孫策の反感を買い、後の離反へとつながった。

 ちなみに、その時に幼少であった陸績が袁術の元におり、袁術が陸績におやつとして蜜柑を与え陸績がそれを母親
に食べさせたいからと言う理由で隠し持って帰ろうとしたことが判り「とても親孝行な子供だ」と自ら褒め称えたという逸
話が二十四孝として残っている。

皇帝即位
 197年(建安2年)に彼は寿春を都として皇帝に即位した。「国号を成と称号し、元号を仲家としたものの諸群雄の同意
を得られず、また袁術本人の奢侈により人心を失った。」などという俗説が有名だが、それは誤解で、いわゆる国号が
仲である。おそらく『後漢書集解』にある「仲氏(仲家)とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように」国号である、との文を
読み違えたものと思われる。

 しかし献帝はまだ健在であり、諸侯からは皇帝として認められず、また袁術自身が欲望のままに快楽を求めて、国内
に重税を布いて贅沢三昧の生活を送ったため、国民は大いに苦しんだ。この無茶苦茶な暴政に袁術の家臣の多くも袁
術に見切りをつけ、離反する者が相次いだ。孫策も皇帝即位を諫める手紙を送っているが、納れられず離反している。

 だがこの時に呂布と同盟をしており、諸侯が呂布討伐で苦しんでいたため他国からあまり攻められはしなかった。
6 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/03(土) 13:53:33 ID:QqhT+slP0
惨めな最期
 呂布滅亡後、曹操らに攻められ国を失い、部下の雷薄、陳蘭を頼って落ち延びたが受け入れてもらえず、199年(建安
4年)夏6月に袁紹の元へ逃げる途中に病死した。韋昭の『呉書』によると、蜂蜜入りの飲物を所望したが、蜂蜜も無かっ
た。そこで「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、一斗(当時は約1.98リットル)余りの血を吐いて死ん
だという。

 袁術の妻子は、元の部下の廬江太守劉勲に身を寄せ、孫策が劉勲を破った際に孫策に保護された。袁術の娘はその
後孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕官している。娘(袁夫人)は行いは正しかったが、男子は生まれなかった(女
子については不明)。また、他の夫人の産んだ子を何人か彼女に養育させたが、いつも育たなかった。実質的な正室の
歩夫人が死去すると、皇后に立てようとする動きがあったが、袁夫人は辞退した。のち、潘夫人(孫亮の母)の讒言によ
り、孫権に殺された。

 『三国志演義』では「伝国の玉璽」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、袁術の死に関して
は、曹操から袁術攻めの協力を求められた劉備の義兄弟・張飛の配下の山賊に兵糧攻めにされて、最後は大好物の
蜂蜜が無いのに怒り、血を吐いて死んだと書かれている。三国志演義では袁術最後の話には他にも諸説が作られ、甥
の袁胤のみが生き残り飢えと苦しみの中歩き続けとある農家に辿り着き水を求めるものの、その農家の主人は昔袁術
が支配していた町の市民であり、水が入った瓶を割って飲み水が無くなったことを告げると「栄華を誇っていた俺にはも
う民心は付いてこないのか…」と落胆し、血を吐いて死亡するという話がある。

 更に、横山三国志では、憔悴しきった袁術が農民に、「帝の袁術じゃ。水を持って参れ」と命令したが、農民は客が袁
術と知ると目の前の水瓶を割って「水はさっきまであったがね、今なくなっちまった。この身体に少しは血が残ってるが、
それ以外は全部お前に吸い取られてしまった。今度はわしを殺してそれさえ持って行きなさるのかね」と吐いて捨てる
様に言われ、「俺はもう一人の民も持たぬ王だったのか。水の一杯さえ恵んでもらえない国王だったのか。そこまで人
心は離れていたのか」と慟哭、吐血して絶命しており、とことんまで民に憎まれた袁術の末路を劇的に表現している。
8 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/04(日) 23:29:17 ID:X6vs+Uuq0
せめて中原ぐらいは統一してから、
皇帝になって欲しかったな。

あの時点での即位は、早すぎるだろう。
9 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/05(月) 23:53:36 ID:fFUF7yqR0
新朝崩壊後、劉秀が群雄と闘いを繰り広げていた頃の、
自称皇帝たち(劉秀を含めて)も、必ずしも大きな勢力ではなかっただろう。
10 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/06(火) 10:48:00 ID:Btva4Cor0
成はコーエーの嘘
仲氏と称したんだから国名は仲である可能性が高い
>>8
早過ぎない
あのタイミングで即位しなければ漢帝からの逆賊認定で名声が地に落ち勢力崩壊
むしろちょっと遅いくらいだな
11 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/06(火) 11:37:40 ID:nHZ+v/Yg0
やっぱ皇帝を僭称するのって周囲からは反感買うもんなん?
12 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/13(火) 15:17:02 ID:0a13yIQF0
そりゃあそうでしょ。
何せ途中断絶も含めたら400年も続いた漢朝だし、
神聖不可侵とまではいかなくても、相当な権威が確立している。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/14(水) 15:36:56 ID:Q9v0aX9LO
皇帝を名乗るってことは漢に対する反乱なわけだから、他の群雄としては
遺憾の意を表明しなきゃならんだろ。本音はどうであれ。
14 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/27(火) 22:19:06 ID:ZtyCdL9v0
創業者に相当なカリスマ性がないと、
王朝の創業は難しいわな。
15 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/03/29(木) 08:21:46 ID:qz8iYDJKO
曹丕ですら禅譲って方法をとったのに、儒教道徳に反したやり方で周りが付いてくるとは思えない
19 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/22(日) 11:42:39 ID:1OL+ieuW0
武勇絶倫、神算鬼謀、清廉潔白にして漢きっての名族、袁術陛下万歳
22 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 21:05:50 ID:K94RWRDz0
「成」は光武帝劉秀と争った蜀の公孫述が皇帝を名乗ったときの国号。
ちなみに皇帝になった根拠は予言書に「代漢者当塗高」とあったことで、
袁術もこの予言を自分のことだと思ったから皇帝を名乗ったらしい。
ちなみに光武帝は「当塗高」は前漢の宣帝を指すと解釈し、
公孫述に手紙で教えている。
23 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/15(火) 23:57:07 ID:B/sbqid20
袁氏って名門だけど、経済面での財力もやはりすごかったのかな?
26 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/02(月) 23:46:22 ID:3EGqbRT20
>>23
南陽郡はわりと豊かな地方だったようだから、そこそこじゃない。
だけど、イメージ的には、袁氏が名門としての声望なのに対して、
曹操は祖父の代からの財力って感じ。
27 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/03(火) 00:27:19 ID:dXSfeOgf0
>>26
袁氏の本拠地は汝南なので南陽とはちょっと違う。
荘園収入もあるし、高位高官に派閥の人間を送ってるから
金銭的には非常に有利な立場にあったとは思うけど。
南陽は袁術が居座っただけ。

後、袁氏自身もそれほど歴史が長くはないんだよな。
というか、新しいタイプの名門だからなんだけど。
それまでの名門ってのは古代天子・諸侯の子孫や孔子なんかの子孫、
漢の建国の功臣の末裔だけど、氏族としての実態は問わないから。
三国時代頃を境に「名門」というものが指す実態が変わってくるから
ちょっと厄介だけどね。
28 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/03(火) 11:26:25 ID:S0iVFhuR0
袁氏もなんだかんだで濁流たる宦官勢力と結んで、
力を伸ばした一族だからね。
29 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/03(火) 12:35:38 ID:99JAuAno0
ところで袁胤って最後どうなったの?

