恋姫無双の董卓が可愛すぎる428522

2011年01月12日

袁紹配下の人物達について語ろう

1 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/17(土) 18:23:40
猛将、知将、忠臣、裏切り者等個性豊かな面子が揃った袁紹軍について語ろう。
また袁家一族の者や袁家に縁の深い人物についてもどんどんここで語ってください。


11 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/18(日) 13:14:01
辛ピだけ確かに魏でも活躍してるな
信頼も厚い。
勝ち組。
16 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 00:19:11
張導ってどんな人物?
すごく気になるけど袁家にとって重要な人物なの?
17 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 00:45:55
斬れ!田豊を斬れ!!
19 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 01:06:04
>>17
逢起乙。

逢起「審配は義理堅く信用できる人物です。そんな疑惑は嘘っ八でしょう。」
袁紹「お前、審配と同職についてていざこざ起こして恨んでるんじゃなかったの?」
逢起「確かに恨んでますがそれは私的な事です、今は国のことを考えて言っているのです。」

袁紹「田豊に合わせる顔がない。」
逢起「あいつ牢獄の中でざまあみろって手を叩き喜んでましたよ。」
23 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 13:03:49
袁紹の存命中に冀州が陥落するような事態になっていたら、
彼の死後、袁家の残党制圧に5年もかかってないよ。
24 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 16:37:36
あ、そっか冀州城って官渡にはないか。
そうだよね冀州ってついてるもんね。(・ω・`)トチってた。教えてくれてありがとう。

という事は劉氏はそのまま曹操の所か…。
妾5人殺して髪の毛むしり顔に刺繍施すなんて精神状態かなりヤバイと思うんだが
それでも曹操は敵方の夫人の面倒みてやってるのかな?もし殺されてたらカワイソス。
25 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/19(月) 20:46:58
>>16
袁紹得意の人材の使い捨ての犠牲者のひとり
鉅鹿太守として治水で大きな事績を残した人物
後の董卓討伐で袁紹に協力し、冀州乗っ取りでは韓馥に印綬を譲らせるという
最も大きな功績をあげたにもかかわらず、朝廷(というか董卓)から爵位をうけた
という理由で袁紹に一族皆殺しにされる
26 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 11:25:55
>>24
冀州城ってのはギョウ[業β]のことだね。
魏略に次のようにある。

熙出在幽州、后留侍姑。及[業β]城破、紹妻及后共坐皇堂上。
27 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 11:32:34
何故幽州じゃなくて冀州にいたんだろうか?
冀州は尚の管轄だよな?
28 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 13:10:47
>26
おおそうか!冀州は冀州でも業βの所か。
冀州は地名だと思ってた俺三國志入門1年目。場所ぐらい覚えとかねば…。
漢文はあまりうまく読めないけど連れていかれたという事はわかった。
丁寧にありがとうー。

>27
劉氏は袁尚の実母だからでいいとして、確かに甄姫は何故なんだろ?
姑と一緒にいないといけないしきたりみたいななんかがあるんだろうか。
29 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 17:40:40
袁紹って別に無能じゃないんだよな
本格的に崩壊しだしたのって袁紹死んでからなんだよな
31 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 22:26:59
>>29
無能じゃないどころか、あの時代最大の英雄であり奸雄
宦官殺戮も董卓を呼び寄せるのも反董卓連合も袁紹が深くかかわってる
漢を終わらせて新しい時代を招きよせたのは袁紹だ
32 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/20(火) 22:30:23
曹操や劉備、孫権を新時代の英雄とするなら、まさしく旧時代=後漢最後の大物と言えるかもな
そして、その袁紹の敗北が後漢時代の終焉を告げたとも言える
33 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/21(水) 00:19:30
袁紹の時代を懐かしむ人々が南北朝時代にもたくさんいたらしいし、
内政官としてはかなり優秀だったんじゃなかろうか…。

武官としても、コウソンサンを破ったし。


相手が曹操だし、負けは仕方ないと思う。
37 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/21(水) 18:58:25
三国志7をやってるんだが
袁紹って人材が揃っていてラクだな

ゲームの感覚だと武官は猪武者ばかりで役立たず
もっとも使えるのは審配か沮授
38 :焚きファイア ◆zk95zEoWWE 2008/05/22(木) 00:04:16
袁紹か・・・・
統治能力やカリスマ性は確かだと思うが・・・・

「優柔不断」ってのがなによりの減点対象か (゚ω゚三゚ω゚)
39 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 07:21:27
息子と高幹に1州づつ与えて後継ぎ決めようとしたり、
ソジュに軍事全権与えたりする壮大な性格は長所であり短所。
さすがに冀州勢に権力与えすぎたので自粛して分割するようにしたが。
40 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 08:12:37
>>33
優秀だったからじゃなくて支持地盤があったからです
典型的な自民党のエリート型武将
支配下の統治も旧態依然の搾取制度ががっちりしているので多少の能力の有無は
それほど問題にならず、むしろ「過去を踏襲すること」に価値があるような政治

紹様を支えるブレインにはさすがに脳なしはいなかったようだが、行政で主導権
を握るには派閥の折衝に強いねばり強い性格の文官でなければ生き残れなかった

何か・・・抽象的だなぁ・・・くそ
41 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 10:25:25
”紹為人政?、百姓?之。河北士女莫不傷怨、市巷揮涙、如或喪親。”
「優秀でなかった」はずの人物の死なのに、これだけ民が嘆き悲しむんですね。

「優秀でなかった」はずの敵の首領なのに、
その死後に曹操陣営からもその統治ぶりを賞賛する声が上がるんですね。

ヘンなの。
43 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 11:22:07
>>40
袁氏の地盤は汝南だな。河北じゃない。
当時最大の権門であったとはいえ、テレビも電話も無い時代に
縁もゆかりも無い土地で >>41 のように慕われるのは、
それなりの理由があると思うよ。

お前さんが言う自民党のエリート世襲議員だって、国替えしたら当選怪しいぜ
44 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 11:42:39
そもそも韓プク騙して土地譲らせるまで土地なしだしな。
そして土地を手に入れても自分よりよほどでかく中央の兵力を横領した公孫王賛がいたんだぜ。
界矯の戦いって赤壁、官渡くらいの大勝利だと思う。
45 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 11:55:20
》44
それで考えると、土地騙しとったり侵略したりしてるのに、
これだけ民の支持えるのってすげぇと俺は思うんだが。
曹操だって、領地の反乱に度々悩まされてたからなぁ。
46 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 12:30:36
大体が勝った方の直前直後の歴史文献っていうのはガセが多いw
ギョー民の統治ぶり明君ぶりも、袁紹を必要以上に貶めないイメージ戦略の一環と
いう解釈もできる

