中国英雄板自治スレッド No.4   【東邪西毒】 射雕英雄伝 【南帝北丐】

2010年12月28日

【曹操覇業の功臣】荀?について語る

1 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/08(日) 15:09:41 ID:KW5filkU0
 荀?(163年 - 212年)は中国東漢末期に曹操に仕えた政治家。字は文若で、諡は敬。
 曹操の下で数々の献策を行い、曹操の覇業の基を作った。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E3%82%A4%E3%82%AF


3 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/08(日) 23:59:25 ID:hHA9crCA0
荀という姓の人物ってわりと珍しいかな?
4 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/09(月) 13:02:59 ID:pOag7Fkq0
筍子様の子孫だぞ。
6 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/09(月) 19:14:24 ID:s9xJOQD00
>>3
そうでもないよ
8 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/11(水) 20:54:42 ID:jneFhV8/0
奥さんの唐氏って宦官の一族なんだよね。
つまり濁流出身か。
9 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/13(金) 11:15:56 ID:LYgoeNnc0
宦官と縁続きになったのは何かやむを得ない事情があったと思われ
11 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/04/13(金) 19:21:02 ID:LSWLWmH+0
>>4
本当に子孫かどうかは怪しいらしいね
12 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/04(金) 00:30:24 ID:Ew5bbp8r0
荀?って人物は、曹操の配下と言うよりは、
政治面における協力者という色合いが濃いように思う。
15 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 21:08:18 ID:v1fNeOxb0
【瑰姿】荀?を語るスレ 弐【奇表】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1163258945/

↑が落ちたのでコチラでお世話になります
16 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 21:59:04 ID:jQDeE8MMO
いやーいつか落ちると覚悟はしてたけど落ちちゃったねぇ

では黒いジュンイク黒い曹操軍閥の話を始めますか
17 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 23:21:34 ID:0lV/gxfx0
三戦って180日で落ちる仕様になっているんだっけ?
あの板はもう駄目だわな。
18 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 23:43:43 ID:jQDeE8MMO
・ジュンイクは穎川荀氏の筆頭ではない
ジュンイクが故郷に戻った時に彼がリーダーになって避難しているが、だからといって彼が荀氏の宗主、筆頭だった訳じゃない
上の世代に荀爽がいるし、近い年代でもジュンユウの方が先に世に知られている
更にジュンイク自身にジュンエン、ジュンシンという兄もいる
避難時にリーダーだったのは、他の者が出仕していて不在だったから
上位の者の不在を狙って帰郷し、自分がリーダーになろうとした可能性もある
19 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/12(土) 23:55:09 ID:jQDeE8MMO
・ジュンイクが曹操を選んだ理由
袁紹の下にいても、多くの謀臣や名士がいるし兄まで所属しているので、ジュンイクが彼等の上に立って活躍できる可能性は低い
弱小勢力の曹操なら、ジュンイクはいきなり首脳陣の仲間入り

天下の混乱を収めるためなら弱小勢力について袁紹にたてつく必要はない
漢王朝に忠義を尽くすなら、献帝に公然と歯向かう袁紹や曹操の下にいるのはおかしい
ジュンイクの判断基準は自分にとっての有利さだけと言える
20 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/13(日) 00:04:51 ID:NAureRk+O
・ジュンイクは漢の忠臣ではない
ジュンイクが漢を長らえさせた忠義の士であると考えるのは裴松之が最初
それまでは纂奪者曹操の重臣という評価が一般的だったらしい
実際、ジュンイクがやったことは献帝の監視であり、漢王朝は生き長らえたといっても死に体の傀儡のままであるし、ジュンイクはその状態を改善しようとしたようには見えない
積極的に漢魏革命を推進した董昭と、大した差はないのである
ジュンイクが曹操の魏公封建に反対したのは、天下に動揺をもたらすという極めて現実的な理由であり、漢への忠義はあまり関係ない
21 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/13(日) 00:19:45 ID:nhDuCKHH0
>>それまでは纂奪者曹操の重臣という評価が一般的だったらしい
というか、優れた知識人・君子の一人として認識されている。
北魏にはわざわざ名を?、字を文若と改めた皇族もいるくらいの人気者。
隋末の反乱指導者李密は「曹操が九錫を求めたのを諫めた荀?のように
疑われてはたまったもんじゃない」と引用しているように、簒奪者曹操の一派
というのからは一歩引いた地位にいたと認識されてもいる。
とはいえ、荀?が本気で漢の復興を考えるほど鈍感だったとも思えないけど。
22 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/13(日) 00:39:28 ID:NAureRk+O
>>21
なかなか中英っぽいレスで面白いけど、俺が言ってたのは裴松之までだからね
裴松之の論と後漢書がジュンイクの評価を逆転させてる

あとジュンイクは九錫については諌めてないと思うので、李密は誤解してたのかな?
23 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/13(日) 01:15:54 ID:nhDuCKHH0
>>22
よく読んでなかった。すません。
貴族社会の理想の君子像の一人だよなー、と思い立ったので、脊髄反射をやらかした。
元?も李密も的外れな例ですわな。

董昭の相談が公就任と九錫賜与をセットにしてるので、李密はそれを指してるかと。
24 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/13(日) 02:37:37 ID:NAureRk+O
ジュンイクは纂奪者曹操の一派ではない
もっとおぞましい何かだ
25 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/14(月) 09:04:35 ID:T82BhV5CO
・ジュンイクの評判について
ジュンイクが当代随一の名士として周囲に評価されていたのは間違いない
ただ、これは彼が曹操の司馬となった頃からの話ではないと考えるべきだろう
若い頃から海内に広く名の知られた特級の名士だったのはジュンユウの方で、ジュンイクはおそらくその陰に隠れるような感じだったろう
ジュンイクの評価は、曹操の腹心として働き、侍中・尚書令という要職にあり、数多くの人物の挙主になることで積み上がった実績による評価なのだ
抜擢された者にとって挙主はいわば恩人であり、悪く言うわけがない
それ以外の者にとっても、曹操の腹心を悪く言う勇気のある者は少ない
(もちろんこれはジュンイクが賞賛される能力や人格でなかったことは意味しない。高い地位についたからこそ高い評価を受けたということが言いたいのだ)
26 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/14(月) 12:36:47 ID:T82BhV5CO
・侍中・守尚書令とは
献帝を拉致した曹操はジュンイクを侍中・守尚書令とした
「守」は兼任であり彼は侍中であると同時に尚書令であったことになる
侍中は元は皇帝の身辺の世話役(おまるやたんつぼの管理なんかもやっていた)で、皇帝の政務等に対する相談者や小間使いとして機能した
とはいえ傀儡皇帝にとっては、いつも近くにいて自分の言動を監視し権力者にチクる奴らということだ
尚書令というのは詔の起草や上奏文の管理などの文章管理が仕事
本来は皇帝の言う通り詔を起草する役目だが、細かい内容を一任されたり、詔について皇帝から相談を受けたりといった形で詔の発布に影響力を及ぼせる要職
これも傀儡皇帝にとっては、実質的に詔の起草は尚書令の後ろにいる権力者が握っているようなもの
権力者の意向に沿わない詔は、尚書令が起草してくれないし、権力者にとって都合悪い上奏文等は握り潰されるということ
この二つを兼任したジュンイクは献帝を厳重な監視下に置く重要な役割を曹操から任されたということなのだ
27 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/15(火) 12:22:21 ID:Ca3a/aOb0
尚書令というのは文官としては重職。
曹操が丞相になっているので当然、三公は廃止され
尚書令は実質的にNo2だ。
28 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/15(火) 12:25:41 ID:hsgvDQGUO
・ジュンイクの死について
ジュンイクの死は「病死」とされているが、これは極めて疑わしい
彼は孫権を攻める曹操の軍を労う皇帝の名代として曹操の元へ行くが、ここで曹操はジュンイクを軍に留めることを皇帝へ要望する
もちろんその願いは聞き届けられ、ジュンイクは尚書令から「侍中・光禄大夫・持節・参丞相軍事」に転任した
しかしジュンイクは病となり、やがて「憂をもって」死ぬのである
この時の官のうち侍中は変わらないが、皇帝の傍にいない以上は只の身分でしかない
光禄大夫とは実は無任所であり、名目的には政治に対する意見具申が仕事であり、任地が空くまでの人材プールであったり、他の実職別にを与えられていたり、左遷先であったりする
持節は皇帝の使者の証であり、皇帝が持つべき処断権の一部を与えられたことになる
参丞相軍事が一応彼の実職であり、丞相曹操の軍事顧問ということだ(カクがそうであるように)
しかし、ジュンイクは尚書令という二つとない要職を長年勤め、曹操の差し金とはいえ三公の声もあった人物であり、いまさら参軍事というだけで左遷の匂いである
しかも、例の魏公問題で関係は極めて悪化しており、わざわざ近くに置くことがどんな意味を持つのか、分からないジュンイクではないだろう
これから赴く戦場で「不慮の死」を遂げるか、何らかの罪状が発覚し軍法に基づき軍内で処刑されるか
曹操のこの露骨な人事をまのあたりにしたからこそ、ジュンイクは「憂」という状態となったのだ
死因が病死か自殺か毒殺かは実はあまり関係ない
ジュンイクが間近に迫る逃れられない死を悟り、公式には「病死」と扱ってくれるような死に方になるような死を選んだ、という点が重要なのだ
病死なら自分も厚く弔われるし、爵位や財産を子に継がせることもできる
29 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/16(水) 15:01:19 ID:2+jVFeFKO
まとめてくれてる人ありがとう

>>19
荀イクが来る前に曹操の配下で力があった文官は陳宮なのかな?