( ´w`)<袁皇帝の顛末は高低ありすぎだね、ナンチテ
32 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/12(木) 02:55:50 ID:SgPqzkSd0
袁術って別に弱くも馬鹿でも無いよな?
相手が更に強くて賢かっただけで
33 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/13(金) 20:17:08 ID:hDZ01Fc80
>>32
内政手腕に問題があるが、馬鹿ではないと思う
34 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/13(金) 20:23:12 ID:Sqwy/epl0
>>33
そんなに内政手腕に問題があるようにも思えないが…。
35 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/13(金) 20:28:56 ID:hDZ01Fc80
>>34
南陽の疲弊具合からしてあまり良い内政をしていたとは思えない。
根拠はそれくらいだから、俺の勝手な解釈だと考えてもらって構わない
36 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/13(金) 20:34:34 ID:Sqwy/epl0
南陽は後に曹操が重い軍役を課して、
侯音っていう南陽人が反乱起こすほど搾取されてた土地だからな。

また、南陽を圧迫する直前に同じく南陽人の豪族・婁圭が曹操に処刑されている。
南陽から搾取する際に邪魔になる存在として始末されたのかもしれない。

結論:どうも南陽を荒らしたのは曹操で、袁術は責任を押し付けられただけくさい。

まあ、これも俺の勝手な解釈だけど。
39 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/13(金) 22:03:42 ID:zfzF8q2F0
淮南はもっとひでーよ。
曹操によって民衆が根こそぎ強制移住させられてる。

やっぱりコレも「曹操が荒らしたのか袁術が荒らしたのかワカンネ」。

でもって淮南が「本拠地」だった袁術と、
本拠が別にあって淮南は「地方領地」に過ぎない曹操。
どちらが遠慮なく搾取できるかというと……うーん。
42 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/27(金) 01:24:12 ID:V/+LVkqU0
袁術に負けて秦伯南を殺された時ってどういう戦況だったんだろうなー
曹操の陣営や隠れ家でも突き止めたんだろうか
44 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/25(土) 23:08:21 ID:ksVjoIXy0
「袁術とその配下を語りましょう」がいつの間にか落ちてたな
>>42
多分呂布がカク萌にやられそうになったときと同じシチュエーションだと思う
45 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/27(月) 10:48:41 ID:cU3mV/sm0
対曹操のために呂布を引き入れたり、
呂布が袁術と協調しないとカク萌使って殺そうとしたり、
陳宮って袁術の利益になるようなことばかりしてるよな。
46 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/27(月) 11:30:34 ID:3FSpt1y00
各勢力に内通者を忍ばせていたって事か
47 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/27(月) 19:31:50 ID:6Zny/P9X0
>>46
むしろ袁術に未来を期待して寝返ったってことじゃないの?
50 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/28(火) 11:23:12 ID:bfDYn5j20
呂布が袁術に同盟しなかった理由って何だっけ?
51 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/28(火) 20:52:00 ID:sD4SGu9i0
>>50
チンケな野郎が恩知らずの陳瑀の件を逆恨みして妨害しまくったから
52 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/31(金) 04:33:09 ID:21OE6XVP0
>>44
>「袁術とその配下を語りましょう」がいつの間にか落ちてたな

ほんとだ・・・しばらく見てないうちに落ちてる。
いろいろと議論できて、良いスレだったのになー

>>45
そういえば徐州攻略戦のときも袁術に味方してるよな。
陳宮も袁術も相当な曹操嫌いだったみたいだし、敵の敵は味方ってやつかな?
54 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/05(水) 18:59:58 ID:i3SBxovR0
袁術も最初は曹操嫌いだったわけじゃないよね
誤情報だけど曹操が死んだって家族に教えに行ってあげてるし
55 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/06(木) 18:17:39 ID:T9e1uTli0
袁術は人を見る目が無かったんでしょうか?
57 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/11(火) 08:14:26 ID:PBQqVHXY0
朱儁なんかは董卓から袁術に寝返ってるんだから、
漢室を尊重する人物からは結構人望があったんじゃないかな。

魯粛は赤壁あたりでの立ち回りを見ても解るけど、
漢室を尊重する意志はあんまりないっぽいし。
58 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/11(火) 15:03:52 ID:Tlql9MW40
南陽近辺って、漢代には最も富裕な地域だったのかな。
江南はまだ未開の地だったわけだし。
59 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/11(火) 21:03:48 ID:r4/oouYo0
240万人いたっていうからね
http://www.weblio.jp/content/%E5%8D%97%E9%99%BD
でも黄巾が荒らしたから疲弊してるし
袁術が荊州中の兵を集めて董卓討とうとしたら劉表に後方占領されて補給止められて
南陽だけで荊州中の兵を養わなきゃならないはめになったからだいぶ苦しかったはず
60 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/11(火) 21:14:30 ID:r4/oouYo0
南陽太守だけで賄賂数十億銭手に入るってのもすごいよね
http://www.weblio.jp/content/%E5%BE%90%E7%92%86
62 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/17(月) 23:04:02 ID:f1NWk2+J0
釣りにしても酷い。
その袁術ににしてやられた曹操や劉備や養って貰っていた孫堅はゴミ未満か?
63 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/17(月) 23:21:22 ID:AuLbay7k0
そういう問題か?
ただ争いの種をばら撒いただけの輩という意味だろう。
64 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/17(月) 23:28:24 ID:20HL15Lk0
争いの種を撒いたのは寧ろ袁紹でしょ。
勝手に連合解散したり劉虞擁立しようとしたり。
65 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/17(月) 23:33:47 ID:AuLbay7k0
色々探せばどうとでも解釈できるさ。
ただ袁術様はどうしようもない馬鹿だった。
テキトーに天下を騒がせただけで哀れに死亡だ。
66 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 02:06:01 ID:vErSGuCd0
テキトーでもなんでも天下を騒がせられる奴はあんまりいない
67 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 02:58:08 ID:f5Q5dOOG0
甘寧と張遼の勝者が唯一の豪傑
呂布と関羽の勝者は その次
68 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 02:59:03 ID:f5Q5dOOG0
甘寧と張遼の勝者が唯一の豪傑
呂布と関羽の勝者は その次
69 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 04:36:56 ID:DwY5LMoO0
袁紹も反董卓のはずなのに
董卓攻撃しようとしてた孫堅を周グ使って後方撹乱したり
董卓の任命した劉表と手を結んだり
ろくなことしてない
70 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 04:50:00 ID:WsmSkZTC0
>董卓の任命した劉表と手を結んだり
董卓の任命した官吏は至極まともな名士ばかり。
劉表と手を結ぶのは董卓打倒の目的からすると、むしろその方法は妥当だ。
71 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 10:38:13 ID:u6Ejoxdl0
袁紹と袁術はもっと仲良くするべきだったとは思う。
何かどうあっても同じ天を戴けぬ理由でもあったのだろうか?
73 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 21:34:12 ID:8zyeOCyo0
>>70
何故?
劉表と袁術&孫堅は互いに荊州の領有を主張してるんだから争いになるのは必至
劉表がいたら袁術&孫堅が董卓攻撃に専念できなくなると考えるのが妥当だと思うが
74 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 21:45:13 ID:HYj6Bp/x0
>>73
勘違いしてたけど、袁紹が劉表と結んだのは董卓のためじゃなくて袁術に対抗するためだった。
75 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 21:47:11 ID:MP0hFcEy0
曲がりなりにも連合の盟主が、
董卓と必死に戦ってる袁術・孫堅の邪魔してるんだもんな。

