【なんでも】六角派が語る武侠ドラマ【雑談】【みんなで】 武侠小説創作 【作ろう】

2010年12月27日

【風林】甲斐武田家総合スレ【火山】

1 :人間七七四年2008/12/07(日) 06:59:06 ID:e0UDacew
類似のスレが分散すると、過疎ってしまうので
武田信玄公を中心として、武田家全体の話題を扱うスレとしてお使いください
武田二十四将や甲陽軍艦、上洛戦までカバーしますので、類似過疎スレからの誘導をお願いします。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」
その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し


4 :人間七七四年2008/12/07(日) 09:29:23 ID:nzfOPFsZ
煽りや荒らしは山の如くスルーすべし。
5 :人間七七四年2008/12/07(日) 12:44:01 ID:g2+S2FV2
こう見ると武田ってホント人材の質も量も悪いよな
一代に使えた24人じゃなくて三代に渡って掻き集めた24人だもんな・・・
なかには信廉や勘助とかガッカリモノまでいるし
香坂なんてホントに性欲処理係意外たいした働きしてないしな
6 :人間七七四年2008/12/07(日) 14:06:40 ID:O5b0mAmz
>>5
香坂は普通に北信濃最前線をまかせられて見事にこなしてるし
上杉領土にも踏み込んでる。
3代にわたってかき集めた、じゃなくて普通に信玄時代に仕えて活躍した将なんだけど。
その活動時期が信虎時代や勝頼時代に入るのもいるけど、
そりゃ人間の寿命が一定じゃないんだから当然。
信廉も最後を除けば結構頑張ってるし、勘助も悪くはない。
他のメンツも結構なもんだし。
というかあんた武田にこの24将以外にいないとでも思ってる?
多数いる将の中で有名な将を羅列したのがこの24将なわけで。
7 :人間七七四年2008/12/07(日) 18:22:03 ID:xlxy6taV
>>6
>>4
8 :人間七七四年2008/12/08(月) 00:30:20 ID:E2kkw4xG
晴信が親父を今川に追放した事や
その後の武田の治世は甘利や板垣の主導であって
晴信は最初傀儡だったって本当?
10 :人間七七四年2008/12/08(月) 01:19:42 ID:zQjTiq6y
信虎の甲斐を統一って、状況からして凄いことだよな
それまで数代前の当主のほとんどが甲斐中に枝分かれした同族や
ちょっとした有力土豪たちに(無論親兄弟でもw)
命狙われて北条や今川にも攻め込まれていた弱小守護だったのに
11 :人間七七四年2008/12/08(月) 01:39:13 ID:T97I923j
曾根昌世って遅咲き過ぎね?
義信事件で息子が処刑されてる一方、若松城の縄張りに関わってみたり。
十代後半で作った息子防が二十歳で死んだとしても事件当時四十近い。
四十過ぎてから駿河侵攻での二番槍の功名、四十五位で確かな資料に初見(奉者)、五十過ぎて小牧・長久手参加、六十で若松築城。
13 :人間七七四年2008/12/08(月) 12:26:22 ID:gAGs/xGM
高坂の武将としての評価はともかく、人物評としては
肛門を掘られていたというのだけは鉄板。
14 :人間七七四年2008/12/08(月) 14:43:37 ID:71Xo6CUf
>>13

高坂〉信玄の処女を奪った強者
15 :板垣繁保2008/12/09(火) 09:00:50 ID:2e1IlITY
ふん。甲斐の庶流の話題ばかりじゃな。我が主は若狭本家の代官として安芸分郡守護を貰い受けておるぞ。
16 :人間七七四年2008/12/09(火) 11:41:39 ID:myIYBpc4
>>5
だいたい二十四将って、甲陽軍艦や追随した軍記物語などをもとに
江戸時代の人間が好きに選び出したものなんだが。
人選が確定されていないのは、単なる「絵師の好み」だったりする。