>>45
袁紹の場合は、当時にしてはあの地方で圧倒的な軍事力があったからね
従うしかなかっただろ
その軍事力の何割かでも山賊討伐に使ってれば即明君の仲間入り
48 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 15:48:18
むしろ負けた方は散々に書かれるのは歴史の常。
張コウ伝でのみ官渡の無理攻めのせいで曹操に降った張コウとかは勝ち組だからよく書かれる。
他の伝では自発的に裏切ってるし。
それに比べ軽装騎兵をきちんと烏巣に送ってる郭図とか、演義での淳于鶏の扱いどうよ?
49 :氷雪 ◆jKdJ051mHQ 2008/05/22(木) 16:02:20
袁家に詳しそうな方がいらっしゃるので、わかりましたら、お願いします。
?袁家は、宦官と切っても切れない関係だった。宦官と繋がることで繁栄した
とどこかで見たのですが(中英板だと思います)、これは、どういうことなのでしょうか?
具体例があれば、お願いします。
??の内容は、どの史書のどこに書いてある内容なのでしょうか。

 よろしくお願いします。
50 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/22(木) 18:41:17
>>49
後漢後期の話題なので板違いな気もするが、
後漢書、袁安伝の「時中常侍袁赦,隗之宗也」 の事かな?

袁湯(袁紹、袁術の祖父)が罷免され、袁成(袁湯の嫡子で袁紹の父?)が夭折し
袁家が一時的に衰退していた時代に、宦官の中常侍に袁赦という人物がいて、
彼と協力する事で袁隗(袁紹、袁術の叔父)が政界で力を伸ばし、
兄・袁逢(袁術の父)よりも先に三公昇った。
っていう話だな。
この話の事じゃなかったらごめんよ。

但し、
(1)袁赦が失脚した時と思われる際(179年)に袁隗は巻き込まれていない。
(2)袁隗が司徒を勤めている年数がこの当時としては異常に長く
(172年12月〜176年6月と182年4月〜185年2月)
何進と共に党錮の禁で宦官に弾圧された清流派の人々を中央に呼び戻しているのに
宦官にその地位を引き摺り下ろされていない。
(二度の辞任は病による)
(3)黄巾の乱が起こっても罷免されていない。
以上から、宦官とは関係なく単に袁隗という人物が、優れた政治家だった
という可能性もあると思う。
てゆうか、俺には袁家を四世三公の名門にしたのは、
袁隗が「宦官と清流派の間を上手く調整した」からであって、
「宦官と繋がることで繁栄した」というのは違うんじゃないかと思う。

他に何かソースがあるなら、俺も知りたい。
51 :氷雪 ◆jKdJ051mHQ 2008/05/22(木) 23:05:12
>>50
50さん、丁寧に背景までありがとうございます。
三つの理由からしても、よほど袁隗の「政治家としての要領が良かった」のか、
「他に何か、他者の口出しを許さないような巨大な権力との癒着があった」のか
と感じました。
50さんの仰るとおり、「宦官と繋がることで繁栄」とは違うようですね。
「調整」だけで、生き残ったなら、相当のやり手だと思いました。
 丁寧に、本当にありがとうございます。おかげさまで、去年からの疑問が解けました。
52 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/23(金) 08:59:42
書物は改ざんされてる可能性があるから減点方式で評価すると間違うね。
事実を解き明かすことができればよいが、それが無理なら加点方式で評価しないとな。
そうしないと改ざんの被害を被っている郭図なんかはひどいことになる。
実現不可能な策を提案して実施されなかった者より、
採用されて結果として敗北した者の評価が低いのはおかしいと思うな。
53 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/24(土) 19:09:33
袁氏に関しては「三国志」より「後漢書」のほうが好意的に書いてると思う
55 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/24(土) 21:04:41
自分としてはそういうバラバラな人間模様が好きだったりする。
この上司と部下たちの噛み合わなさは他の軍にはないくらいだよね。
56 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/24(土) 21:48:00
袁キはあの兄と弟じゃ苦労しただろうな。
うまく仲介してたりもするんだが。
57 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/25(日) 02:00:26
>>53
てゆうか三国志が袁紹一派に対して批判的すぎなんじゃないかと。
おかげで>>38が言っているみたいな「優柔不断」ってイメージが付いちゃったが
本当に優柔不断な奴なら、あのタイミングで宦官皆殺ししたり、
迅速な洛陽脱出したりは出来ないと思うんだがなぁ。

>>48がいう「負けた方は散々に書かれる」例なんだろうな。
58 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/26(月) 16:31:28
優柔不断なイメージは演義のせいじゃね
正史だと普通に負けてるだけなわけだし
60 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/30(金) 09:38:07
また妻の話を振って悪いんだが劉氏って後妻だよね?
ということは前妻がいるんだろうけど何かそれについて記述みたいなのあった?死別したとか離婚したとか。
袁譚と袁煕はその前妻の子なんだろうか。
61 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/30(金) 22:31:48
>>60
袁紹の妻のうち名前がわかっているのが、劉氏しかいないはず。

袁尚の字は顕甫で「甫」は長を意味するらしいので、
もしかしたら正室の長子=袁譚と袁煕は異母兄
という事かもしれないね。
62 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 14:33:27
うーんやっぱり前妻の記述はないか。名前ぐらい出てるんじゃないかと思ったんだが…。
でも劉氏の標的になってないところみるともうすでに死んでる気がするんだよなぁ。
一番初めに殺すなら妾より正室だろう。

へぇー甫ってそんな意味があったのか!というと
正室の長子=袁譚、劉氏(側室)の長子=袁尚。二人は異母兄弟。
って解釈でおk?
そう考えると袁尚が三男でありながら後継者候補に挙がったのは
後妻の長子という名目上、強ち無理矢理な話でもなかったんだな。
>>61教えてくれてありがとー。
63 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 15:31:18
>>62
あー、ちがうちがう
袁尚(顕甫)が正室劉氏の長子で、袁譚(顕思)と袁煕は前妻の子かな〜と。
異論は認める。

そもそも側室37564の件の出展は文学論評である典論だけで
後漢書にも武帝紀にも記載は無いから、信憑性には欠けるとおもうんだ。
それに袁紹より前の世代から、婚姻外交が積極的に行ってきた家で、
側室をおろそかに扱ったりしたら、袁尚の立場が悪くなるかもしれない。
かわいい息子が不利になるような事を劉氏がするかね?
64 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 15:33:04
劉氏とシン氏の会話を見ると、袁煕の母も劉氏か、少なくとも劉氏と袁煕の関係は破綻してないと思うんだよな
66 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 21:25:19
建安中、袁紹為中子熙納之。熙出為幽州、后留養姑。(文昭甄皇后伝)