まあ、本当に盟主だったのかも怪しいもんだが。
76 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/19(水) 08:53:43 ID:0wB9pyeE0
袁術の本隊は後方支援に従事して、実働は孫堅らの単独行動じゃないの?
袁術本人は戦下手というわけでもないのだから、
その後も、他人と盟約する事で楽に済まそうとしなければ良かったのに
77 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/19(水) 21:51:55 ID:53d7ANdL0
>>75
袁隗と一族が殺されてるから盟主だったんじゃないの?
>>76
自分より出来る部下に一任するのはある意味正しい
それに南陽は裕福だけど
黄巾が荒らした後だから兵站は意外と難しいんじゃないかな
78 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/20(木) 00:10:20 ID:ItXR3dXr0
>>76
孫堅は南陽で前任太守張咨を殺してたからかなり恨まれていた
あとで孫堅の共犯の劉祥が住民反乱で殺されるくらい
だから袁術は命の危険のある孫堅を外に出して
直接事件とかかわりのなくて後将軍というかなり権威がある自分が
その地にとどまって住民を落ち着かせる役に回ったんじゃないかな
79 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/20(木) 15:54:40 ID:eHOPeQb00
南陽って後漢朝にとっては非常に重要な土地なんだよな。
光武帝も南陽の人だし、?禹などの建国の功臣連中にも南陽人が沢山おるし。
80 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/20(木) 20:05:54 ID:DAEXg1d90
前期は確かに最優先事項だったかもしれないけど、後期は頴川や汝南あたりの方が重要度が高くなってる。
穎川や汝南を敵に回すと、後が怖いからね。

(穎?頴?忘れた)
82 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 10:55:20 ID:tco8oSY60
孫家を引き入れたのってどうなんだろう。
上手い事おだてて正当な褒章を与えても力を持ち過ぎて
結局離反しそうだし。ヘタしたら前任の荊州刺史の二の舞なような。
83 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 11:07:54 ID:Nw/Q6DHR0
南陽って後漢初期には李、樊、?、来、陰氏等の豪族の力が非常に強い地域
だったらしいけど、後漢末ではそういった豪族連中はどうしてたんだろう?
やっぱ袁術に協力してたのかな?
84 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 12:35:24 ID:tfZJezZ30
演義では曹操、劉備、呂布、孫策に四方で攻撃を受けることが可哀想だった
85 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 13:04:39 ID:QRf2JmqM0
でもその数年前には、
袁術・公孫サン・陶謙・張燕で袁紹・曹操をフクロにしようとしていたw
86 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 17:50:55 ID:VT8DtSdk0
そういえば傷寒雑病論のおっさんも南陽の出だな。
後漢にとってはかなり重要な意味を持つ土地だけど後漢末は
どうなんだろな。初期の豪族連中は光武帝の功臣系列が多いね。
南陽は戸籍が多かったみたいだから勢力基盤にはいいかも。

 
87 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/22(土) 18:58:49 ID:CnIpYe+40
「河南(洛陽)は帝城にして近臣多く、南陽は帝郷にして近親多し」
と言われるぐらいだからね
88 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/24(月) 02:33:50 ID:jmeVjRa00
何進一族も
89 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/24(月) 21:08:14 ID:u04pqOEp0
>>85
陶謙は闕宣の件で曹操と対立したのであって
袁術とは連携してないでしょ
90 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/28(金) 22:15:43 ID:7VYpanO90
>>88
董太后とは跡継ぎ争いもあるけど
董太后の甥に故郷を搾取されたのも対立の原因かな
91 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 19:55:23 ID:+tMs4fYe0
袁術は勤皇派ですよね?
93 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 20:00:43 ID:zHXZrUXv0
>>91
当時の群雄の中ではかなり勤皇派の群雄と言える。
94 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 21:05:20 ID:cihYbVK9O
献帝を奉じて漢の僅かに残る威光を天下取りに利用する戦略は袁術から曹操に引き継がれたね
95 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 22:33:35 ID:I/slhnt40
勤皇派だと思う理由は何で?もうちょっと詳しく
俺は袁兄弟は少帝には忠誠心あったと思うけど献帝にはなかったと思う
以下俺の想像に過ぎないんだが
袁兄弟は何進と結んで宮廷改革を行おうとしてて賄賂政治の董太后や十常侍と対立
その延長線上に劉弁と劉協の後継争いがあった。
それを何進も劉弁も殺されて劉協即位で董卓の乱脈政治
ここで何進と劉弁に明るい未来を描いていた袁兄弟は漢王朝に絶望したんじゃないかな?
あとはもう劉協無視で秩序回復を狙っていた
袁術って道徳的な政治を行いたいがために簒奪を行った王莽みたいな人間だと思う
96 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 22:36:54 ID:LpDqyfRd0
簒奪が成ってから皇帝を宣言すればその解釈もわかるが、
まだまだ群雄が割拠してる中で1人で勝手に皇帝になっちゃったら、単なる後先考えない馬鹿としか評価されない。
97 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 22:46:13 ID:wBvi2C3o0
一地域で天子を名乗った前例は、すでに後漢時代には大量にあるとはいえ
漢の名家の袁術が皇帝を名のるのは流石に馬鹿というかありえなすぎw
99 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 23:07:03 ID:wBvi2C3o0
黄帝子だの真人だの無上将軍だの天王だの黒帝だの
史料に名が残っているだけでも、.天子を名乗った賊は枚挙に暇を得ぬほどにいる。
100 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 23:50:41 ID:bFR7duUp0
>>95
確かに、袁紹は劉協に対する忠誠心はなかった。
だから反董卓連合にいながら真面目に戦わず、劉虞の擁立を画策し、
曹操と共に朝廷の派遣した刺史や牧を追い出して勝手に官爵を自称した。
さらに袁紹は「献帝を否定し」「新皇帝の擁立に失敗している」にも関わらず、
偽の勅命をばら撒いて自分のシンパに官爵を与えていた。
袁術が帝位僭称する前から相当な不義不忠を行なっている。それが袁紹。