エン州のほとんどを味方にしたところをみると結構な名士じゃないかと思うんだが
30 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/16(水) 18:56:58 ID:5SgFDpTKO
>>29
実は陳宮って一貫して「将」と記載されてるんだよね
官位は不明だけど、自前のまとまった兵を持つ小軍閥的な豪族だったんかな

まあそれ言ったら我等がジュンイクも奮武・鎮東司馬なのだが

勝手な推測だが陳宮に立ち位置が一番近い曹操側の人間がテイイクかなと思う
31 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/18(金) 12:25:33 ID:AzjP6czCO
・ジュンイクと三公
ジュンイクは三公就任を打診されたが、固辞したという
三公は当時曹操以外は有名無実化していたのではないかと思われるので、野望と権力の男ジュンイクが断るのも当然…かもしれないが、
実際には「三公にふさわしい人物がいない→三公を廃止し丞相を復活して曹操一人にやらせよう」という流れに誘導するための意図的なものであろう
つまり曹操が三公の権限を独占する丞相になるためのマッチポンプへの荷担である
32 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/18(金) 13:32:17 ID:kW4SBvoJ0
指揮権の有無がコマンダーとスタッフの差を分ける。
一緒くたに謀将として扱うからややこしい。
まあ下っ端から見れば大差無いんだろうが。
張バクや呂布の配下というより共同経営者のようなポジションだったのではないか?
33 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/19(土) 11:29:23 ID:H2oikw0VO
>>32
陳宮のことだろうけど、どうも陳宮は曹操からもかなりの待遇を受け、世間に名を知られた人物だったらしいね
もしかすると曹操軍閥最初期において地位、影響力ともジュンイクやテイイクをしのぐNo.2だったのかも
34 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/20(日) 16:58:53 ID:+VfEoaPuO
ジュンイクやテイイクのように曹操を初期から支えた人物としては王必も地味ながら結構重要な役割だったと思うんだけど、知名度低杉だな
35 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 12:34:15 ID:49Wao8mNO
陳羣って豫州から徐州に逃げたあと呂布に仕官してるな
呂布が敗れるまで親袁術(反曹操)だったのかな
呂布が敗れると手のひら返す陳羣カワユス
37 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 19:21:57 ID:UIzURTIe0
陳羣は好きな武将の一人。でも、劉備に使えていた過去がなんだかなと。
とても品行方正で荀文若の娘婿。この当時、結婚って親同士が勝手に
決めたのかな。それともお見合い?恋愛結婚なんて、曹丕ぐらい?
38 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 19:23:52 ID:N+998ljH0
陳群が将?
そりゃ将軍位はあったけどさ。
39 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 20:18:47 ID:49Wao8mNO
>>37
曹丕とシン氏の事なら、略奪婚だと思うよ

恋愛結婚的な例もあったかもしれないが、まあ普通は元から付き合いある家同士の親や家長や主君が決めるだろうね

>>38
官位が中郎将→将軍の諸葛亮とかね
40 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 20:32:30 ID:UIzURTIe0
恋愛結婚はありえないようですね。
略奪婚ですか・・・確かにその後の扱いはそんな感じですね。
無双4では曹丕の結婚について「情熱的な面も」とあり、少し
感動しました。

陳羣は、参謀のイメージが強いけどなんとなく武将のイメージも
あったので。でも、なんか大好きです。
そんな陳羣が荀?の娘婿になった経緯が知りたいです。
やはり、その品行を認めてなら、荀?らしくていいなあと。
41 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 22:59:12 ID:L97AAhLk0
>>34
王必は死に方がヒデェよな
42 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/21(月) 23:18:08 ID:49Wao8mNO
>>41
王必は曹操が許を離れてる時に関羽への備えとして許で兵を率いるなど、曹操の絶大な信頼を伺わせる
また吉本の乱も怪我を押して鎮圧するなど、信頼を裏切らない実力も示してるよね
侯音の乱も吉本の乱の年に起きてることを考えると、吉本の乱は曹操にとってかなりの危機だったのではなかろうか
(すぐ鎮圧されたから良いものの、王必の奮闘がなかったら李カクや楊奉、袁術のような末路になったかもしれん)
43 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/24(木) 19:26:59 ID:KHOp6OSnO
陳羣は曹操の下につき曹丕の腹心となった
その子陳泰は傀儡の魏帝に対し忠だった
父を曹操に殺されたジュンイクの子らは司馬氏の下で働き晋の重臣となった
因果は巡るなあ
45 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/26(土) 20:16:11 ID:1+nivAjFO
あそこで死ななかったら王必は郭嘉あたりと並んで立伝されてたかも
46 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/26(土) 21:53:47 ID:14tsxI030
王必は知名度も圧倒的に低いしね。
47 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/26(土) 22:04:01 ID:1+nivAjFO
>>46
三国演義でもちょくちょく出てたしなんでこんな知名度低いのか…
曹操が本当に信用したのは彼や韓浩みたいな奴だよね
48 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/28(月) 01:52:54 ID:yUtxsZlXO
ジュンイクって楊彪助けるために満寵に後ろから手を回して圧力かけてるよね
51 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/28(月) 12:27:53 ID:yUtxsZlXO
259:無名武将@お腹せっぷく :2007/05/28(月) 11:16:01 [sage]
そもそも後漢王朝があれだけ荒廃して群雄割拠になった時点で、もう本気で後漢再興を目指す人間なんて皆無でしょう。
統一した人間が誰であれ新王朝を築くに決まってる。
(劉備あたりが新王朝に漢と名付ければ名目上はまだ可能性がゼロではないが、実質的にはこれも新王朝と言っていいだろう。)

そうするとあとは
?一応最後まで漢朝に忠義を尽くす形を取りつつ、王朝の交代を見届ける。(その後大半は新王朝に仕える)
?むしろ自分達で積極的に新王朝設立を目指す。(当然新王朝に仕える)

この二種類に大別されてくると思う。

あとは掲げる看板をどうするかだけど、呉の場合は赤壁にモロに出てる。
?曹操は逆賊だけど漢の威光には逆らいがたい、降伏しよう。
?曹操こそが逆賊なんだから、我々の手でこれを排除しなくてはいけない。

?ですら曹操がその実叛意があることを認めつつ、これに降伏しようと言うのだから漢室復興なんて諦めてるも同然。
?も「孫家こそ漢室の忠臣」という大義名分を使ってるだけで、非公式的には「孫家こそ次の天子」とか言ってる。

呉の士大夫層に「漢室復興」なんて幻想を本気で追い



携帯でやったら一部切れたが、個人的には完全同意なのでコピペ
53 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/05/30(水) 08:28:24 ID:jgTPYoxpO
ジュンイクもそうだが、後漢のいわゆる清流派、名士ってそもそもが漢の皇帝に弾圧された反体制派だよね
漢末〜魏の歴史はその反体制派が政権を乗っ取って体制側になる過程だと言えるよ
54 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/01(金) 12:43:03 ID:P/cymk43O
曹操の屯田について、その本質を考えずに称賛や批判する人を見かけるので、俺の考えを書いておく

曹操の屯田ってのは、民が流民や盗賊化して放棄した土地や農具なんかを接収し、流民や強制移住・拉致してきた民を働かせるもの
曹操はいわば地代として収穫を取る

もちろん流民にとっては生きる場所と収入(食)を保証できるんだから、のたれ死によりはずっとマシ
それは間違いない
その意味では民に対して曹操は大きな功績があると言える
しかし、重要なのはこれは自由に耕作させてやったり自由民にしてやるものではなく、軍(国家)が農奴を囲い込んで搾取しまくるという類のもの
流民には選択権がないから、労働力を不当に安く買い叩くようなものだ
(屯田に屯する兵力は、外敵から守るだけではなく、むしろ奴隷農場経営を担保するという、屯田民に対する備えでもある筈だ)
これは、豪族が非公式にやってきた農奴または小作による荘園経営を国家権力が真似たと言われる
ここに古代帝国の基盤だった兵農一致の自立農民は実質的に否定され、中世的体制が公式化したと言えるんじゃないだろうか
曹操はそんな時代の流れを掴んで流れに乗ったと言えるだろうが、暗黒時代とも言われる中世の到来を招いたとも言える
軍事的にはかなりの搾取のお陰かかなり補給事情が改善されたらしいが、それでも官渡の時のエピソードが示すようにまだ万全には程遠かったらしい
また、荊州の民を拉致して屯田させた(トウガイ伝参照)りもしたようで、生産力向上のために民を苦しめるという、本末転倒とも思えることもやっていた疑いがある
55 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/01(金) 13:00:28 ID:6TTdcokQ0
なんか聞き飽きた論旨だな
屯田つーより兵戸制の事だし
57 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/01(金) 14:10:39 ID:2bio09AL0
屯田への課税率は余り高くない。
兵役がキツイとされた。
59 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 01:29:13 ID:sDm83zdv0
やっぱ、衣食住の心配なくても兵戸に組み込まれるのは辛いんか
初期は逃亡が相次いだようで
60 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 01:44:38 ID:S1KTmqBbO
>>59
死ぬか引退までお役御免になることもなく、子供も弟も兵になり、奴隷同然の被差別階級
兵戸にとって兵戸身分から解放されることが一番の恩賞だったようだし
そりゃキツかろう