中山郡無極県の名士・甄一族の中でも評判の娘である甄氏を、袁熙に娶らせた。
着実に勢力を固める婚姻外交であることがわかる。
その後、夫は幽州刺史として北方へ単身赴任し、妻は姑の世話のために残った。
だからといって、袁熙が劉氏の実子だったかというとそうとも言い切れないかな。
長子・袁譚は既に青州へ転出しており、父子の仲も良好とは言えない。
弟・袁尚にはその時点で妻がいなかった可能性が高い。
その結果、聡明で慎ましい性格の甄氏が、
袁家の奥を取り仕切る最適任者だったという可能性も考えられる。
68 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 22:31:05
ごめん。
「父子の仲も良好とは言えない」のくだりは削除し忘れてた。
「兄・袁譚は既に青州へ転出しており、弟・袁尚にはその時点で妻がいなかった可能性が高い。」
と読み替えて下さいな。
69 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 22:33:07
これは妄想として
甄氏が夫についていかなかったのは、本当は「妊娠していた」または「育児中だったから」なんじゃないのかねえ
70 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 22:34:32
しかし、妾腹の兄と正妻の産んだ弟がいがみ合う・・・
知識に乏しい俺には、袁紹・袁術兄弟の仲が本当に悪かったかわからんが、
そうだとしたら結局親子で同じ事を繰り返してるんだな・・・と悲しくなってくる
71 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 22:36:09
ちょっと待って
袁譚たちが妾腹だってのは確定情報だったか?
72 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 22:59:36
>>69
そ れ だ 。
曹叡の親父は袁煕説ってどっかで見かけて嘘ーんて思ってたけど、
あの時点でもう妊娠していたならガッチリ辻褄が合うし
袁煕が甄氏を妊娠経験者の劉氏の元に置いていったのも頷ける…!
おれもその妄想支持するわ…!なんかドラマチックだよなそれ。

>>71
妾腹の場合庶子の扱いになって後継者候補にはならないんではないだろうか…?
でもとりあえず書物の上では袁譚と袁煕は誰から生まれたのかは不明だったはず。
73 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 23:06:52
あの時代に、今ほど早期に妊娠が判断できたか
まぁ、当時からつわりなんかは知られていたかもしれんけどさ
さすがの曹操父子も、腹が膨らんでいたらわかるだろうし
74 :無名武将@お腹せっぷく2008/05/31(土) 23:08:04
>>72
袁尚を後継者にってのは審配たちの陰謀だよ
後漢書袁紹伝によるとね
袁紹は後継者を定めてない
75 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 00:06:24
>>73
あ、そっか…子がいるってバレてたらさすがにその子は絶やされちゃうか…。
そのどこかで見た曹叡の親父は袁煕説では曹丕と甄氏が出会ったのは
曹叡の生まれる6ヶ月前って書いてあってこれは臭いと思ってたんたが…orz
妊娠4ヶ月ぐらいでももう腹膨れてくるみたいだしなぁ。バレるか。
ということはやっぱり>66の説が一番無難な線なのかな。
お世話役なんて嫁に頼らずともいっぱいいただろうと思うんだけど…。

>>74
ごめん、袁紹が認めた云々の後継者候補とかそんな風な深い意味でそれを言ったわけじゃないんだ…。
庶子では名前すらも挙がらない身ではないかと思ってそういう言い方をしただけで。
というか何故そこで袁尚の名が出てきたんだろう。実は安価ミスで>62宛てのツッコミだったりする?
まぁ62もおれだったりするけどww
とりあえず62で言う後継者候補は審配らに担ぎ出された後継者候補って意味でとらえてくれ。

なんだろよく誤解されるような…おれの文読みづらいんだろうか…。
なんだか皆と話してる事がずれてる気がして不安でならない。
76 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 00:12:31
>>75
もちろん、もっと妊娠初期に出会っていたのであれば種違い説も否定できないけどな
あの時代に、月経周期から推測される妊娠時期と出産時期を細かく比較して云々ができたとも思えないし

ただ、あくまで「妊娠を理由に」袁煕と離れていたというのはおかしいかな、というだけでな
77 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 00:13:45
>>75
まあ、妊娠してるの気づかずに嫁にしたはいいが、なんだか腹ボテになってきて曹丕涙目
でも、今更突如嫁を殺すのも変だし、かといって生まれた子供を殺すのも変(自分の子供じゃなかったと言っているようなもの)
周囲の名士たちに裏で笑われるからな
で、しかたなく「え?計算合わない?いや、早産だったけど俺の子だよ?」みたいな感じで通すしかなかったのかもしれんよ
逆に自分の子としてしまえば、「まさか自分の種じゃないのを子にはしないよな」って思うだろ

甄氏略奪は孔融が皮肉ってたように当時の名士が白眼視したらしいから、子供のことでもう一悶着あったら恥の上塗りになるからな

それ以外にも、曹操は父が祖父の実子じゃないし、曹操は妻の連れ子とか恩人の子とかを育ててるから、こういうことへの抵抗がそれほどなかった、可能性はある
78 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 20:04:38
明帝の父は袁煕説なんて、どこのガセだよ
と、思っていたけど、甄氏が後に死を賜った事や
曹丕が典論で書いている事をを合わせて考えると、
ありえない話じゃないと思えてきた俺が通りますよ。

>>77
確かに一騒ぎ起こすと、曹丕自身が、
曹操の後継者レースから外れる可能性もあるもんな。
79 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 20:37:04
実際にどっちの種だったかは別にして、袁煕の種だったという説による影響はあっただろうね
讒言があったとはいえ甄氏に死を命じた曹丕も、晩年に箍が外れたような曹叡も、
この説によって少なからず踊らされたんじゃないかな、という気がしてならない
81 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/01(日) 22:22:17
曹叡はなぜか自分の廟号を生きているうちに「烈祖」と定めている
祖っていうのはまさしく開祖に贈られる廟号で、魏王国の開祖(曹操)でも魏王朝の開祖(曹丕)でもない曹叡に贈られるのは合わない
なのに、曹叡は自らその号を決めており、これはかなり奇異な印象を受ける
しかし、もしこれが「自分は袁氏王朝の初代なのだ」という秘められた意志表明なのだとすると納得がいく
82 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/16(月) 22:42:02
>>81
曹丕曹叡親子ってなんだか深いな…

まぁ、かつての友でもあった曹操の息子が自分の孫を育てているなんて
死んだ袁紹も報われた気がするね
83 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 00:19:55
>>82
他の件よりも、廟号問題が一番曹叡の闇を表していると思う
注で言われてるように、自分で死後の廟号を先に決めておくなんてかなりのDQN行為
しかも、「祖」という号に似つかわしくないのにもかかわらずだ
なんでそれをやったのか、周りも強く止めた形跡がなかったのか、納得行く答えは「実は曹氏じゃないことは公然の秘密」しか思いつかない