対して袁術は、
手下(孫堅・張バクら)に命じたとはいえ董卓と積極的に交戦し、
献帝の奪還を考えていた(=献帝の正当性を認めていた)。
何進は死に、董卓の遷都に伴って劉弁も死んだが、
袁術は漢王朝に愛想を尽かさず、朝臣らとも連携をとっている。
また、袁術は基本的に官爵を勝手に名乗った事はない(帝位を僭称するまで)。

袁術が帝位を僭称するまで(或いは曹操が劉協を奉戴するまで)、
袁術は袁紹・曹操などよりよっぽど漢朝に忠実だったと思うんだが。
101 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/05(金) 00:16:46 ID:ar0E8B1R0
まず逆賊認定されたから、仕方なく帝位を僭称したんじゃないの。
でもそれだとその後で袁紹や劉勲を頼った事と辻褄合わない?
102 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/05(金) 16:21:06 ID:V6N0Dy4y0
単に袁紹と対立してたからじゃないのかな。あと袁術は勝手に官位
与えたり任命したりしてるけどな。 後漢の要地汝南に拠るとはいえ最初
から兵隊があったわけじゃない後進豪族の袁術という立場を考えると曹操と
同じスタンスというのは分からない話じゃない。

逆に"忠実"だったという過去完了で話すると僭称したことへの理由ずけが
難しい。後漢に対しては献帝擁護というスタンスは必要だったが王朝に
対しては忠誠心はなかった〜から僭称したと考えるほうが自然じゃない。

そもそも献帝否定=後漢への非忠誠心というのも違う気がする。

そもそも後漢への忠誠心なんてなんの役にもたたんしそれを利用する事は
重要でもそれ自体は生き残りには無価値だから群雄の能力への付加価値
はないな。 諸葛先生だって後漢というコンセプトに無理があると気が
付いて前漢回帰してるし。
103 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/05(金) 22:27:33 ID:LdD9whWo0
張バクが袁術の下にいたのははじめて聞くけどどの行動からそう判断するの?
あと王允とともに董卓暗殺計画を練っていた張温が
袁術との内通の件で処刑されたのは
誣告って言われているけど本当だったってこと?
104 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/05(金) 22:34:12 ID:I9tA0Y4s0
>>103
曹操に負けた張バクは誰を頼った?
105 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/08(月) 17:39:11 ID:ioDk4qp30
頼っただけでは判断材料にはならないよ
劉表を頼った高幹は劉表の配下じゃないし
袁尚も公孫康の配下じゃない
106 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/14(日) 17:05:51 ID:DM33rXnm0
「水を入れてる容器が割れたので無くなってしまいました」
この流れは酷いw 物語においてこれ以下の扱いにされた人物って他にもいるんだろうか?
107 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/16(火) 23:53:50 ID:1z80VjCQ0
>>106
何の話?
109 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/17(水) 11:42:23 ID:UpwwO3v60
>107 たぶん、演義か横山光輝の袁術の最期だと思う
たぶん、と言うのは実際には読んだ事が無いからで。
110 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/17(水) 23:53:49 ID:F8C6EDYG0
107だけど109のおかげでやっとわかったよ
水くれって言ったら目の前で水がめ割られたんだっけ
それはそれとして
袁紹って袁氏内では人望ないよな
袁渙、袁胤、袁嗣、袁叙と董卓の殺戮逃れた袁一族は大概袁術のところへ行って
袁紹の味方って自分の子と
袁紹・曹操に挟まれて言うこと聞かざるを得ない袁遺くらいじゃないの
(202年に袁紹方で魏郡太守やってた袁春卿がいるけど
父親の袁元長が揚州にいるし
これ見るとhttp://www.weblio.jp/content/%E6%A0%97%E6%88%90
前任太守は袁術の謀略で死んでるから
そのあとに送り込まれた人間で
袁術が死んだあとに袁紹の仲間に入れてもらったんだと思う)
112 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/18(木) 05:28:04 ID:8VBJlGDN0
>>110
袁紹は冀州、袁術様は南陽〜豫州に勢力を伸ばした。
袁氏の本拠は豫州汝南だから、袁紹よりも袁術様に付く袁氏が多いのは自然なこと。
114 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/20(土) 20:37:10 ID:VABAsKHJ0
敗北後の張バクが袁術を頼ろうとしただけじゃなくて、

・張バクと組んでいた陳宮はその後呂布の下にいたときも袁術との連携を取ろうとしていた
・張超が曹操に囲まれていたとき、救助に行ける体勢を見せていた(結局は救援ではなく徐州に兵を向けたけど)

ってあたりから、袁術と張バクが結んでいたんじゃないかなと自分も思う。
116 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/24(水) 13:52:42 ID:i6bhPBAAO
漢室を保護し名士を集め人民をいたわっていれば
誰よりも天下に近かった。
117 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/24(水) 21:18:12 ID:J6OlSTws0
恩知らずの孫策を始めとして、土壇場で裏切る輩が結構いたらしい。
118 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/25(木) 10:52:06 ID:RQniPVE70
袁術にも思惑はあったにせよ、孫策からすれば大変だっただろうからな。
孫権は袁術の遺族保護してるし
120 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/29(月) 11:58:06 ID:5U6wgu7x0
>>116
儒家的だな。はたしてそれで天下が取れただろうか。
121 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/29(月) 22:11:45 ID:zQxlBAub0
>>114
まず整理すると
陳宮は、呂布の妻が「公台は曹操からわが子のように待遇されていた」と言っている位でもともと曹操の腹心
張バクについてはこれ見てほしいけどhttp://www.weblio.jp/content/%E5%BC%B5%E9%82%88
若いころから袁紹の親友で、193年の陶謙討伐時の行動を見ても曹操の仲間であることは間違いない
曹操も袁術をこてんぱんにやっつけた後、家族に袁術の部下を頼れと言うとは思えない
曹操と敵対した後、敵の敵は味方ってことで組んだんだと思うよ
仮に郭貢が袁術配下で陳宮の求めに応じて乗り込んできたのだとしても
荀イクが両者が普段から連絡があったとは思えないと言ってるから
便宜的に手を結んだに過ぎないと思う
>>116>>120
袁術は儒教的に清廉の士ばかりを採用したんだと思うよ
袁術は許攸http://www.weblio.jp/content/%E8%A8%B1%E6%94%B8を排除しようとしていたけど曹操と袁紹は信任した。
才能よりも人格を優先するか人格より才能を優先するか
その違いが袁術が天下を取れなかった理由だと思う
なにしろ、天意が下ったとか言って兵を引き上げてくる紀霊とか
兵糧送らなきゃならないときに地元民に分配する舒仲応とか
使いものにならない奴らばっかりだもの
122 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/29(月) 22:59:33 ID:VK5h1afL0
>>121
まず、「曹操が張バクを頼れ」って言葉は、
「曹操の下に張バクがいる」って構図を思わせるんだけど、
実際には「張バクの下に曹操が居る」んだよ。
反董卓連合が結成された当初、曹操と張バクは共に陳留で挙兵した。
張バクは陳留郡太守。対して曹操は無位無官。
でもって袁術は反董卓連合時に曹操の死の誤報を曹操の家族に伝えた事があった。
曹操は袁術の管理下にあったんじゃないだろうか。
だから、反董卓連合当時、袁術→張バク→曹操という指揮系統があり、
連合の解散に前後して曹操が袁紹側に寝返ったんじゃないかと思う。