ところで兵戸と典農部の屯田民は別だと思ってたんだが、一緒なのかい?
兵戸の由来は豪族の私兵(部曲)だと思ってたよ
61 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 01:49:51 ID:sDm83zdv0
一般民の兵戸と屯田は別物だろうけど、
常に兵士を出さなくてはならないということでは屯田民も一緒でしょ
兵役の課せられてない屯田ってあったのかな?
62 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 01:59:19 ID:S1KTmqBbO
>>61
労働効率考えたら、兵戸は従軍だけ、屯田は農作業だけの方が良くないか?
63 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 10:01:11 ID:tpj/CEeW0
>>60
典農部の屯田民は部曲として編成されていたようだから、兵戸としての側面も
併せ持っていたんじゃないかな。
64 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/02(土) 14:29:32 ID:S1KTmqBbO
>>63
ありがとう
そうか屯田民も大変だ
そこからのしあがったトウガイは凄いな
65 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/03(日) 01:11:32 ID:6IliRqz30
当時の人口を考えたら国民皆兵にでもしないとつらかったんじゃね?
66 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/03(日) 14:34:34 ID:idV6eoYVO
>>65
国民皆兵だったのは秦漢
しかし前漢末からその政府の統制下に置けない民が増えていた
その民は豪族が吸収していた
これは戦乱があると一気に増える
だから後漢末の政府が統制出来る民の数なんてたかが知れていたわけで、逆に言えば支配出来る民から出来る限り労働力や兵力を絞り取ろうとしていたかもしれんね
それをやると余計に政府の支配から民が逃げていくという悪循環なんだけどね
冀州で袁紹時代の統治が懐かしがられてたり、南陽郡が曹操の統治のあまりの厳しさに蜂起したりしたように、曹操時代は支配される民には大変厳しいものだったみたい
67 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/03(日) 15:18:26 ID:M3bqeqoK0
>>66
後漢は軍縮が行われて国民皆兵ではなくなったと思ったけど?
68 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/03(日) 16:12:31 ID:idV6eoYVO
>>67
あ、そうだね
都尉廃止とかの地方軍縮小やね
政府が支配出来る民の数が減って豪族に取り込まれた、つまり政府の支配力低下を示してるわけで実質的にはもう皆兵じゃなかったのだろうね
でも支配してる民に対しては兵役を課してたわけだから、名目上は皆兵かな
69 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/04(月) 12:32:12 ID:98yHU5s/O
・尚書の機能
ジュンイクは尚書令になったが、曹操がなった録尚書事との機能上の区別って曖昧だったりしないだろうか
尚書台は令―僕射―丞―尚書―郎で完結してて、令の上に更に録尚書事がいるのは屋上屋の感がある
しかし、本来尚書令に命令を下すべき者が皇帝であることを考えれば、ここはすっきりするのではないか
つまり録尚書事は皇帝の代理つまり摂政関白として、皇帝に代わり尚書令に命令を下すのだ
録尚書事は尚書台を超越した存在と言うべきじゃないだろうか
70 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/12(火) 00:31:47 ID:FbjGRy5f0
止まってるのでネタ振り

鍾ヨウ、陳羣、荀?は肉刑復活論者だったという
しかし王朗、孔融をはじめとする諸官の多くは肉刑に反対し、曹操、曹丕ともに肉刑に賛同の意を示すも
結局沙汰止みとなっている。

肉刑の復活を唱えたのが穎川名士だったことに何か意味はあるのだろうか


というか荀?って肉刑復活論者だった…よな?
ちょっと調べたら自信なくなってきた
71 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/12(火) 12:25:26 ID:8yzAeoJDO
>>70
ジュンイクがどうだったか忘れたけど、ショウヨウの家は法学を家学にしてるよね
法学畑では肉刑を肯定的に評価してたのかな

実のところ肉刑、丞相の復活、巨大な異姓諸侯の誕生と、曹操のやった(やろうとした)政策は復古的なものも多かったりするよね
72 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/17(日) 17:53:26 ID:IU4phvtfO
漢書何並伝に、穎川の鍾元という奴が尚書令で廷尉を領したという文があった
この頃(前漢末期)から鍾氏は法律を家学にしてたんだな
こいつの弟は郡掾をして汚職やってたそうだが
73 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 02:10:58 ID:gBU9Q/iR0
>>71
魏公就任と言い、悉く王莽の轍を踏んでるのがアレだなぁ。
74 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 12:30:08 ID:UKESG9lLO
>>73
ま、基本的に王莽の手法の模倣だからね

王莽は「宰衡」という古を典拠とする官に就き、皇帝の「外戚」(娘を皇后にする)になり、「九錫」を貰い、「安漢公」となり、禅譲の道を開いてる
曹操は「丞相」という古の官を復活させ、皇帝の「外戚」(娘を皇后に)になり、「九錫」を貰い、「魏公」となっている
もちろん偶然の一致ではなく、王莽の手法を真似たものに間違いない
だからジュンイクは魏公と九錫を得ることで纂奪の意思を天下に知らしめ、動揺を与えるのに反対したんだろう

余談だが董卓が相国や太師を称したり、李厳が諸葛亮に九錫を進呈しようと考えたというのも同じように解釈するべきだと思う
75 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 23:11:36 ID:gBU9Q/iR0
>>74
荀?伝によると、荀?はそれに対して反対の立場だったようにもとれる。
しかし、荀?の成業そのものは曹操の簒奪を後押ししてるよね。
曹操を皇帝の後見人にしたり、荀?自身皇帝を監視したり…
76 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 23:40:42 ID:UKESG9lLO
>>75
うん、だから俺はジュンイクが反対した理由は「纂奪の意思を露わにするのは『まだ』早い」だったと思うんだよね
多少なりとも曹操を忠臣とか誤解してる奴がいるから、政情不安な今はまだ誤解させて利用しとけ、と
言い換えたら、関中平定して荊・楊にリベンジ果たしてから本性見せろ、という意味だ
77 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 23:46:38 ID:gBU9Q/iR0
>>76
時期尚早だったために天下が3つに定まってしまった。か。
袁紹・袁術と同じ轍をふんだんだなぁ。
78 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/18(月) 23:55:56 ID:UKESG9lLO
>>77
そこの評価は微妙だよ
魏公国を得て冀州領有を合法化できたお陰で二代目になっても大勢力を維持できたとも考えられる
魏公にならず禅譲のお膳だてもしなかったら、曹操が死んだら一気に勢力が瓦解分散しかねない
曹操は「俺ももう若くないから天下狙いより安定志向でいくよ。だから邪魔するジュンイクウザス」って感じだったんだろう
79 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/19(火) 00:00:13 ID:KutuDoZp0
>>78
それもまたそれで夢の無い選択だのぅw
80 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/19(火) 00:17:15 ID:JCoskdLzO
>>79
そこはやはり赤壁とか荊州での一連の敗戦が被害という意味でも曹操の自信という意味でも大打撃を与えてたんだと思う
逆にジュンイクは敗戦の打撃があるからこそ天下統一のためには漢シンパを刺激する真似を避けたかったんだろう、と思う
84 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/21(木) 14:23:52 ID:wcZLUKIMO
>>76
個人的に凄く違和感のない結論だ
普通に読んだらそうなるよな