そうして考えると、曹叡の子が全員世に出ては死に、生まれては死ぬというのが怪しく見えてくるわけで
84 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 00:43:58
曹叡が即位するまで、公の場に出ることが少なかったっていうのも
もしかしたら、曹丕の子かどうか怪しいというレベルではなく、
顔を見たら「これ絶対に曹家の顔じゃねーだろ」っていうくらい
袁煕(もしくは袁紹)に似ていたのかもね。
85 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 00:46:56
>>84
そのときの劉ヨウの曹叡評「始皇帝みたいじゃん」
始皇帝っていうと呂不ry
86 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 02:30:21
久しぶりにおぉー盛り上がってるぅ。

ここの方の意見を取捨選択して自分なりにまとめてみた。
もうなんていうか何そのベタな昼メロっていう話になってしまったんでここ違うだろwとかツッコミ入れてくれ。頼む。
「曹叡は実は業β城落城以前に甄氏の身に宿っていた袁煕の息子であり、それが後になって明るみに出て
曹丕は周りの目もあり、やむを得なく曹叡を子として育てる事になったが
その禍根から甄氏とは不仲になり適当な口実を得た時死を命じた。
自身も真実を知った曹叡は汝南袁氏最後の血筋としてその再興を望み
袁王朝の始祖たらんと号を決め、造宮等皇帝の権力強化を謀る。
だが子は皆不自然とも言える早死にを遂げ己もまた若くして病にかかり早逝してしまう。
(曹叡の出身を知る曹派一族の陰謀によるもの?毒でも盛られたんではなかろうか。)
一睡の夢。曹叡の切望は虚しくここに潰える事となった…。」

みたいな?我ながら妄想もいいところww
でも早すぎる出産、甄氏の死、曹叡の不可解な号決めの理由として
一番有力な線だと思うんだ個人的に。
曹丕がその事実を踏まえた上で何故曹叡を跡継ぎに選んだかはまだ合点がついてないんだけどね…。
自分が後継者として揺るぎない地位を得た後なら廃嫡してもよかったんじゃないだろうか?
87 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 08:10:54
>>86
結局廃嫡できなかった理由
・曹丕の早すぎる死
数え40歳は当時としても短い方だ。曹叡だって20歳を超えたばかり。となると他の子はもっと若い。
しかし当時の魏はまだまだ強いリーダーを必要としている。
曹叡以外の子を選べば、幼い後継者が権臣に制せられ他の有力な皇族(曹植など)に取って代わられる危険がある。
そうなれば魏は短命に終わる。
そこで、実子ではない疑惑はあっても優秀さは知っていた曹叡を選ばざるを得なかった、と。

曹丕が曹叡を皇太子に立てるのは重態に陥り崩御する寸前なので、曹丕はそこまでずっと後継者問題を保留していて、後継者に選んだとは言いがたい状態なんだよね。

また、もう一つちょっと面白い話があった。
曹叡が曹丕の葬列に加わろうとしたら、陳群、曹真、王朗らが「暑いからやめれ」って止めたというんだよね。
孫盛は父の葬儀という孝行の発露を邪魔するとは、魏が短命だったのも当然だ、とまで言ってる。
儒学の素養があり、そういう批判が出るのも分かっていただろう陳群ら遺詔を受けた臣は、どうしてそんなことをしたんだろうか。
明帝紀注世語の「明帝は即位後も引きこもってみんなの前に出てこなかった」と重ねてみると・・・。

「曹丕は実子ではない曹叡を後継ぎとしたものの、遺詔を受けた大臣たちにしてみれば実子ではないことがつまずきになりかねないとの思いがある。
そこで陳群らは落ち着くまで曹叡を臣下に見せず、顔形でいらぬ憶測を呼ばないよう配慮した。
しかし臣下の側では姿を見せない新帝に疑問が生じ、劉ヨウが代表して面会した。
劉ヨウはおそらく真実を悟ったであろうが、空気を読んで皆にこう伝えた。「陛下は始皇帝レベルの逸材ですぞ」と。
聡い臣はそこから「実子ではないという噂は真実だったのか」と読み取り、そうでない臣は優秀な人物であることには安堵し、優秀ならば皆で守り立てようではないか、と結論づけた」
みたいな感じかね。
妄想には違いないんだけどね。こういった裏事情がなかったら、廟号問題の曹叡といい葬送での陳群といい、忠孝の道的にはかなりのDQNになってしまうんだよね。
88 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 17:34:35
しかしいくら事情があろうとは言え、あの曹丕が人の子など生かしておくのかな?
もし本当に袁熙の子なら、甄氏を殺した時に一緒に廃する(or暗殺する)と思う。
明帝は血筋としては曹丕の子で、しかし母を殺された恨みから曹丕を実父ではないと思いたくなったんじゃなかろうか。
89 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 19:39:14
>>88
思いつくままに書いてみる。異論は認める。
・孔融ら名士たちは、曹丕が甄氏を略奪したことを白眼視していた。
 その上で生まれた子供を殺したら「それ見たことか」と信望を失い
 曹丕が曹操の後継者レースから脱落するから殺せなかった。
・幼子を殺すのもなんかなぁ、と思っている間に曹叡は曹操から溺愛されて
 手を出したら曹操の反感を買って後継者レースから(ry
・親父も死んだ事だし、甄氏を殺した後で理由をつけて暗殺しようと思っていたが、
 甄氏が死んだ翌日が日食になった為、怖くなって諦めた。
・曹丕自身は命はともかく帝位を譲るつもりは無かった(太子として立てなかった)が、
 崩御寸前に、曹叡を見たことも無い臣下が曹丕の意向とは無関係に、
「蜀とか外敵もいるし、長子だから別にいーんじゃね?」という理由で太子に立てられた。

まあ、母を殺された恨みから自身を曹丕の子と認めたくなく
袁煕の子だと「思い込んでいた」「思いたかった」というのは有りだと思う。
90 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 20:21:50
曹操がわざわざ「こいつ後継者ね」って扱うのってのは、単なる溺愛なのかどうなのか
まあこれも色々な方向に妄想できるよね

幼い頃は曹操に連れられて表に顔出していたのに即位前後はヒッキーになっていたようだし、そのあたりの事情も・・・
92 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 23:14:54
曹操は袁紹の墓に詣でて、声を上げて泣いたというからなぁ。
で、ちょうど曹操が泣いている頃、曹丕は人様の嫁を強奪していた、と…
93 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/17(火) 23:52:26
>>90
曹操「俺が狙ってた女をハナ差で掠め取った報いを受けろw」
94 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/18(水) 00:09:26
曹叡といえば実子が全滅していたとはいえ30代の若さで養子を取り、しかも「どこからつれてきたか不明」ってのも謎な行動だな
これも憶測を呼ばずにはいられない
95 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/18(水) 11:29:44
>>93
孔融(偽)
「かつて秦王政が燕を滅ぼした時、太子丹の愛人を息子に掠め取られてこれを酷く恨んだとか。
 …は?出典ですか?そんなものはございません。
 こたびの公の言動から推測して、古代にも左様な例があったものと考えたまで。」
96 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 07:48:35
>>94
まるで自分の死を予見していたかのようだな…。
どこから連れてきたかわからんって周りの反発強そうだけど
その子はその後どうしたんだ?名前残ってたりする?