袁紹は偽勅をばら撒いてシンパに官爵を与えていたというし、
曹操は南陽から進出してきた袁術をコテンパンに打ち負かしちゃった。
曹操が袁紹へ寝返った事で、
いつの間にか陳留における曹操・張バクの関係は逆転してしまったんだと思う。
>>121の貼ってくれたURLでは、
曹操が「張バクのことを仲間だと思い込んでいた」ことはわかるが、
張バクも「仲間だと思っていた」かどうかは解らない。
曹操は多分、張バクも自分と一緒に袁紹サイドに寝返ったものだと思い込んでいたんだろう。
でも張バクは、まだ袁術サイドにいるつもりだったんじゃないかな。
123 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/30(火) 00:40:35 ID:Ol2JJoCp0
エン州牧になる時陳宮とかの根回しって張バクにはいかなかったのか?
124 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/30(火) 16:48:55 ID:DqYS2L8/0
>119 結果だけ見れば大差ない。
過程でも途中までそれほどは。
125 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/30(火) 22:14:17 ID:QnzxCwXw0
衛茲http://www.weblio.jp/content/%E8%A1%9B%E8%8C%B2を曹操に付けて董卓を攻めさせたってのは
実際には張バクが部下の衛茲と曹操を派遣したってことかな
立場が逆転したのは曹操が青州黄巾を併合してからだろうね
でも張バクが袁術の部下なら、なんで袁術がもっとちゃんと支援してくれなかったんだろ

袁紹は反抗的態度で一族の長老の袁隗に「お前は袁氏が滅ぼすんだ」とか言われてるし
曹操と一緒に花嫁奪おうとする無法者
名門の嫡子として正しく生きるよう躾けられていた袁術とは両者ともそりが合わないんだろうね
126 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/31(水) 10:42:47 ID:S0K8wizT0
袁術が曹操の家族に訃報を伝えたって何に書いてあるんですか?
127 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/31(水) 10:58:56 ID:07u+/eqj0
>>126
卞皇后伝あたりに書いてね?
128 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/31(水) 21:52:17 ID:Yn2/B3y00
張超が劉虞皇帝擁立の説得をさせるために臧洪を派遣してるから(臧洪は足止めを喰らって任務果たせず)、
張バク張超兄弟の意見が一致しているという仮定だと、
劉虞擁立に反対した袁術と張バクにつながりがあるとしても、あまりがっちりしてる感じはしないね。

と思ったら反対派の曹操が袁紹の傘下に入っているわけだし、あまり気にする事じゃないかな。
129 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/31(水) 21:53:32 ID:Yn2/B3y00
↑読みづらい文章になってるね。ごめん。日本語下手やな自分…。
130 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/05(月) 16:55:14 ID:+D+UNVXb0
袁術って黄巾討伐には参加してないんだっけ。
参加したとかいう記述もたまに見るんだけど
131 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/05(月) 16:58:18 ID:+NqShLYh0
虎賁中郎将っつーから、
洛陽でお仕事してたんじゃないかな。
133 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/07(水) 21:49:55 ID:ZSTtOHRS0
後漢書百官志
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_hyakkan1.html
つか、名目的にしても誰を討伐するために任命されたんだ?
134 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/14(水) 23:14:03 ID:tuWviWgd0
袁術は何進、何苗兄弟も歴任した河南尹に就いているし
何進の部曲の呉匡たちに真っ先に相談を受けて何進の敵討ちしてるし
何進のお気に入りで内外共に何氏勢力中で何兄弟に次ぐ重鎮と見られてて
何進勢力の名目的な相続者として(実質的には董卓に奪われてるけど)
何進系列の武将や文官たちを宥めるために
年齢がまだまだ若いから大将軍はやれないけど後将軍の位やるから
何進の遺志を継いで黄巾討伐してくれって言い含めて
董卓が任命したのかな?
135 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/22(木) 16:59:32 ID:MnhbWCBr0
董卓って袁隗をはじめ一族を殺してるが
袁術は何で董卓になびいたんだ? 
帝を擁している相手だから、仕方なく従ったのか?
136 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/22(木) 18:40:43 ID:YsVJLAGx0
袁術は董卓に靡いてはいないと思われるよ。後将軍に任命されたが、とっとと逃げ出した。
特にビジョンを持ってのことじゃなさそうだけど、反逆者になってしまった孫堅を保護したことで、
お互い渡りに船といった感じで、反董卓勢力を結成させた感じ。
むしろ劉表の方が意識してのことではないけれど、董卓に貢献した形になってる。
137 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/22(木) 22:52:25 ID:HGfQLrx30
董卓になびいたなんて解釈がどうやったらできるのか不思議。演義にはそう書いてあるのか??
138 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/23(金) 00:41:10 ID:nFHBmlql0
>>136
劉表はそもそも董卓の意志で派遣されたんじゃないの? 時期的に考えて。
袁術・孫堅に対抗する作戦として洛陽方面に朱儁、荊州方面に劉表を派遣。
朱儁が袁術に寝返っちゃったから李カクを派遣。みたいな流れだったような。
139 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/29(木) 18:33:55 ID:WTfidUUg0
少し気になったことがあるんだが、袁術はちょっと調べれば儒家思想に傾倒していた
ことが伺える。ここはおまえらも異論あるまい。
では何故、袁術は三国志の中でこれほどまでに悪人扱いされるのだ?中国人の大好きな
儒者ではないか。
142 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/29(木) 22:24:34 ID:HmpsBrtu0
新末に皇帝を僭称した公孫述はあまり嫌われてないな。
あと、河北を制圧しただけで皇帝を僭称した光武帝も嫌われてないな。
やはり、悪政を敷いて民衆を苦しめたのが袁術が嫌われた原因なのでは。
143 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/29(木) 22:26:56 ID:+myS72jz0
王莽は儒教原理主義による政治を行ったけど後漢代の儒者からは嫌われている。
それと同じようなことでは?
144 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/29(木) 22:29:35 ID:2Ruik2KA0
結構前にあったけど、
曹操が袁術に失政・悪政の責任を押し付けたとも考えられるんだよな。