誰かこういう視点をもっと普及させるような作品を作ってくれないもんかね
85 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/22(金) 03:20:27 ID:89tkmqL80
そう反対したら勘違いしてる連中に
「荀?さまこそ本当の忠臣だ。彼を担いで贅閹の遺醜と対峙しよう」となり、
曹操「おい、文若。おまい俺に逆らおうっていうのか?」
荀?「いえ、滅相も無い。主公の思い違いです。反対したのは確かですが、こんなはずでは…」
曹操「じゃあ、どうケジメをつけるんだよ、ええ!」
と、こんな感じで延々いびられ続け憤死させられたのでは?
86 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/22(金) 12:46:57 ID:duVtBf22O
>>85
ストーリー的には面白い
ただ裴注見ると、その頃まではジュンイクはあくまでも曹操が漢を纂奪するのを助けたと評されてたみたいだからなあ
伏皇后の密書を隠してたって異説はあるけど、その異説でもジュンイクは最後には密書を曹操にチクってる
チクるのが遅かったから疑われたことになってるけど
87 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/27(水) 17:46:39 ID:Ee1NRz2P0
曹操は頭痛がひどかったんで「俺もうすぐ死ぬんじゃないか」と思って急いでしまったんじゃないかな
88 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/29(金) 12:27:42 ID:5N+wcWQGO
本人も周囲も、健康に不安を感じてたのかもな
道半ばで死ぬと覇業も一気に後退してしまうというのは袁紹や劉表や孫策の例の通りだから、覇業を多少後退させてでも現勢力の次代への継承を確実にする曹操の判断は間違いとは言えない
ただ、覇業が後退し、敵に時間を与えることになるのもまた確かで、曹操に天下をマジで平定するという覇気があればジュンイクの言葉に従っていたかもしれないな
89 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/29(金) 22:15:45 ID:YIqDUlI/0
荀?漢臣論のはしりが裴松之であることは何度も触れられてるけど、
なんで彼はそういう結論に達したんだろうね?

歴史解釈というのはその時代のイデオロギーに左右されるものだと思うんだが、
荀?が漢臣である方が都合がいい南宋の政治状況なんてよく分からん…三国志厨でサーセンw

それか国家のイデオロギーより裴松之自身の信条に関わりのあることなのだろうか
前スレでは「痛いアイドルオタ」呼ばわりされていたが…
90 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/30(土) 17:27:31 ID:Or7t+ftjO
>>89
南宋じゃなく劉宋やん

推測でしかないんだけど、後漢末以来実質的には分裂期が続いてる時代だから、長期統一政権だった漢への思慕みたいなものがあったんだろう
そして、「曹操が纂奪ではなく本気で漢を再興してたら乱は早く収まっただろうし、そうしたら今みたいな分裂時代はなかった筈だ」
といった彼なりの分析から、漢の皇帝を立てて統一を目指したジュンイクを高く評価するんじゃないかな
漢マンセーと統一マンセーを裴松之の中で矛盾なくするためには、統一を優先した発言のあるジュンイクは漢臣でないといけなかったわけやね

有名なカク嫌いも漢マンセー統一マンセーから導かれるね
「カクがあんなこと言わなければ天下は混乱せず、今も漢だったのに」みたいな
91 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/30(土) 19:37:37 ID:A2C9JNWE0
>>90
なるほど、うなずけますね。
しかしそれなら、裴松之は天下三分の劉備・諸葛亮や二分の周瑜・魯粛も叩かなけりゃ
ならないような。
92 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/30(土) 23:07:42 ID:kIfwUkTb0
統一の方策を積極的に練るならまだしも、
ただ徒に中途半端な体制の既得権益の確保に汲々とするだけの男に見えたのでは?
93 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/06/30(土) 23:52:00 ID:Or7t+ftjO
>>91
それらは世が乱れてからの話だからね
裴松之的には世を乱した元凶のカクとか、一気に世を統一に導くことができた(筈の)ジュンイクの戦略と比べたら、良くも悪くも大したことないんだろう
あくまでも松っちゃん基準での話だが
94 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/01(日) 08:04:23 ID:ZnxEjpWz0
>>90
南宋じゃ1000年くらいずれてるよな…すいませんorz

凄く参考になりました
確かに賈クに突っかかってるのも謎だったんだが、そういう考え方なら納得できる気がした
賈クが李カクたちにどんな献策をしようと、それより前から漢はほとんど滅びてるようなものだったと思うが、
裴松之はそうじゃないと思いたかったってことかな

96 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/11(水) 12:22:29 ID:Ww0w4LlEO
野心家なジュンイクをクローズアップした小説や漫画があれば面白いんだがなあ
97 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/11(水) 19:33:28 ID:3A4GP8gH0
既出かもしらんが

荀? 風野真知雄 PHP文庫
面白かった
ある程度野心家、独自解釈あり
駅のキオスクで買った
99 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/11(水) 21:14:13 ID:1jXVqbaw0
>>97
それの荀イク、王者になろうとしとるよな
100 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/11(水) 21:25:49 ID:g6te5rrp0
曹操をおだてる→曹操を殺す→自分が支配者に
101 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/14(土) 02:09:38 ID:6aCaqRn30
>>97
読んでみた。
なんか薄っぺらかったなあ。
通常のイメージのジュンイクの方が深みがあると思う。
102 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/14(土) 13:19:41 ID:GohKMb+7O
解釈としては面白かったけど描写とか伏線とか、小説としては微妙って感じだった
103 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/17(火) 12:23:18 ID:ZvPiX+xMO
ジュンイクが伏皇后の密書を曹操に見せたという件はなぜまるで無視されてるんだろ
否定する根拠は裴松之の「ジュンイクがそんなことするはずない」っていう主観以外にはないはずなんだが
105 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/17(火) 20:26:59 ID:MPXYXnEG0
>>100
それって司馬仲達が考えそうな事だよ。事実、彼の息子達はそうしていた。
ジュンイクって曹操の忠実な補佐役のイメージがあるからなあ。
107 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/23(月) 21:05:09 ID:afH7TbL6O
むじん氏が取り上げた王允論はジュンイク漢忠臣論に似てる気がする
109 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/26(木) 12:20:31 ID:DNsTQAuSO
晋の華キョウが王允を弁護してるという話
つまり逆臣董卓に従った上に後から反逆したことを不忠で不義だという世論に対して、董卓を打倒するためやむなく従ったんだから不義不忠じゃないんだよ、って弁護した

当時王允が不義不忠であるとみなす世論があったことがわかる
ジュンイク漢臣論とソックリじゃないか?
110 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/07/26(木) 12:44:53 ID:L9qSfYa00
あの話、専ら訳出の問題として読んでしまったワシはリテラシー不足
111 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/02(木) 23:34:03 ID:0ptKeOr20
>>109
実際は不義不忠ではないという主張=不義不忠であったという世論が一般的であった、とは限らないんじゃないか、
自分の論の斬新さを引き立てるための決まり文句のようなものなのではないか

と思っていたんだが、三国志研究第二号の世説新語と三国名士の研究の論考を読んだら考え方が変わった
後漢書、裴註と同時代か少し前に書かれた世説の中で、荀?は少なくとも
「君主の意に反して何事かをなそうとした人物」とは描かれていないように思える

この論考は他にも考えるところが多かったのでおすすめ。
荀?の起家官である守宮令が元は宦官の仕事だったこととか、もう少しちゃんと調べたい

長文スマソ
112 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/03(金) 00:07:16 ID:GG4SNv370
>>111
情報乙

>荀?の起家官である守宮令が元は宦官の仕事だったこと
ああ、そういや宦官が全滅してからの話だもんねあれ
113 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/03(金) 22:37:52 ID:dnce8ZGT0
なんか難しい話してんな。 

尚書体制てのは皇帝主導主義。荀?は守尚書令、特に侍中に拘ったのは
やはり皇帝主導の尚書体制、後漢皇帝の中央集権化を意識していたんじゃない
か。 そうすれば相対的に曹氏や袁紹という逆賊の力が落ちることになる。

そのためには侍中、尚書という位置は必要不可欠だったが、
曹操から皇帝との距離を置かせる為光禄大夫に任命され、曹操は丞相制を
導入しだした。 
だから荀?は死ぬことになった。 と考えたほうがやはり自然だ。

が荀?が漢王朝復興を本気で目指して行動したとは思わない。

荀?にとっても最も重要なのは清流派の名声。 荀?にとって能力以上に
価値があるものだ。

荀?は、家が後発であり自分の現状もよく理解していた。そのため自身の
声望を維持する事が最優先事項だった。 それが荀?の行動方針になって
いた思うし、彼の失敗だったと思う。 

結果が同じでも動機が違うって感じ。
114 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/04(土) 20:27:30 ID:yOUcUrABO
全然関係ないんだが、土徳で黄色を尊ぶ魏で青龍って年号おかしくね?
115 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/05(日) 10:23:17 ID:b2aAO5+S0
黄初で土徳をアピールした後は好きな年号を作っていいと思ったんだろう{{要出典}}
116 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/05(日) 11:42:19 ID:5GI6aNRY0
明帝より後の時代に青龍が出てくるのは分かるんだよ
もう次の王朝が見えてたから、次の王朝の予告として作られるだろうから