また違う疑問が浮かんだので袁家関連で質問。
逢紀が袁尚派について後、人質っぽい形で袁譚の所へ送られてるけど
これは袁尚と審配から見限られたのと同じだよね?
旗揚げ前から袁紹と関わりのあった超古参を何故疎ましく思ったのだろう?
wikiには「袁譚と袁尚どちらにも二股して利益を謀ったか、
融和を謀りそれが露見したか。」みたいな事が書いてあったけど
後者はともかく前者が想像つかない。具体的にどのような利益が自分に出ると踏んだんだ?
97 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 09:24:49
>>96
魏第3代皇帝・曹芳その人ですが…
98 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 10:14:32
袁尚と逢紀の関係がどうだったかはわからないが、
審配と逢紀はもともと仲が悪かったとの記載があるし…。
袁譚・袁尚はどう考えても器が小さかったしねぇ。

ま、袁紹陣営は田豊と沮授以外は不当に汚れ役を課せられているから…。
99 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 10:42:56
袁キはなんで自分も後継者争いに参加しなかったの?
100 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 17:27:12
>>98
まてまて、逢起と審配はその前に逢起が審配を救って和解してる。
101 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/20(金) 23:36:27
もちろんそれは知ってる。
ただ、それは袁紹の生存中の話。
和解による蜜月が続いていたかどうかは分からないし。
ちょっとしたことで主導権争いが勃発してこじれた可能性はあるんじゃないかな。
102 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 00:06:49
そんな根拠の無いわけわからん可能性で語るな
104 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 08:10:18
主君から絶対の信頼と周りを納得させまとめられる家臣筆頭の人物がいないね。
有能な人材はいるけど超有能な人材はいないのかな。
105 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 09:32:49
ソジュを使いこなせなかったのが最大の問題。
三国志中最高とも言える人材なのに。
110 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 13:52:23
>>100
審配は逢紀に窮地を救ってもらったのに、
後の内紛で逢紀を捨て殺しにしてるよね。
一人の審配好きとしてこのエピソードを知ったときは
複雑な気持ちになった。
111 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 14:14:39
曹芳は曹彰の孫ってことになってるんだっけか
なんとなく、体裁を繕う為の後付けのような気もするが
112 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 20:19:59
>>110
根拠がないんだから捨て殺しなんてほざくな、と102様に怒られるわよ。
113 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 20:22:49
>>111
俺は、皇統を曹操の子孫に戻すために曹彰の孫をつれてきたのかな、と思ってる。
114 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 20:39:50
曹芳の父という説がある曹楷も、また曹芳本人も晋の時代まで生存していたのだから、
本当の親子だったのならもう少し文献が見当たると思うんだけどねえ。
115 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 20:47:11
>>114
燕王曹宇だって元帝の父だけど、いつまで生きてたかわからないんだぜ
幼児の頃に連れて来られたから曹芳自身は実父を知らないんだろうし、曹楷が言わなかったら誰にも分からんことだ
116 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/21(土) 22:10:14
たしかにそりゃそーだ。
ま、真実は本人のみぞ知るってとこか。
117 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/28(土) 04:38:50
>>104を見て、オーベルシュタインの「No.2不要論」を思い出した。
こうして鑑みるに、君主がラインハルトレベルの天才でない場合は、
No.2も必要なのかもしれないな。
流れ豚切りでスマン。
118 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/28(土) 10:29:51
>>104
ソジュがいただろ
119 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/28(土) 10:36:29
>>118
流れを変えるだけの影響力はなかったよ。
むしろ能力はともかく郭図の方が影響力が高い。
結構進言取り入られてるよね。袁紹とウマが合ったのだろうか?
120 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/29(日) 01:59:38
俺は104だが、なかなかそういう人はいないけどさ。
結果的にソジュには敵対してくる人を懐柔したり周りを納得させてまとめる能力がなかった事とそういう立場でもなかって事なのかな
121 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/29(日) 05:34:27
むしろ袁紹陣営に必要な存在って調整役だという気がするが
どうにも終始一枚岩にはほど遠いようだし
122 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/29(日) 12:05:33
>>119
そもそも沮授や田豊は冀州出身の「豪族」で、
郭図や淳于瓊は袁紹から招かれた「外様の名士」=「賓客」っていう立場の違いがある。

実は官渡大戦の前までは袁紹軍の要職は殆ど豪族が占有していた。
沮授が全軍の指揮権を持っていたのもこの時期。
他にも田豊・審配なんかが州の政治の取りまとめ役になってた。
反面、賓客は官職すら記録されていない有様。
これは袁紹が賓客を信任していなかったわけじゃなくて、
袁紹自身も豪族に圧迫されて君主権力を殆ど持っていなかったからじゃないかと。
(つまり、郭図や淳于瓊に自分の権限を分け与えたくても分け与えられなかった)

それが官渡大戦に前後して豪族が次々と失脚し、賓客が台頭してきている。
(審配は豪族だが失脚を免れている。逢紀の同調があったからだろうか?)
これって赤壁大戦で孫権が魯粛・呂蒙らとやったような、
「君主権力を取り戻すための戦い」でもあったんじゃないかなーと。

だから袁紹が郭図の進言を容れたのは、
豪族から君主権力を奪還しようという意思の表れじゃないかな。
123 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 18:20:30
>>122
出身地調べ直して本当だSUGEEEEと思った。
成る程ー出身の観点から考えた事はなかったな。
官渡の戦いは賓客臣下と袁紹との結託によって冀州豪族の追い込みも兼ねて進んでいったということか。
しかし冀州乗っ取りに協力したとはいえ、豪族であるだけでそんなに権限があるものなのか…。
君主なのに権限がないとはなんだか情けないな。袁紹も悔しかっただろうに。(´・ω・)
そう考えると界橋の戦いでの袁紹のムキになってるような奮戦ぶりも
もしかしたら田豊への反発の表れだったんだろうか?ww

この説聞いてたら「遅れてきた反抗期説」を思い出したよ。
これまたどこが出典なのかわからないんだけど皆が好き勝手進言して好き勝手実行しちゃうから
鬱憤が蓄まってた袁紹がグレて一番やっちゃいけない時に反抗して開戦したという…。
それはないwwとか思ってたけどその説と合わせて考えると意外と外れてないかもね。
124 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 18:43:49
>>123
そういう勢力は意外と多いよ。
たとえば劉表や孫権なんかもそう。
実権は有力地元豪族が握っていて、君主はその神輿にすぎない。

どの勢力も後継者問題で揉めた共通点を持つんだが、
特に袁紹と劉表は「本拠地にいた弟(袁尚・劉?)」を「有力豪族(審配・蔡瑁)」が支持して、
「前線にいた兄(袁譚・劉?)」を「賓客(郭図・劉備)」が支持した……と、
内部分裂に至った経緯まで一緒w