舒仲応みたいな奴を罰するどころか賞賛してるあたり、
あまり民を苦しめてはいなかったんじゃねーのかと思う。
146 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/29(木) 22:46:22 ID:NR4gq6Wv0
個人として優秀だったり義侠や孝心を尊ぶ人間が良政を敷くとは限らない。
この時代だと陶謙、公孫サン、董卓など評価や事跡に一見矛盾が見られたりする。
袁術の場合、兵士に好きに略奪させたのは兵を養うのに自分の財力を
惜しんだからじゃないかな。
自分の地位が安泰な限り、または自分の目に付く相手に対する限りは、
それなりに寛大にもなれる、そういう平凡な(俺らみたいな)人物像を袁術から
感じたりしてる。

で、後漢末に天子を名乗ったのは十人以上いたはずだけど、
袁術はその中でも飛び抜けて大きな勢力で、にも関わらず数年で
ぽしゃったのが評価の厳しい理由じゃないかな。
他の有象無象は評にさえ値しないわけで。
147 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/02(日) 20:55:04 ID:JZDgm6FW0
袁術はかつて長水校尉に在職したことがあるとか。
外人部隊の指揮官だぜ。かっこええー。
148 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/02(日) 21:13:24 ID:pBNxRlF20
儒教的な観点からすれば、数年で滅んだ(しかも滅び方がかなり惨め)のは天が
そういう差配をしたからとするしかない。なぜ天がそうしたかと言えば、袁術が
天道に悖る行為をしていたからとするしかない。では天道に悖る行為とは?→
という流れだと思うが。
149 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/02(日) 23:03:23 ID:v9/5ISAQO
>147 胡騎を率いるとは胡人と何か縁あったのかな
150 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月) 19:08:26 ID:suw3KJHF0
前に中国近代史の本読んで
孫文が1920年代に広州に立てた政権が当時のどの軍閥よりも税の収奪が激しかったとかあったんだけど
一部地域しか治めていないのに全国を統治する機構を作って全国平定の軍備を進めたらそうなるだろうな
袁術も南陽とか淮南とかごく一部しか治めていないのに朝廷作って軍備増やしたから
「悪政」にならざるを得なかったんだろうな
151 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月) 21:02:49 ID:eiIqSR0f0
徴税がちゃんと軍備に行ってはいなかったと思うなあ
税収→宮廷や後宮の奢侈へ
兵士の給養→勝手に略奪させる
って感じ。
これでは練度は落ちる一方。
しかも豊かだったはずの淮南が疲弊し切って
曹操との敗戦から回復できず、
結局袁紹の元へ逃げる羽目になってしまった
152 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/04(火) 00:53:06 ID:ScRSi41+O
諸葛均も長水校尉じゃなかったっけ?
特に深い意味がある場合ばかりでもないと思う…
153 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/05(水) 02:42:56 ID:9TazGpYD0
>>139
>袁術はちょっと調べれば儒家思想に傾倒していた
”傾倒”していたと考える根拠をくれ。
その当時誰しもが儒学的正当性を拠り所にして戦いを繰り返していたわけだが。
154 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/06(木) 10:39:37 ID:at5bjI2y0
>151 そこまで搾取を行っていたなら、
袁術が最後は殆ど身一つで逃亡しなければならなかった事に合点が付かない。
道すがらで首狩りに会いそうだし
155 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/06(木) 20:58:20 ID:pcAyL97d0
>>154
一定の軍勢は率いていたようだよ。手持ちの兵糧が切れて出戻りしようとしている。
呂布や曹操との敗戦から立ち直る体力が淮南に残っていなかった
(或いは離反やサボタージュがあったか)ので青州の袁譚と合流しようとしたが、
劉備に阻まれるうちに病死。
という感じに読める。
156 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/07(金) 23:04:53 ID:4Pi1Oj600
>>153
うむ。確かにそうなんだけど、極端に儒家的なやつとそうでないやつがいるだろ?
儒家思想には、仁・義・礼・孝・忠などがあるわけだが、袁術の持つエピソードにはこれらを重んじていたと
思わせるものが多い。
例を挙げると、袁術の配下に舒仲応という者がいたが、舒仲応は戦争に必要な兵糧を独断で
民衆に分け与えてしまった、すると袁術はこれを咎めるどころか逆に褒め称えたというもの。これは仁だろう。
袁術は身分の貴賎を問わず、自分を頼ってくる者を拒むことがなかった。孫堅・呂布・楊奉・韓暹といった問題児
から朝臣の金尚やら。これは義だろう。
礼は今一つ確かなものが見当たらないが、孫策を太守にしなかったのは喪中だったからという説を採用するならば
これは礼であろう。陸積のみかんのエピソードは孝で、宦官討伐や反董卓連合での活躍は何進や朝廷への忠。

これらも建前と見るかもしれないが、舒仲応や紀霊などはどう考えても罰するべきだし、上記の問題児たちも
すべて受け入れることはなかっただろう。反董卓連合も他の群雄同様、傍観していてもよかったはずだ。
以上が他の群雄が名目上、儒家思想を利用していたのとは違うと思う点かな。

>その当時誰しもが儒学的正当性を拠り所にして戦いを繰り返していたわけだが。

ここまで書いておいてアレだが、具体的な例を教えて欲しい。
157 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/07(金) 23:26:20 ID:H2IX2SYx0
口を出すようだが、>>156が言ってることは、当時の武将なら誰でもやってることで、とくに袁術だけがやってることではないわけだが、
それでも156は「袁術は」と言い張るの??
158 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 00:18:34 ID:kmyf7Wh/0
>>157
何か言ってることめちゃくちゃになってないか?
そもそも「口を出すようだが」って日本語もおかしいがそれはおいといて

確かに当時の武将なら誰でもやったかもしれないが、
前提は>>139にあるように仁も礼もない昏君扱いになってる事への反例だろ
そして当時の武将が皆そういう事をやっていたのだとしたら、袁術も儒教的思想に基づいて行動していたと言える
誰でもやっていた=儒教的正当性がない ではないと思うけどな

ついでに儒教や漢室を蔑ろにしたというレベルで言うなら
曹操とかのほうが余程その手の脱儒教的エピソードに事欠かない訳でな
159 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 00:24:44 ID:DlGG6wnL0
不仁:袁紹との協和を軽んじ、呂布のような人非人を同盟者として頼んだ
不義:董卓という大逆を放置して党争に明け暮れた
不礼:信賞必罰を忘れ孫策一党を離反させた
不孝:拙い政治指導、戦争指導で一族をほぼ族滅させた
不忠:帝位僭称