しかし土徳の魏でありながら青龍を肯定するというのは、まるで魏の土徳を否定しているかのようだ
というより、明帝は自分は魏の土徳ではなく、魏から受け継いだ次の王朝だとみなしていたということだろうか・・・
明帝は創始者でもないはずなのに自分の廟号を烈祖としたり、まるで自分が初代であるかのような振る舞いがいくつか見られる
117 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/06(月) 21:08:52 ID:sGWyg49s0
明帝は袁キの子だって説が流れてたそうだけど本人は本当に信じてたんじゃね
もう少し長生きしたら名前も王朝も変えてたのかも
118 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/06(月) 22:23:49 ID:18lquA+D0
>>117
常林伝注の記述を信じちゃうと明帝って母が曹丕に捕まる前に生まれてることになっちゃうからね
119 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/07(火) 20:26:27 ID:Og4OCu0q0
ただ単に反吐が出るほど親父が嫌いだったのかもしれんよ
120 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/07(火) 22:53:45 ID:xSj5/fs10
>>119
それは孝が何より優先する価値基準の中国ではDQN中のDQNの人非人になってしまう
「実は父ではない」なら別だが・・・ってまたその話に戻ってしまった
121 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/08(水) 14:24:30 ID:czYSi0ptO
>>120
この時代には孝やら礼やらを無視するのが今時!みたいな風潮がなかったか?
孔融あたりも孝に対する反感っぽい逸話があったような


あと袁熙が父親という説にも無理があるんじゃなかったっけ。赴任地が別の場所だったとかなんとか

122 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/08(水) 19:19:28 ID:LgitVs8pO
袁熙が実際にどこにいたのかって、ギョウが陥落する直前以外は不明だと思うんだがな
だからって曹叡の父だと断言する気はないけど、否定説の根拠にはならないよ
123 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/08(水) 20:25:26 ID:6vfw+g6V0
>>122
203〜204年に幽州刺史、曹叡が生まれたのが205or206年かな?
適当に調べたから今度正確に資料見直してみる

まあ曹操や曹丕は実際に生年を知っているわけで、彼らが袁家の種を生かす理由はないんじゃないか?


>>114の問いに答えるには他の王朝での例を調べるのが手っ取り早い気がするな

124 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/08(水) 20:39:57 ID:UD+09mmS0
>>114
占いの基礎である五行説で土徳を重んじたとあったので
、五行で年号を考えたのかと思いきや、現代五行だと青龍の
説明ができません。

一説には、当時の五行自体、現代の五行と異なる法則があったとか
いう人もいますが、どうなのでしょう。

五行自体、年号には関係ない場合も考えられそうです。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/08(水) 21:16:30 ID:+374kN0Q0
>>123
幽州刺史になった直後からずっと幽州から動かず妻とも会ってなかったのか、ってことだよ
ま、これは結論が出る話じゃないと思うけど
妻子を従軍させる例がある一方で本拠に置いていくケースもあるみたいだし

>>124
青(龍)は木徳
そして木徳は黄=土徳に勝つ、つまり実力で土徳の魏を滅ぼすのは青=木徳ということになるんだよね・・・
126 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 12:09:25 ID:BglOQXqKO
>>125
203年5月以降曹操がギョウを攻撃しており、袁家側に援軍があったという記述がないこと

くらいかな

袁熙が「動いてない」「父親じゃない」ことを証明することは難しいけど
否定論の材料の一つ程度にはなるんじゃないかと思う


曹叡の父親曹操説でも唱えてみようか
127 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 12:20:12 ID:zwr7bnZ0O
うん、そうだね
某ウィキでは二年くらいずっとギョウが包囲されてたことになってて呆れたけど

まあ、これについて俺が思うのは、裴松之お得意のべき論に流されてはいけない、ってことだな
史料的根拠なく「曹叡は曹丕の子だから本紀の三十六歳は間違いに違いない」みたいにやっちゃいかんと思うわけよ
129 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 20:22:45 ID:rvyP7LfwO
そもそも曹叡が袁熙の子だったとすると、
他にも子供がいるのに曹叡を皇太子にした文帝の意図が読めん。
だって曹叡が袁氏だとしたら、当時城内にいた甄氏は赤ん坊を抱えてるか、あるいはお腹の中に子供がいるって格好になるわけだから、これに文帝が気付かなかったはずはない。
だから自分の子か否か疑うといったって、袁熙の子なら必然的に文帝が知ってたはずじゃない?
まして文帝は曹叡の生母を殺してるんだから曹叡が皇帝になったら何しでかすかわかったもんじゃない。
そんな血筋の怪しいのが皇帝になったのに、曹操が死んだ時の曹彰みたいに「俺が権限とってやる!」みたいに叛意をもった・行動を起こした皇族がいない。
まあ上は、文帝に権限削がれてたから移さなかったのもわからんでもないが
皇位継承権がないからといったって、曹真・曹休のように文帝期から重臣であった皇族すら黙認してる。
あるいは皇族全員が文帝が建国した王朝に復讐しようとでもしたのか?
130 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 20:26:53 ID:eR2ma3OD0
曹叡元仲の父は中国魏王朝の始祖曹丕子桓(諡号は文帝)である。
元仲という字は、魏公国の方言で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。

歴史書によると、曹叡が母、甄夫人の腹の中にいたとき、
まだ華北の覇者だった袁紹の幕営が、敵対する曹操軍によって襲撃された事件があった。
身重の母、甄夫人は曹丕によって拉致されたが、傾国の美と呼ばれる美貌のため曹丕の妻となる
曹丕の夫人として男子を生んだので、「旅客」を意味する元仲という字を与えられたのだという。
131 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 20:40:09 ID:kKcHL2HZ0
>>129
ごもっともなんだが、曹操・曹丕と曹真や曹休も血がつながっていない(少なくとも男系では)という事実に気付いて軽く衝撃を受けた俺
曹氏では珍しくないのかもしれん

別に袁熙の子説の根拠にする気はないが、まだ若い曹叡が自分の息子を何度か失ったらあっさり養子を入れてるのも妙に気になるんだよな
いくら若くても後継候補が必要なのは当然なんだけど、後から実子が出来たら紛糾するのに
132 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 21:52:41 ID:JaeOdZU/0
>>130
中世のモンゴル語ではジョチと呼ぶんだろ
133 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 22:38:29 ID:kKcHL2HZ0
>>132
懐かしい怪文書(レス)だよね
134 :1292007/08/09(木) 22:59:14 ID:rvyP7LfwO
>>131
> 別に袁熙の子説の根拠にする気はないが、まだ若い曹叡が自分の息子を何度か失ったらあっさり養子を入れてるのも妙に気になるんだよな
これは俺も説得力に欠けること言うが
渡辺精一氏曰く「彼の複雑な家庭環境がそうさせた」らしい。
空回りした感のある魏武の愛情、自分の母を殺した文帝、文帝に母を殺させる原因をつくりながら、権力掌握のため自分を養子にした郭皇后
こういう家庭環境の中で、後継者を作ることが自分でも不可能をわかっていたから早急に養子をむかえたのかも。些か薄弱な反論になるけど。
曹叡自身も大分精神が参っていたのか父同様に自分の皇后を殺害してるんだよね。
> いくら若くても後継候補が必要なのは当然なんだけど、後から実子が出来たら紛糾するのに
血筋としては皇帝の子が優先されるわけだから、案外すんなりいくんじゃないかな?
養子というより養子の周辺人物が躍起になって政治闘争に明け暮れそうだが、
曹叡なら粛清や罷免をためらいもなくしそうだ。
135 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 23:10:24 ID:kKcHL2HZ0
>>134
>粛清や罷免をためらいもなくしそう
揚げ足とるみたいだが、これって全然すんなりいってなくね?
秦王たちは形としては実子だったんだから(実父を隠すほど徹底してた)、本人もかなり葛藤するだろうし暗闘も激しいだろうね
二宮事件のようになるんじゃないか
あの養子の若い方が即位してるのも不思議なんだけどさ
136 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 23:21:09 ID:BglOQXqKO
>>131
前半に関しては、曹真・曹休と曹叡ではさすが状況、事情が違いすぎる
血の繋がりがない者を一族にするのはまだしも、それが敵対勢力であり君主の直接の血縁であるというのには無理がある

後半に関しては確かにちょっと違和感
若くして養子をとったといえば他に思い付くのは鍾会とかだが、これは上記と同じく立場が違いすぎるからなー
137 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/09(木) 23:27:24 ID:kKcHL2HZ0
若い頃の引きこもる曹叡
劉ヨウは「始皇帝みたいじゃね?」(始皇帝の父といえば・・・)
自分で自分を烈「祖」と決める(祖は普通創始者だけ)
土徳王朝なのに元号「青龍」
なぜかやたら早期に養子を取る

とりあえず曹叡関係の俺が「違和感」を感じる点
138 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 00:05:19 ID:AhIcBA8nO
>>135

> >>134
> >粛清や罷免をためらいもなくしそう
> 揚げ足とるみたいだが、これって全然すんなりいってなくね?
俺がいったのは「皇帝陛下自らの子であれば…」→養子の勢力は自ら退く、あるいは政治闘争に明け暮れない
というのを「すんなりいった形」と思ってるんだけどね、そうすんなり理想的な形になるかはわからないけど。
(今考えたらそんな都合のいい話はないなw)
そりゃ粛清ラッシュルートならすんなりとはいかないさw
 