また、これは三勢力共に共通するんだが、
「曹操との戦い」に消極策を唱えた者は、
「曹操に降ってもある程度の地位を確保できる人間」だったのも興味深い。
(実際に降伏に導いた蔡瑁なんかはどんどん出世していったし)
126 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 22:25:56
>>122
これはつまり袁紹には「自前の兵やカネ」(兵糧や領地などを含む広い意味での財政的な根拠)がなかったということなんだよな

上司と部下という形を取るから分かりにくいけど、審配たちは企業でいえばスポンサー、株主のような側面もあるんだよ
だから最初は袁紹は冀州豪族の意向にはなかなか背けない
次第に独自の勢力を築いていってそのスポンサー無しでもやっていけるようになって初めて袁紹が主導権を握れるわけだ

で、袁紹が独自に築いた勢力の基盤というと、厳しい統治で豪族を従わせた(だから評判が悪い)青州であり、青州の主袁譚なんだよな、多分

だから、袁紹が青州を押さえる袁譚を後継にしたがるのも、冀州豪族が袁譚を嫌って袁尚を立てるのも当然の流れだし、袁譚に「賓客」が多く従ったのも当然
127 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 22:56:27
沮授は漢の奮武将軍、淳于瓊は漢の西園八校尉の一人、
すなわち両人とも名士であり袁紹と同じく漢の臣。
他の群臣と同一視はおかしいと思う。
128 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:06:43
>>126
袁譚が官渡大戦に参戦しているところからも、
袁紹が官渡大戦を機会に君主権力を取り戻そうとしていた様子が伺えるな。

冀州豪族に反撃を食らわせるという意味では官渡は絶好のタイミングだったし、
新たに軍権を握った郭図・淳于瓊の戦略は案外いい線いってたので、
>>123が言うような「やっちゃいけないときに反抗した」わけではないと思う。
129 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:17:04
>>127
田豊・審配も別駕従事っていう官職に就いてる漢の臣だぞ。
ていうか袁紹が皇帝を名乗ってない以上、袁紹の部下の殆どは漢の臣だよw
130 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:25:39
>>129
別駕従事は州に置かれる役職だと思うんだ。
一方の二人は中央の役職だから格が違うと思うんだけど。
131 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:28:48
高幹って全然話題にならないよね。
三兄弟ばかり注目されて・・・
132 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:31:56
>>130
確かに沮授の役職の高さは異常。
雑号将軍って、他の勢力だったら君主が就いてる官爵だし。
しかも全軍の指揮権も持っている。
たぶん、冀州豪族で最も有力だったのが沮授だったんだろうな。

淳于瓊の佐軍校尉の方は袁紹配下になる前だからなあ。
袁紹軍配下〜官渡前にどんな官職を与えられたか書いてないんだよね。
ただ、沮授が軍権を剥奪された後に郭図と共に都督に任じられている。
133 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:32:15
でも曹操が恐れていたのは高幹の方だよね。
ただ一匹狼的行動に走っちゃったからな…。
134 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:41:20
>>127
西園八校尉って実権は蹇磧が握っていたとはいえ、
上中下軍校尉の3人と、後の5人は立場が違うんじゃね?
曹操だってこの頃は袁紹のパシリみたいなもんだろ?
135 :無名武将@お腹せっぷく2008/06/30(月) 23:50:01
>>134
まーね、横一線ではなかっただろうね。
それでも沮授以外の面々よりは扱いが違ったんではないのかなぁ?
136 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 00:06:37
どうも淳于瓊は青州人っぽいんだよな。
青州に淳于って地名があったり、他の淳于姓に青州人が多かったり。

青州人の名士となると袁紹にとっては結構重要な存在だし、
西園八校尉の件を抜きにしても賓客の中でも重用されてたと思う。
後は韓馥に冀州を譲らせた郭図(彼は予州潁川の人)。
この二人が賓客組の主要人物だろう。
138 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 15:23:11
思いて学ざればまんまじゃねーか。
139 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 16:00:45
>>138
誰に言ってんの?
140 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 16:31:28
>>138
どういう意味?
141 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 16:48:41
わざわざageて論語を引用するからには深い意味があるに違いない。
142 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 21:03:19
個人ブログだろ?
失礼だが俺も大分影響受けてんなと感じた。
もちろん意見が似てるからと言って引用したと言う根拠になりえないのは分かっているので
引用したとは言わんが。
143 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 22:24:08
影響受けてたとして、それがなんだというのだろうか

それより後漢書を読む限り、後継者は袁譚で袁紹自身も衆目も一致していたのに、どうして「袁譚は嫌われて外に出された」って言われることが多いんだろうか?
始皇帝と扶蘇あたりの例と混同してるのか?
144 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 22:45:35
ちょっと調べて拝見してきた。
まんまって程まんまじゃなくない?
影響受けてる感は否めないけど影響受けるのは別に悪い事じゃないと思うし。

自分も聞いて納得した事全部鵜呑みにして口にしてしまうタイプだし
ちょっと怖い雰囲気だったので口挟んだ空気読めない奴でごめんでも反省はしてない。
自己中な本音を言うとここの人の意見って皆分かりやすくて
勉強になるから引用くさくてもなんでももっと色んな事聞きたいお。
取り敢えず逢紀って袁紹お気にの古参だけど冀州豪族だったのかどうなのかについて意見プリーズ。
審配を擁護したって話から自分は逢紀は冀州出身だったと思う。

>>143
やっぱり袁尚を偏愛していたって記述が強く格差があるように印象づけてるんだろうね。
業βは本拠だし可愛がってる奴は手元に置いておくだろ、とか考えがちなのでは。簡単に考えて。
おれも袁譚は袁紹に重要視されてないのかと思ってたけど色々話聞くとそうでもないんだよな。

袁譚、袁煕、袁尚、高幹と袁紹は平等に子供を可愛がりすぎてる感がある。
乱世なのにそこまで我が子への情が深いのも珍しいよなー。そしてそれが命取りでもあった。
145 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/01(火) 22:49:29
>>143
影響なんてどころじゃねーし
さも自分が考えた考察のように書き込んでるのが気に入らねーんだよ
147 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 00:00:42
個人的には袁紹軍の冀州豪族と外様の勢力争いだ、君主権がどうだって話はすんなり受け入れられないんだよな。
そもそも誰が冀州豪族なの証拠はあるのって話と、その豪族って具体的にどんなもの(財力、兵力)なのかという疑問がある。
俺が無知なだけなのかも知れないが。