>>156のような小さな善行で彼が犯した大きな悪行を打ち消せるものだろうか?
個人としては、それほど悪い人でもないけど善い人でもないということは分かる。
彼のスタートラインの優位優勢を考えれば袁紹、曹操に明らかに劣る出来損ないだ。
160 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 00:28:50 ID:nJzyvB1E0
端的に言うと「匹夫の仁」だから。かな。
大きな権力を握ったにも拘らず、それを政事に生かすのではなく、
その場かぎりの感動で人を褒め、それだけ。
袁術の良いエピソードはそんな類のが多いよね。

そもそもの論の視点である>>139の「三国志」が
何を指しているのかが曖昧だけど。
演義を経由する現代のイメージを指しているのなら、
段階的なイメージの拡大と言うしかないなぁ。
161 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 00:29:23 ID:kJsDSl8F0
>誰でもやっていた=儒教的正当性がない ではないと思うけどな
意味不明

>曹操とかのほうが余程その手の脱儒教的エピソードに事欠かない訳でな
曹操が忠臣である、などと言うつもりはないけど、袁術等の皇帝自称を超えるエピソードは無いね。
162 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 00:56:03 ID:l+SVGn1V0
>>161
孔融とその一族を処刑したのはどうか?皇帝僭称には及ばない?とんでもなく脱儒教的だと思うけど。
163 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 01:01:46 ID:PB5z6IiX0
>>162
それは孔融を大きく見すぎ
孔融は孔子の末裔で大臣だってだけで、別に儒教を体現する存在だったわけじゃあない
朝廷内の勢力争いの域を出ないよ

皇帝の胎児殺し、皇后殺しの方がずっとアレだろう
164 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 01:09:41 ID:OpV3BA730
でも孔融の主張って儒教本来の教えからはかなり逸脱したものなんだよね。
曹操ってやたら儒教の反逆者みたいなイメージで語られるけど、別に儒教そのものを否定したことないんだよな。
よく正史を読んでいくと結構曹操も儒教の教えに囚われてるようなところもあるし。

個人的に長い中国の歴史の中で儒教を真っ向から否定した為政者は始皇帝だけなんじゃないかなと思う。
165 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 01:11:18 ID:OpV3BA730
>>164は>>162宛てね
166 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 01:13:54 ID:PB5z6IiX0
>>164
禅譲という名の簒奪自体が、儒教の教えに背かないものだからな
孔子が唱えて孟子たちが理論化して王莽が実践した儒教究極の目的は「徳のある人は天子になれる」だもの
167 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 01:16:56 ID:kJsDSl8F0
>>164
渡邉義浩っていうセンセイは、孔融や曹操の行動も、総て儒教の範囲内で解釈できると言ってるよ。
そもそも曹操は漢臣の立場を取り続けたわけだから、儒学以外の思想による支配は元々眼中に無かった。
法律を多用したのもすべては治めるため。
168 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 02:52:23 ID:pt1DhZqvO
>159 ちょっと言いがかりみたいじゃないか?
袁紹との争いは、責を問うならば袁術袁紹双方にだろう。袁術に一方的に非があるとする根拠には欠ける。
呂布は丁原殺害はともかくとして董卓を排除した事などが漢臣らに評価されている。
そして呂布の受け入れを考えた人物は多くいる。よしんば呂布受け入れを問題視するにしても
仁よりも忠や義によってこれを問うべきだ。

孫一門を高く評価し、親子二代に渡り援助を行った事実は消えない。
孫策の要求に応えなかったのは、彼の苛烈さを警戒したからに他ならない。独立の意志は最初から有していた。

袁術は戦争も弱いというほどではない。結果論に過ぎる。

朝廷を敵に回した時点で、袁術がどのような行動を取ろうとも逆賊の汚名は拭えなかった事だろう。
まさか曹操が朝廷を牛耳る中、出頭していれば良かったとでもいうのだろうか。
ここで問題にするなら「帝位を称した」事ではなくて、「何故に朝廷から敵視されたのか?」という原因だ。

悪行が善行に勝るという評価なら、それは最終的な勝ち負けによる評価が前提としてある。
>160のような結論もそういう視点だ。

個人的には袁術が儒教的人物だとは思わないが、人格や能力まで否定されるのも相応しくは無い。
169 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 07:23:33 ID:DlGG6wnL0
>>168
単なる名門の貴公子で一軍閥の長ならそれなりの実力なんだろうが
統一王朝をにらんだ僭主としてはいかにも実力も人間性も微妙、というか落第。

それに相性最悪と思われる曹操に負けただけでボロクソに言ってる訳ではない。
彼の天下人への道をシャットダウンされた後の負け方はほとんど自滅と言って良く、
かなり恥さらしな方なので、やはりその最期に相応しい香ばしいお人柄だったように思う。
171 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 10:27:03 ID:/qUC6KKk0
最期って、敗走して失意の内に病死だろ
そんなに酷い死に様かね。 
172 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 11:52:03 ID:mMRJs/1k0
人格や能力の優劣を問題にするのは不毛なやりとりになるよ。
173 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/08(土) 19:00:17 ID:SXwNLXBE0
いい議論だね。
袁術って唐末の秦宗権みたいな感じだ。
勢力範囲も似たようなところだし。
174 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 12:42:50 ID:Ka+44Gyw0
>>171
その死に様が如何にも惨めで無様に描写されてるのが問題なんじゃないか
175 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 13:41:22 ID:arTKONwp0
それは描写される対象よりも描写する主体の側の問題だからね…。なんともかんとも。
176 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 15:13:21 ID:bUkB7xpj0
試しに聞きたいが、その「惨めで無様に」描写された作品ってどれ?
それによって問題への対応が変わる
177 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 16:34:51 ID:AcXWN+Fp0
名門の貴公子で漢の忠臣を気取ってたのに何時の間にか帝位を僭称するも
孫策に背かれ、曹操にぼこられ、劉備ごときにも追い詰められる無軌道ぶり
何気にオールスター状態で虐められてるなw
本来、袁術はその三人よりは明らかに格上。
その割に活躍と印象が冴えないのは中身がかなり...で、
戦略性計画性がしょうもないレベルだったということだろう。
178 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 18:58:14 ID:GofEEMl9O
というか、そいつらの勢力に三者三様の攻撃やら妨害やらを受けていたから弱体化したんだろ。
「負けるべくして負けた」という要素はもちろんあるが
それ以上に「負かすべく動いた」連中の存在があるという事。
179 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/09(日) 19:50:20 ID:SQM/MhNbO
袁術の外交能力って如何ほど?
それによって袁術悪:それ以外が悪
の比率がかわってくると思うんだけど。
180 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/10(月) 20:04:54 ID:RitWjQJ7O
どこまで成功していれば良い方に評価されるのだろうか?