そういえば曹叡自身は自分自身について「あれ?俺父上の子じゃないんじゃない?」
とか「俺袁氏の子かも…」とか考えたり思ったりしたことはあったのかな?
たとえあったとしても陳寿は「宮中の秘密事項ゆえわからない」といってかかなそうだし、
だからあったとしても後世の史料になるのかな。
あるいはそういうことがあったとしても曹叡が物心つく頃には袁氏は滅びてるんだから、
曹叡が「朕は袁氏の子だ!」と自負し、袁氏再興をはかったり袁氏に思い入れがあったとも思えないんだけどどうだろ?
だからそういう精神的な部分を斟酌して文帝も「まさかこいつが袁氏再興などとぬかすことはあるまい…」と結論づけ皇太子にしたんじゃない?
それとも如何に内心がどうであれ
敵対勢力の君主の血が流れている奴は後継者に出来ないか?
そもそも曹叡の出生の真相を知ってる奴は文帝と甄氏以外に誰かいたんだろうか?
139 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 00:30:52 ID:AhIcBA8nO
>>137

> 若い頃の引きこもる曹叡
> 劉ヨウは「始皇帝みたいじゃね?」(始皇帝の父といえば・・・)
それはちょっと穿ってない?劉曄は「秦始皇、漢武みたいな人で、資質はわずかに劣るね」と評してる。
秦始皇一人ならともかく、漢武と並べてるから素質の話じゃない?
「秦始皇も漢武も陛下もスケールが大きい独裁者、ただ陛下は前二者には及ばないよ」ってな感じ
真意を見抜かれぬ為あえて漢武も引っ張り出した…なんてこともありえなくもないが
だとしたらわかりにくいにもほどがあるw

曹叡の出生について、非常に小説めいた話が手元の本に載ってるな
―「曹叡は204年、曹丕がある女性に生ませた上で甄氏に養育させた」
たぶん、甄氏は死産し、自分の子と同じ年格好の子を実子のように愛し、曹叡も実母と信じて懐いたんじゃないか。
―更には、その曹叡を生んだ女(≠甄氏)は実は曹操とも通じており、
実際のところ「曹丕の子か袁熙の子かわからない」んじゃなくて「曹操の子か曹丕の子かわからなかった」
だから袁紹や劉表の件を知る曹丕も曹叡を皇太子にたてるのを最後まで躊躇した。
という…小説ですな(笑)
140 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 00:32:30 ID:V71BP8q90
実は漢の武帝の母も景帝の手がつく前に結婚してて娘までいたという
141 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 00:59:20 ID:AhIcBA8nO
陳寿も同様の意図でそう評したのかな?
だとしたら陳寿は正統王朝の皇帝の出生についてなのに随分気遣いに欠ける。
142 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 01:12:31 ID:V71BP8q90
>>141
気遣う必要ないから・・・
下手をすると嬉々として書いた可能性だってある
「うはw曹叡36歳wwwwギョウ陥落から10ヶ月も経ってねぇwwwwww魏オワタ蜀ハジマタ」
143 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 02:00:35 ID:e7vWKwoU0
冗談半分で袁熙の子じゃないかと書いたら紛糾していた
144 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 12:15:44 ID:+L/d1+nJO
>>137
>>自分で自分を烈「祖」と決める(祖は普通創始者だけ)
>>土徳王朝なのに元号「青龍」

この辺は魏が400年続いた漢の次の王朝であるということが関係あったりするかも…
うまく言えないんだが

>>143
面白いし他に話題もないからいい
145 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 13:02:55 ID:G5bCORO60
>>144
その辺が漢→魏からさらにもうひとつ先の王朝がすることだからもめてるんだろ
「上手く言えないんだが」と言われても、何を言いたいのか察するのが不可能すぎる。
146 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 13:44:05 ID:+L/d1+nJO
>>145
魏の正当性が磐石とはいえないために、曹操曹丕の流れや漢から継いだはずの徳を正面きって正当化できず、
むしろ禅譲=纂奪を行なった魏とこの先の魏を別のものとして置きたかった

とか
推測っつか妄想だが


しかし元号や廟号は皇帝一人が完全に独断で決められるのだろうか?
この頃は中央集権が確立してたから問題なかったのかな
147 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 20:03:20 ID:V71BP8q90
>>146
最終決定権は皇帝にあるが、おかしなことをすれば総ツッコミが入るか、呆れられる

当時の反対状況は不明だが、廟号について、後の時代の人はかなり違和感を感じていたのは間違いない
裴松之が言ってるように
148 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 22:44:11 ID:XHZ6oO9w0
一瞬、何のスレに迷い込んだのかとオモタw
荀?はどこ行った?
149 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/10(金) 22:46:13 ID:V71BP8q90
>>148
荀?スレは昔から脱線することが多かったから
150 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/11(土) 03:02:35 ID:c810FfD20
青龍の元号に関しては、考えすぎじゃね?とくらいしか思えん。
呉も、孫権一代の間に黄武、黄龍から赤烏とかあるけど、
自国を土徳から火徳に変える議論があったとか聞かないし。
単に当時流行りの、瑞兆を元号にしたパターンの一つにすぎないと思う。
それに、魏の次なら、当時は普通は金徳(白)と考えると思うが。

面白みの無い答えでごめんね。
151 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/13(月) 21:01:33 ID:y7alKmhZO
ブルードラゴンについてはそういう解釈が穏当だろうし、違うと断言はしない
ただ、魏の土徳を滅ぼす(禅譲なら金徳だが)木徳が青龍だというのは気にかかる点ではあるよね
152 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 15:36:10 ID:WiTGDGzJO
曹叡問題は、本紀に堂々と享年36と書かれてるのが一番の問題
曹丕の息子だからもっと若いはずだ、という以外に裴松之は享年を修正する論拠を示しておらず、また実際に修正できる論拠は他に見当たらない
つまり誰が父親かを抜きにすると、享年36ってのは動かしようがないんだよね
凌統のように他に論拠がないんだから
それなのに裴松之を無批判に受けて享年を修正する人がいるが、これはよろしくないな
153 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 21:49:52 ID:cqIYlVdU0
>>151
禅譲なら相剋で、放伐なら相生なんて決まりはないよ。

>>152
正史の本紀の本文だから絶対正しいという理屈はどうだろう?
陳寿が間違えた可能性だってあるし、
後世よくあるように、写本を繰り返す間に誤りが生じ、
裴松之の時代にはすでに三十六となった可能性だってある。
同時代の他史料や、先行する史料の記述での対比が行なえなければ、そこのとこは断定できないまま。

ところで、あくまで裴松之の段階では数字の問題として扱われている。
袁熙の子かも?みたいな父親を疑う説はいつごろから発生したのだろう?
155 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 22:36:41 ID:z2I6lL340
>>153
>正史の本紀の本文だから絶対正しいという理屈はどうだろう?
それは誤解しているよ。
「正史の本紀の本文だから絶対正しい」んじゃなく、本当は「三十六」ではないという事について合理的な説明が出来る根拠がないのに本文に明記される文を改変すべきではないのではないか、ということだよ。
あなたの言うとおり疑い出したらキリが無いんだから、正当な反証がない限りできる限り原文を尊重した方がいいだろう、ということ。
曹叡の件の場合、「まだ生まれているはずがない」というのがその唯一の論拠なわけだけど、それは無条件に信用し本文を改変できるほどの根拠と言えるのだろうか?
156 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 22:56:42 ID:cqIYlVdU0
>>155
なんか問題がおかしくない?
原文を尊重すると辻褄あわないように見えるから、
裴松之をはじめ、後世の人間が
年齢が違うだの、暦法の問題だの、あれやこれや考証してるわけで。
裴松之の指摘がそのうちの一仮説であり、絶対ではないのは当たり前だけど、
それを認めず本文を尊重しろというのなら、
三十六で整合する説明を示すべきじゃないかな?
それなくして「とりあえず正史に三十六とあるんだから、それに従っとけ」
と言うだけでは、正史の盲信と同じであり、裴松之を無批判に受け入れるのと同じであり
正史への史料批判・考証を行なってきた歴代の学者への侮辱だと思うよ。
157 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 23:15:54 ID:cqIYlVdU0
結局は、曹叡の出生の問題は
三十六歳という享年を疑いないものとするなら、
曹叡の出生の時期、及びその当時の事実関係を疑うか、暦法の問題を疑う。
曹叡の出生の時期を疑いないものとするなら、
曹叡の享年を疑わざるをえない。こちらが裴松之の立場ね。