>>124
劉表はとりあえず措くとして、孫権んとこの、有力な地元豪族って誰よ?
孫権は創業者でないってとこに特筆すべきところはあるとは思う(でもイコール君主権が弱いとは思わない)が。
148 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 00:04:21
>>147
まあ審配は明らかだよね
かなりの財力を持ってたみたいだし、ギョウでの抵抗の主力だったという点から軍事力も相当なものだったと思う
149 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 00:34:21
なるほど。抵抗の主力=地元での軍事力保持って見方は出来る気がする。
ただ本人の性格もあるだろうけど、その審配は袁家に殉じてる。
となると袁紹の君主権vs冀州豪族の構図が見えにくくなる気もする。
田豊や沮授はどんなんもんだったんだろう。
仮に強い権力を持つ豪族だったと、君主権がそれに押されてたとしたら、
慎重論を唱えて遠ざけられたり殺されたり、
そしてその結果他の人士の反逆を巻き起こしていなかったりが不自然にも思う。

当該のブログも読んでみたけど、まだまだ試案のようにも思えた。
青州の兵士=青州兵みたい扱い解釈も「そうなのか?」と思ったし、
郭図はいつまでお客さんなんだとも思ったw
150 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 00:50:55
>>149
袁家に殉じた、と捉えるべきじゃなあないと俺は思う
敢えて言うなら、審配は「冀州豪族の楽園としての袁氏軍閥」を死守するために戦ったんだと思う
だから、冀州豪族の勢力を削ってきた豫州その他の名士(賓客)組とは基本仲が悪い
151 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 10:27:30
>>147
私は124さんではありませんが、
呉郡の4姓と呼ばれた顧(顧雍)・陸(陸遜)・朱(朱桓)・張(張温)の4氏、
他にも徐(孫権の妻・徐夫人)・呉(孫権の母・呉夫人)氏など…
挙げていけばキリがないですよ。
スレ違いなので話を膨らますつもりはありませんが。
152 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 14:12:59
>>151
確かにスレ違いなので気が引けるが、君主権力と豪族権力の話の一環ということで。
呉書見聞というサイトによると、「呉の四姓」というのは「孫呉の四姓」でも「呉郡の四姓」でもなく、
「呉郡の呉県の四姓」という分析がなされてて非常に興味深く読んだ。
呉県の名門四姓がどれくらいの規模の豪族なのか、孫呉政権に対してどの程度権力を持ちうるものなのか、
その四姓の登用、出世の仕方などを見ても、出自による特別な権力を持っていたかは疑問。
それと徐氏と呉氏は、孫堅の旗揚げ時からの臣下であり外戚であり、
権力を持っていたとしてもそれは古参であり外戚であるからじゃないのだろうか?
豪族ってそんなに簡単に自分の土地から離れるんだろうか。
張昭も、兵の募集を提案した時に潘濬から危険視された歩シツも北方の人間。

あとやっぱり、俺が不勉強なのかも知れないが、豪族というのがどういう定義かよく分からん。
例えば、周瑜は名門であって、豪族なのは魯粛の方じゃないか、とか。
河間の田銀・蘇伯とか南陽の婁圭とか酒泉の黄華みたいな、地元においては在庁官人よりも財も動員力もある(ありそうな)のが豪族であって、
いわゆる名士たちを片っ端から豪族扱いするのは違う気もする。
例えば、呉の四姓に呉郡太守を拒否し得るような力はあったんだろうか。
むしろ、名士=知識人としての権威&知識人ネットワークという点での、財力ではなく人的交流や名声による権力獲得の方がありそうで、
顧雍なんかの重みというのは豪族出身(ホント?)だからじゃなくて、本人の才覚や性格や名声によるところが大きいのではないだろうか。

袁紹の話で言えば、冀州という一括りの仕方も疑問。
郡や県の単位での結びつきはありそうだろうけど、州単位での連帯がどんなものなのか分からない。
例えば潁川ネットワークみたいな言い方はまだ受け入れられるけど、
豫州ネットワークとか豫州派閥みたいなという言い方をされると「うそくせー」と思ってしまう。
なんか取り留めもなく書き散らかした文章で申し訳ないけど・・・
153 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/02(水) 20:34:54
沮授は結構財産あったみたいね。
大戦の前に一族に分けてるし。
154 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/08(火) 19:42:08
いまさらだけどつっこみさせてくれ
>>136
>後は韓馥に冀州を譲らせた郭図(彼は予州潁川の人)。
その当時未だ渤海太守の袁紹に冀州奪取の進言したのは逢紀で
それに関して韓馥に冀州譲渡を説得しにいったのは高幹と荀?で
郭図は帝奉戴の案を進言したのではなかっただろうか
(もっとも帝奉戴案は沮授だという記述もあるらしいが)

KYですまん
155 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/09(水) 10:47:58
>>136>>154
冀州の譲渡に奔走したのは、後に袁紹に族滅される張導だったと思うのだが
156 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/19(土) 02:49:54
>>149
>田豊や沮授はどんなんもんだったんだろう。

どっかのサイトで見たことだから反論されても答えようがないんだが、
沮氏の当主である沮授が死んだあとも冀州における沮氏の影響力は揺らいでないから、
沮氏自体が地元の有力豪族だと考えられると聞いた事がある。
157 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/21(月) 09:09:12
久しぶりに質問投下といきますかー。
袁買という人物について。
彼は庶子なのだろうかそれとも袁尚の兄の子なのだろうか。
田豊が劉備と同調して曹操の背後を突くべしと進言した際に
袁紹が「赤子が病気だから」と言って兵を出さなかった時のその子が袁買だとも言われていますが…。
最後袁煕袁尚に従ってって一緒に殺されたようなので
自分としては袁買は袁尚の兄の子、つまり袁煕の子ではないかと思う。
158 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/21(月) 11:31:01
最後袁煕袁尚に従ってって一緒に殺されたら息子ってのは安易すぎないか?
159 :無名武将@お腹せっぷく2008/07/21(月) 16:17:21
いや、劉氏の側女抹殺の時に袁尚も協力して一族郎党殺してるから
その時に庶子なら殺されてるかなーと。
後継者争いに巻き込まれず無事な立場といったら袁煕の息子ぐらいではないだろうか。
この側女皆殺しも前のレスにあった通り本当にあったかどうか信憑性が薄いんだけどね。
162 :無名武将@お腹せっぷく2008/08/04(月) 21:18:14
血を吐く病気といえば、結核、肺がん、胃がん、消化管潰瘍あたりが有名だが
あの時代に吐血と喀血はちゃんと区別されてたんだろうか
この違いによってだいぶ変わってくるんだが
163 :無名武将@お腹せっぷく2008/08/20(水) 12:38:17
吉川版の顔良、文醜はパワフルだよな。
顔良→魏続・宋憲瞬殺、徐晃すら撃退
文醜→張遼を追い詰め、助けに入った徐晃にも一歩も引かず
   さらに関羽とも数十合打ち合うが力及ばず討死