助けを求められれば受け入れ、敵の敵とも結ぶ。
呂布と姻戚関係を結ぼうとした、李カクとも近付いていたと言えるかな。
しかし袁術が交わった彼らや公孫サン、陶謙らは
皆が皆 離反したか敗走していった。
結果だけ見れば、評価が芳しくない事にもなるかもな。

それに彼が結んだ連中も評判悪い奴らばかりだな。
李カク、公孫サン、陶謙
彼らは、敗死して当然みたいな言い方する人すらいる。
正史を通読するか、せめて三国志板のスレくらいは目を通していれば
そうでもないという事が自明だろうがな。
今はスレないけど
181 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/10(月) 20:12:58 ID:1uPonTv+0
自分が寿命を全うし、後に直接的な禍根を残さなければ、かな>どこまで成功
君主じゃなくとも当てはまる。
182 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/15(土) 21:56:07 ID:lSjbvWMPO
>176 演義からしてそうなんじゃないの?
読んだ事ないけど
183 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 00:27:12 ID:U6sRxg1Q0
三国志群雄データファイルって本に滅茶苦茶書かれてる
184 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 01:00:03 ID:/t3eZabV0
>>183
ああ、あの華キンが
「正史と演義で性格が正反対だから義理は10点中5点」とか適当な評価されてるアレか。
あの手の本に袁術の真っ当な評価を求めちゃいけない。
185 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 01:01:46 ID:IJ/3MhE1O
評価が低い奴を
付和雷同して貶めるなんて面白くも何とも無いのにな
186 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 01:42:01 ID:RE8Wv+z/0
ていうか、華キンは正史でも伏皇后を二重壁から引きずり出してんだけどな。
あれの著者は後漢書読んでなさそう。
187 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 10:01:38 ID:N+CDCngw0
李カクとか公孫サンの擁護はまだ分かるんだけどさ、袁術の擁護っていまいち納得できない。
・敗北したから(皇帝を名乗ったから)記録上で醜化されたり悪行を押しつけられたりしたんだ
って感じのもの以外に説得力ある擁護ってある?
188 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 15:42:10 ID:RE8Wv+z/0
擁護するとかじゃなく、素朴に正史読んでたら袁術の実力が理解できない面がある。
ていうか、擁護って具体的に何のこと言ってるの?
189 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 17:43:27 ID:6MJPqZVr0
>>187
う〜ん・・・袁術は他の群雄と違って、特に擁護されてるようには思えないが。
190 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 17:52:23 ID:GBTM0Q2G0
擁護してる自覚がない人って多いよね
191 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 18:44:45 ID:J3QCKgIs0
>>188-189
とりあえずこのスレを読めw
192 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 19:05:22 ID:RE8Wv+z/0
>>190-191
きみらの言ってる意味が分かんないんだけど、きみらの言う擁護って何?
擁護するとかしないとかいう問題じゃないと思うんだけど。
193 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 20:20:07 ID:J3QCKgIs0
このスレの上の方には袁術を「擁護」している具体例が結構あるよ。
通説より良く評価しているという意味でね。
「擁護って具体的に何?」と問われれば具体例を示す以外にない。

その上で「それは擁護じゃない。正しい評価だ」と言っているなら、
そりゃ評価の基点の置き所が違うだけだ。
「歴史への評価に擁護なんてものは存在しない」と言っているなら、
それはまったくごもっとも。
195 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 21:26:57 ID:73hX6KHf0
擁護というより、誤った認識を改める、といった具合にみえたけど。
三国志はとくに三国志演義等の派生小説などで印象を固定されがちだから
そういう蒙きを啓かせる論評という認識。読んでてそう思った。
擁護というのではなく、当時の社会の流れからして、袁術の称帝が
どのようなものであったか、というところなんでしょう。
196 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/23(日) 22:19:18 ID:N+CDCngw0
「袁術の擁護」ってのはこのスレとか他のスレで散見した
>>193みたいな言い方するなら「一般的なイメージに対する袁術擁護」かなあ。

いわゆる南陽地方に対する悪政に対する擁護として、後の曹操の悪政を押しつけられたんだ、ってのは正直いま一つ。
今のままだとそういう憶測推測もできるかなあ、程度で。
スレ前半でそういう主張してた人が居るなら、具体的に「袁術の悪政」をについて記されてる部分を挙げて批判するとかしてくれると嬉しい。

帝位僣称についてはそもそも擁護しようとしてる人が居ないっぽいけどね。
どっちかというと「曹操や袁紹も十分酷かったぞ」っていう相対的な袁術擁護が目立つような。
孫策を「恩知らず」としたり。
197 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/24(月) 01:42:55 ID:zL2sVz9r0
批判と誹謗が違うものであるように、評価と擁護は別のものなんだよ。
擁護というと、ものごとの善し悪しにかかわらず庇い立てることだろうな。
ここでやってることはそうじゃなく、善し悪しを見直そうってことだ。
198 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/24(月) 13:40:05 ID:HLpKdwFq0
南陽の「悪政」についてはそのとおりというしかない
原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて
荊州中の兵の兵糧を南陽だけで徴収しなければならなかったからで情状酌量の余地ありといったところか
この地は張曼成、趙弘、韓忠と黄巾が3回も立てこもって殲滅戦になったから疲弊もひどかっただろうな
でも袁術が出て行った後、三輔地方からどんどん流れてきた避難民に婁圭が食料与えてるんだからまだまだ裕福だった

淮南の「悪政」については蝗害による飢饉が大きい
しかし劉勲が滅んだとき、袁術配下だった楽師や職工が3万人いたというのは「贅沢の証拠」といわれても仕方ない
ただ楽師や職工はすぐになれるようなものじゃなく何年も修行しなきゃならないものだから
この楽師や職工は黄巾以前からいる人間で、国土が荒れ果てた上に朝廷の支配領域も狭くなったんで放り出されたんだろう
黄巾以前なんか6千万人いたから3万人養えるけど袁術の支配地域なんかごく限られた範囲でかなり厳しかったはず
それでも自分を頼ってきたものを見捨てられず、かつ文化が絶えることを危惧して保護したんじゃないかな
陸績にミカンを与えたのを贅沢の証拠として挙げてた文読んだことあるけど
あれはあきらかに昔植えられたものを取ってきただけなんだからいいがかりだと思う
199 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/24(月) 15:09:12 ID:2XjG4hl/0
>原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて

劉表はホント余計な事しかしないな
200 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/24(月) 15:11:51 ID:KkokVgxp0
劉表は董卓に派遣されたんだからそりゃ袁術&孫堅の邪魔するだろうさw

まあでも、同時期に派遣された朱儁みたいに袁術に寝返ったらもっと良かったかも。


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