どちらも正史の特定の部分の記述を前提にして、問題に対する仮説を展開してる点には変わりはない。
それを裴松之側だけ、一方的に事実無根の妄説のようにあつかうのは感心しない。
158 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/14(火) 23:38:03 ID:z2I6lL340
>>156
>>157
確かに一方的であり裴松之らへの一種の侮辱であるのは事実だね。不快であるなら妄言と思ってスルーしてほしい。
俺の頭にあるのは、「ひとまず裴松之たちの敷いたレールから外れて考えてみる」だから、レールを敷いた裴松之を無視するのはまちがいないから。

そうしてどう考えても裴松之の言うとおりにしか捉えられそうにないとき、初めて裴松之の説に戻るんだよ。
曹叡の年齢問題については確定のしようがない、というのが俺の現時点の中間報告だけど。

本紀によると「年十五」で武徳侯に封じられていて、常林伝注の魏略吉茂伝によると吉茂は建安22年以前に武徳侯の属官(庶子)になっている。
この武徳侯が曹叡だとしたら曹叡は建安8年(203年)以前に生まれていたことになる・・・
とかもうなんだこれはと。
(もっともこの武徳侯が曹叡だという確実な証拠もないけれど)

裴松之が建安10年(205年)生まれのはずだから34歳だというのも実は腑に落ちない(当否の問題ではなく)。
景初元年に1ヶ月飛ばした分をわざわざマイナスして、景初3年(239年)正月に死んだ曹叡の享年を34歳にしているようなんだが、なぜ素直に35歳と言わないのだろう?205-239なら数えで35歳だよな?裴松之はなんで34歳と言ってるんだろう?俺は未だに分からない。

分からないことだらけで面白いが結論の出しようはないのかもしれない。
159 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/15(水) 00:20:03 ID:bok1ENGP0
>>158
>曹叡の年齢問題については確定のしようがない、というのが俺の現時点の中間報告だけど。
なんだかんだ言ったが、この結論に関しては俺も同じ。
つーか、調べれば調べるほど、何が正しいやらさっぱりわからなくなるw

補足すると、文帝紀には延康元年(220)に曹叡が武徳侯に封じられたとある。
これでは、常林伝注の建安22年以前、武徳侯(曹叡)の庶子となったことと整合しない。
さらに、常林伝注の年代比定のポイント建安22年の吉本の逮捕だが
武帝紀ではこの事件は23年正月。

とまあ、さらに何が何やらな状況。
なので、明帝紀の享年記述のように、特定の一つの記述のみを尊重しようという立場には
とても立てないというのが、俺の考え

裴松之は暦法の問題を絡めて説明しており、
これは後の学者の間にも諸説紛紛だが、さすがに暦法問題までは俺も把握しきれん。
160 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/15(水) 00:33:38 ID:bok1ENGP0
正史本文の記述だけに問題を絞ってみても
?文帝紀には延康元年(220)に武徳侯
?明帝紀には15歳のとき武徳侯
?明帝紀には享年三十六
?と?から220年に15歳とすると、239年には34歳となり、
既に正史本文中から数字が整合していない。
ここからも、享年への疑問が生まれるのも当然と思う。
161 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/15(水) 00:38:21 ID:g4H8qp/F0
関係ないが父の喪中にいたして生まれた子の年齢を偽っていたという事例(劉宋の文帝−元凶劭)があったのを思い出した

こんなに生没年に幅がある皇帝って他には漢の高祖くらいじゃねえのか
162 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/15(水) 04:01:44 ID:b7GE9rhD0
ちなみに、集解の盧弼は、延康元年が間違いだと言ってるね。
163 :1622007/08/16(木) 17:35:55 ID:ZRrgbhhw0
上のは記憶にたよって書いてるので微妙に違ってるかもしれない。
あとで集解探してその部分引用しようと思ってたんだが、
なんか、見つからないんだよね。どこ行ったんだろ。
164 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/16(木) 20:41:29 ID:tpOZvH6a0
>>163
廬弼の意見では、
文帝紀の黄初元年以前のことは、以前のことを追述してるものが多く、
延康元年の出来事ばかりだとは限らない。というもの。

正直言って、いくら廬弼先生でもちょっと苦しい説明に思える。
その後、常林伝注の記述と、15歳で武徳侯なら辻褄合うといってるので、
こちらの説を取るための強引な辻褄あわせに思えなくも無い。
「多く往時を追述」してるのが実際どの程度あるのだろうか?
そこまで調べるのはめんどくさいですw
165 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/16(木) 21:01:12 ID:l6IsoSAz0
そうか、裴松之は文帝紀・明帝紀の武徳侯関係記事の34歳説に合わせるためにむりやり34歳にしてるのか。

>>164
廬弼は曹叡の享年は36歳かそれ以上という説ということ?


注釈者もみんな無理をしてる気がするなぁ。
166 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/16(木) 23:56:21 ID:VRgr/+gG0
果てしなく昔の話を蒸し返してで申し訳ありませんが、
>>76
今まで荀?の行動に矛盾を感じていましたが、そういうことだったのですか。

そういえば荀一族(特に荀攸)は、荀?が処断されるのを黙ってみてたのでしょうか。
別になにかできるわけではないと思うのですが・・。
不安になって他国へ出奔しようとか思わなかったのでしょうか。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/17(金) 14:50:51 ID:4bu7vHS10
>>165
いや、裴松之は武徳侯関係の問題には言及してない。
あくまでギョウ陥落の時期を問題視し、それをもとにした計算。

廬弼は三十六歳説。
常林伝注の記述より、建安23年に武徳侯になったとし、その時15歳とすれば、
36歳で辻褄あうという意見。

ただ>>165さんの仰るように、実際これは
「建安23年以前に」武徳侯になったであろうと推測できるに留まり、
23年に限定するのは、やや強引。
まして、吉本の事件は23年正月。年内とするには詰め込みすぎな気が。
また、裴松之の指摘する出生時期の問題は未解決のまま。
あくまで、数字の辻褄あわせに終始した結論のように見え、かなり苦しい説に思える。
168 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/17(金) 14:56:28 ID:4bu7vHS10
もともと、各記述の数字が上手く整合しないのだから、
それに結論を出そうとすると、やはり取捨選択し必ずどこかを否定しなければならず、
無理のあるように感じる結論になりがちなのは仕方ないように思う。
「よくわかんねえよ。無理」と諦めるのが、一番無理が無い気がw

>>166
いや、こちらこそ、延々と関係無い話で脱線して申し訳ないです。
是非本筋の話題に戻してやってください。
169 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/19(日) 01:11:42 ID:rVtFnv7L0
>>166
まず荀?処分はかなり迅速に行われたようなので、荀攸たちには介入する隙もなかったんじゃないかと思う
それにあくまでも表向きは「病死」なわけだし、陸遜のように詰問などをされたわけでもないから

曹操の側も荀攸たちには気を使っただろうし、荀攸たちも別に曹操の魏公封建には反対していなかったようなので、この件は「荀?一人で手打ち」だったんだろう
170 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/19(日) 10:45:11 ID:IuOfBlAG0
レスが遅くなりましたが、

>>168
いえいえ。とても興味深い話なので続けてください。
自分のほうがちょっと微妙な話題でした。もう語り尽くされていたような話を引っ張り出してすみません。

>>169
なるほど、そういうことでしたか。ありがとうございました。
感情論になってしまいますが、荀?の処分は悲しいです。どうしても殺さないといけなかったんでしょうね・・・

171 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/19(日) 21:41:38 ID:RWKu4AlEO
>>170
いやいやこのスレではあなたの話が本流ですよ
我々のジュンイク像も仮定のものでしかないですが、それに沿って考えるなら、上奏文の決裁をシャットアウトできてしまう尚書令にいるから、曹操最大の懸案事項に反対した以上は曹操としては制裁しないと政策的にも困るし示しがつかない
ただ解任しただけでは罰にならないし、ジュンイクのコネクションは地位が無くても脅威になりうる
あからさますぎない、それでいて分かる奴には分かるような形で、しかも迅速にジュンイクに制裁を加えようとしたら、あんなイジメ殺すようなやり方になったんじゃないかと
魏公の件に反対してしまった時点で、ああいう末路も仕方なかったというところでしょう
172 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/23(木) 00:39:04 ID:ZfDlD8m7O
李存勗と張継業でも似たケースがある。

ことここに至れば、自ずと行き着く場所がある。
これ以外、道はなかったと思う。
173 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/23(木) 20:47:25 ID:oZtPJHoZ0
誰が書いてたか忘れたが、曹操とジュンイクは主君と家臣ってより
共同経営者って性格が強かったのが悲劇だったって言ってたな。
174 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/23(木) 23:01:03 ID:hRZTRU6c0
>>173
孫権は周瑜を共同経営者として尊重したが周瑜は徹底して孫権を立てた
孫権にとって張昭は自分より偉い「目の上のたんこぶ」だが張昭は共同経営者ではない(実権はない)から排除する必要はなかった