まあ関羽持ち上げるためにだいぶ誇張されてるんだろうけど。
165 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/16(火) 22:10:28
袁煕ってなんで兄じゃなくて弟についたん?
166 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/16(火) 22:13:56
>>165
兄に付いたら一生風下に立つことになる
弟に付いたら弟に対して兄という関係を上手く使って権力を握ったりいい目を見るチャンスが生まれる
168 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/27(土) 09:10:20
袁尚派ではなく、狭義の
袁煕派で有名どころっている?
全然聞いたことないけど…
171 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/27(土) 23:58:38
派っていうよりただの部下な気が。
なんで兄弟で一人だけ後継者として支持されなかったんだろう。

最初袁譚が曹操に攻められた時
袁煕に援軍を求めなかったのも不思議だなー。
袁尚に頼むくらいならそっちに頼んだほうがマシだろうに。
まさか軍隊を持ってないなんてことはないよな?
172 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/28(日) 04:36:17
袁紹の長男は劉備と仲がよかった…

彼が後継ぎだったら歴史は変わっていたよ
173 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/28(日) 12:30:49
>>172
いや、袁譚に劉備と付き合えるだけの器量があったかどうか・・
劉備の足掛かりにはなれどどのみち袁家の明るい未来は望めないだろう。


兄弟喧嘩を早くに鎮められれば確かにまだ天下統一は先になったんだろうけどな・・。
174 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/28(日) 21:51:57
袁譚がお家騒動を治められるほどの器量があったら
劉備も早々と逃げ出さなくなってよりたかられそうだ
175 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/29(月) 09:37:13
>>171
袁煕は幽州刺史、烏丸や遼東公孫氏の抑えとして重要な役割。
ある程度の戦力は有していたと考えるべきだろう。
ただ、なにせ幽州は遠すぎる。
袁譚が袁煕の到着まで曹操の猛攻を防げるか否かという考えに立つと、
袁尚にすがるのも仕方ないと思う。
176 :無名武将@お腹せっぷく2008/09/30(火) 18:22:33
唐突だが、呉で例えると二宮の変で孫和孫覇残して孫権が死んじゃったようなもんか。
やっぱ親父が片を付けてやらないとな。
ただ上手くやらないと病巣を片付けるつもりが臓器を傷つけちゃいましたという事になりかねんが。
177 :無名武将@お腹せっぷく2008/10/27(月) 11:15:35
よく曹叡=袁熙の息子説が流れるが、やっぱりそれはないんじゃないか?
袁熙は幽州に行ってて、甄姫は義母に仕えて冀州に残ってるわけだから。
179 :無名武将@お腹せっぷく2008/10/27(月) 18:32:08
何故そこで袁術サイドが出てくるww

しかし、夫の不在中に別の人とか。
それなら袁煕が不在だったのに産むのが早かったのも納得できる…
…あり得ないけどな。そんな昼メロみたいの。
結局確証はないわけだし。
181 :無名武将@お腹せっぷく2008/10/27(月) 21:29:47
>>177
袁煕の子ではないという証明ではあっても、
曹丕の子であるという証明にはならないわけで…

とにかく吉本の乱(218年)以前から曹叡が武徳侯だったという記述と
15歳(数え年)で武徳侯になったという明帝紀の記述の二つから、
曹叡は204年(以前)の生まれという事になる。
改元した場合の数え歳の数え方が良くわからないんだけど、
裴松之が「明帝が建安十年(205年)生まれなら、(享)年三十六にはならない」
と書いているのでたぶん計算上は204年生まれで合っているんだと思う。

でも、ギョウ陥落が204年の8月なわけで…あれ?となる。
182 :無名武将@お腹せっぷく2008/10/27(月) 22:36:55
曹叡の年齢にまつわるは、どうしても明帝紀の「三十六」と矛盾する
曹丕の子供だと考えようとすると

ここでヒント:曹嵩、曹真、何アン、秦朗
184 :無名武将@お腹せっぷく2008/10/27(月) 23:29:21
>>182
他人の子を我が子のように育てたり養子にすることとはレベルが違う気がするが。

それに、こんなスキャンダラスな話を完全に隠せるものかなぁ。
蜀漢や呉が放っておかないよ。
陳寿の時代は無理だとしても、その次の世代以降くらいなら大騒ぎしても問題なさそうだし。
185 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/02(日) 06:59:32
なんか甄氏が生母自体誤りだったとかそんな気までしてきたわ
それか袁煕の甄氏ひっさらう以前に甄氏の嫁を曹丕が持っていて混同されたとか
186 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/08(土) 23:51:56
そういや、袁紹が官渡の後、屈辱から病気で死んだっていうのが定説だけど、
元から病気になっていて、焦って決戦に出て負け、そのまま死んだって可能性はないの?
別に裏づけもなく思いつきなんだが。
187 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/09(日) 01:02:48
病気のため戦を焦った説は俺も考えたな。質問もしたんだけども病気の症状から考えて
急激なストレス増加による急性胃潰瘍等の可能性が高いだとか言われた気がした。
その当時はそれで納得したんだけど、どこでいつの話だったかいのう…。
188 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/09(日) 14:27:33
顔良・文醜・沮授・田豊をもっと上手く融合させて使ってれば、
天下も獲れたよ。
189 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/09(日) 20:21:04
顔文なんて小物どうでもいい
キク義を粛清したほうが問題だ
そこまで増長していたんだろうか
191 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/15(土) 00:12:34
しかしあの戦いでの麹義の活躍は異常すぎる。
増長してもやむなしって感じにも思えるが、
呉の孫権が甘寧・潘璋に対してしたみたいに、悪行を無視して殺さないって選択はできなかったんだろうか。
193 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/15(土) 16:33:16
何故か悪業を許してでも才を生かしてやるというと
器がでかい気がしてあたかも良い君主であるような印象がつくが
そんな奴らも含めて軍団をまとめる事ができるカリスマを持つ奴は本当にほんの一握りであって、
袁紹はそこらへんちゃんと弁えていたんではなかろうか。俺としてはその方がただ寛容な奴より賢君として目に映るなぁ。
ただでさえ冀州派閥が幅をきかせている袁紹陣内、更に力のある奴がのさばってしまっては君主地位の完璧な失墜も同じ。
能力があろうと不和を招く以上斬るしかなかったんだろう。意外と袁紹の態勢はそのぐらい切羽詰まっていたんじゃないかな。

曹操が許攸切ったのと同じ理由も含まれていたとも思うけどね。
194 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/16(日) 00:05:49
甘寧・潘璋が麹義ほどの戦果をあげて軍に対する影響力を持っていたかどうかの違いはあるんじゃなかろうか
195 :無名武将@お腹せっぷく2008/11/17(月) 11:14:01
200年当時の君主権力なんてどこまで行ってもたかが知れてるだろ


vip_2ch_news at 03:15│Comments(0)TrackBack(0) 三国志・戦国 

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