曹操は荀?を最高の腹心として信用したが荀?は自分を曹操の共同経営者と思い曹操との温度差を生んだ
175 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/26(日) 11:05:20 ID:gAhYfgcL0
曹操の後継者問題では、どっち側だったんだろう?
長男が曹植と仲がよかったらしいけど
176 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/30(木) 16:39:12 ID:T1Ta49cU0
息子が曹植と仲がよくても、荀?本人自体は直接的に
どちらが・・・という記述はない様に思われるが、
直接的ではないにしろ、父の腹心だからと遜った曹ヒに
んな必要ネーヨとか言ったりしてるよね。>大まかに言うと。
それ以外にも曹ヒをたててる記述があるのを文学スレでみた。


明帝の出生についてなんだが、十月十日と言っても
実際問題予定通りに生まれるわけでもないし、
この場合の一月というのは4週間(28日)を指して言うので
実際妊娠した事がないヤローが言うのとは若干差が生じるように思う。
実際自分は7月頭に妊娠して3月の後半に出産した。
177 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/08/30(木) 22:15:17 ID:fo7YO0os0
>>176
三国時代の十月十日も一ヶ月=28日で計算しております

曹叡のことは、DNA的に誰の子供かが問題じゃあないと思うんだよね
「当時、または後の世に、曹丕の子供ではないのではないかという疑念を持たれていたのではないか?」という点が問題
裴松之が36歳説を否定する注を付けること自体が、当時のそういう疑念の存在を裏書しているようにも思うんだが
179 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/05(水) 23:16:10 ID:frz28qW80
>>177
しかし、裴松之は「曹叡は曹丕の子であるのは間違いない」という前提で、
数字の問題にあたり、整合しようとしているように思える。
自分でもありえないとツッコミいれるような、ありえない異文でも紹介する裴松之でさえ
何もその手の話を紹介してないわけだし。
陳寿と違って、魏に遠慮する必要も無い立場だし。
裴松之の時点では、まだそうした疑念は特別持たれてなかったように思える。
こうした疑念を直接書いた文って、どこら辺までさかのぼれるか、わかる人いる?
集解の廬弼の時点は確実だが、これじゃ全然古くないよね。
180 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/06(木) 03:21:34 ID:fPxGIqbd0
そもそも即位の時点まで、高官等の中で誰一人として、曹叡と面識が無かったんだよな。
そこで御歴々が劉ヨウに「帝はどんな人だった?」と聞いてる時点で異様ではある。
181 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/06(木) 13:03:35 ID:UpfMxMzu0
盧弼って、曹叡の父親を疑ってたっけ?
そんな記述は見たことがないんだが…。
183 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/15(土) 03:49:41 ID:+UvLZgUN0
行動自体は王允と似ているが、旬イクは漢の忠臣か否かを盛んに論議されるよな。
やはり齎した結果が結果だけに、ということか?
184 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 07:55:59 ID:IoOHKoZs0
こうして見てみると
純粋に天下泰平の志をもった人物っていたのだろうか
悪いとはいわないが皆保身が転じた志のように思える

所詮私達が漫画や小説で触れる志は絵空事なのかな
185 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 11:36:17 ID:UtD0P9k50
あくまで「天下泰平」に拘るなら、曹操、孫堅あたりは確実にそういう志を持っていたとは思う。
ただ、漢朝輔翼という点では断言できないけど。
この二人は関東の諸軍が立ち上がった時に、敢えて自ら董卓を討伐しに行った者たちだからね。
186 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 12:28:02 ID:uvNkcWFTO
そもそも後漢末の状況から天下統一(泰平)をもたらすことと、漢朝を輔翼することは、矛盾を孕んでいるからね
あの状況から天下を統一した者の方が、天下の混乱をもたらした劉氏より天子にふさわしいという世論になって当然で、そうならないとしたら統一を果たした者が粛清されているという事態くらいしかない
皇帝の血筋は実力主義で、決定的な問題があれば交替してしかるべきというのが基本だから

当時、天下を統一しようという高邁な志を持った者は少なくなかったと思うけど、漢を復権させようと本気で考えていた者は幾人いたことやら
187 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 13:35:48 ID:39L4Iwvx0
あそこから漢が復興するとか、足利義明が室町幕府を復興して全国を支配するくらいありえねぇしなぁ。
正気の沙汰じゃないね。
188 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 18:55:51 ID:HYj6Bp/x0
>あの状況から天下を統一した者の方が、天下の混乱をもたらした劉氏より天子にふさわしいという世論になって当然で、
そういう考えは200年前後、つまり袁紹が消えたあたりから顕在化するのであって、少なくとも李カク等が牛耳ってたときは
まだ漢再興を志す者が多かったはず。曹操然り劉表然り。
だから「後漢末」の群雄とその臣下の心の多くは、ある時期まではかなり親漢派だったと思うね。
189 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 19:43:44 ID:uvNkcWFTO
袁紹以前は統一しそうな勢力自体がなかったからなあ

ただ、皇甫嵩を推す者がいたり、袁術が即位したり、漢の天下が終わったという認識は李カク時代あたりにはけっこう広まりつつあったと思うよ
190 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 20:55:56 ID:h7SRG6bC0
もっとも、この王朝も長くないと感じていた者もそれなりにいたようだけどね。
曹操の若い頃のエピソードにもある。
ただそれが一般認識になるまでは少なくとも黄巾まではまたないとないだろうな。
191 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/18(火) 21:20:46 ID:4nT5tXdt0
司馬懿も曹操の呼び出しを最初に拒んだ理由として
漢朝の命運が尽きそうだから、と言ってたな

これだと当時の司馬懿は曹操をあくまで漢臣と見ていた事になる
忠臣かどうかはともかく
192 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/19(水) 02:09:10 ID:xeRnpOb2O
>>191
なんかおかしくない?
司馬懿が曹操に仕えようとしなかったのは、漢を衰微させている元凶の曹操に屈するのが嫌だったからじゃないの?
193 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/09/21(金) 20:37:14 ID:bZK4d3C+0
>>190
黄巾の乱を待つまでもなく、僭号の賊は桓帝の辺りから結構ちょくちょく出てきてたし、
黄巾の乱の後でも、士大夫層はまだ漢朝の復興を本気で考えてたと思うよ。
本格的に漢朝もうダメぽの論調になったのは董卓のころじゃないかな。
黄巾の乱だと、まだちょっと中途半端な感じがする。
194 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/01(月) 14:40:58 ID:lIjTFCWk0
董卓も十常侍に投獄されてた清流派の名士らを解放してるしな。
その瞬間までは董卓ですらも漢の復興を考えていたろう。
そいつらが董卓を下賎の者と扱い冷遇さえしなければ、或いは。
195 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/02(火) 02:07:22 ID:iMNUDUvK0
小説に「荀?」ってのがあるけど読んだ人いる?
196 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/02(火) 21:45:12 ID:ssOLGis9O
>>194
漢の復興を考えたというか、新王朝を考えるほど乱れてなかったというか…

その意味で関東の蜂起勢がgdgdになったのと関中が王允と李・郭の戦いでメタメタになったのが「漢だめぽ」を天下全体に示してしまったという点では大きいと思う
関東については、劉虞が皇帝として立っていたら統率が取れていた気がするんだがな
197 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/02(火) 22:56:10 ID:wbUT2GP40
>>195
>>97の? 読んだけどパっとしなかった。
198 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 05:02:43 ID:MgWGRG98O
まったく些細なことだが後漢書読んでいて気付いたので書き込み

後漢書の方では建安12年の加封に伴って曹操が荀イクに与えようとした地位は『正式な(尚書令の)地位』(原文『正司』)となっている
だが魏書の方では『三公』(原文も『三公』)になっている


尚書令と三公って全然違うと思うんだが

単に後漢書の和訳の間違いかと思いきや李賢注にも
「守尚書令から尚書令に正式に叙任させようとした」
と書いてある


12年間も「尚書令代理」だったというのも変な話だとは思うが、
確かに正式に尚書令になったのがいつかはどこにも書いてない

尚書令代理から正式な尚書令になりたがらない理由もよくわからん

なんとなく腑におちないなあ、というだけの話なんですが
199 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 05:52:36 ID:kaE5WIQD0
『魏志』には「太祖欲表?為三公、?使荀攸深譲、至于十数、太祖乃止。」とあって、
荀?は三公にはなっていない。だから尚書令にしたのかも。
ただそれでも、
>12年間も「尚書令代理」だったというのも変な話だとは思うが、
これの理由は分からん。
200 :名無しさん@お腹いっぱい。2007/10/04(木) 12:16:28 ID:cihYbVK9O
「正司」は元々は「三司」だったのかもなあ
それなら三公のことだ

尚書令の「守」を取るのを辞退するというのも一応謙譲を表してはいるが、あまりに微妙過ぎる
ずっと一名空席だった三公にしようとした、というほうがすっきりするよね、ジュンイクが辞退した理由も含めて


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   中国英雄板自治スレッド No.4   【東邪西毒】 射雕英雄伝 【南帝北丐】