「四天王」とか「四名臣」なんてのも後世の括りだし、
そんなのを書き込んだ>2も少々痛い。
17 :人間七七四年2008/12/09(火) 17:13:02 ID:a1pacBuL
武田信虎ってなかなか面白い人物だね
戦上手なだけでなく外交感覚も優れていたり有能な浪人を招き入れたりと
信長タイプの人間だったようだ
19 :人間七七四年2008/12/09(火) 22:38:25 ID:+F7LUfKK
むしろ、人材不足だから子飼いに名跡を継がせることが出来た。
国人一揆みたいな家では上手いやり方じゃね?
何せ集権化を図った信虎さんは追放されて勝頼さんは離反されまくりですから。
20 :人間七七四年2008/12/09(火) 22:56:09 ID:16u2VHis
そもそもなんで人材不足が前提になってるんだ。
特に理由があるとは思えないが。
十分人材のいる家臣団では。
21 :人間七七四年2008/12/09(火) 23:04:08 ID:Mo7j4cnl
>>20
揃いも揃って信長におびき寄せられてアボーン
「勝頼様お待ち下さい! これは罠ですぞ!」
と、誰も言わなかったのだろうか?
22 :人間七七四年2008/12/09(火) 23:15:21 ID:16u2VHis
>>21
4名臣のうち3名臣は止めた事になってるが。
残る香坂はいなかったし。
23 :人間七七四年2008/12/09(火) 23:16:57 ID:TZM+BXYD
数的な不足じゃなくて質的な不足ってことなんじゃない?
曲がりなりにも一時代に名を馳せた武田家なら
個人の好き好きで名前を列記できるが
ざっと名の上がる物が24人もいるだろうが!って思う人と
24人の中に玉石混交感が否めない人
それぞれ思うところがあるんだろうよ
例えば俺だったら最後に屁たれた信廉より仁科盛信とかの方がグッと来る
24 :人間七七四年2008/12/09(火) 23:47:43 ID:+F7LUfKK
>>21
決戦前の勝頼が長坂釣閑へ宛てた書状に「戦を危ぶむ者も居る」という記載がある。
倍以上の敵と不利な条件で戦って戦死者が1000対600というから勝頼なりに勝算有ったんじゃね?
25 :人間七七四年2008/12/10(水) 00:37:20 ID:eiKSSr2R
信寅が、山縣や内藤父など他にもいるがそいつらを殺さなかったら、もっと人材がいたし。

まぁ武田の滅亡フラグは既に立ってたがね
26 :人間七七四年2008/12/10(水) 03:19:57 ID:OiIi2q8D
戦を危ぶむ者って誰だったんだろうかね
通説どおり三名臣達か?以外にも戦線離脱した穴山達か?
27 :人間七七四年2008/12/10(水) 09:44:57 ID:+hq2/+Ss
まぁ四名臣も猛将かもしれんけど、鳶ヶ巣山砦をむざむざ落とされてるんだし、戦術的な着眼力は酒井のほうが上だったって事は確かだわな
一軍を任される高坂がそこにいれば変わった結果になってたかもしれないけど、他の三人は勇はあっても智ではそれほどではなかったんだろうね
28 :人間七七四年2008/12/10(水) 11:56:19 ID:3OF4aKdZ
お前ら漢字誤字だらけだぞ 信寅やなく信虎 香坂やなく高坂 山懸やなく山県 武田家語る資格無し!ちなみに俺は信繁ファン
30 :人間七七四年2008/12/10(水) 12:56:45 ID:MHeUdj01
>>27
意味が全くわからない。
身分も立場も異なる四名臣(そもそも後世に作られたもの)を一緒くたに語る意味が不明だし、
酒井と彼等では身分も属する家も自軍の兵数も戦場の条件も異なる。
何の比較にもならない。
31 :人間七七四年2008/12/10(水) 13:31:20 ID:+hq2/+Ss
>>30
身分とか家とかではなく、長篠の合戦の一連の流れの中で鳶ヶ巣山砦は重要な要であって、それを攻略する提案を出し実行したのが酒井であり、山県馬場内藤はそれを読めずにいたって事なわけね
32 :人間七七四年2008/12/10(水) 21:31:57 ID:3dYazqb2
189 名前:名無しさん@九周年[] 投稿日:2008/12/10(水) 19:05:57 ID:fsYTNfnj0
自民学生部は速攻で党本部に連絡しろwww
http://www.aso-taro.jp/lecture/kama/2005_6.html

麻生オフィシャルサイトにまた総理のお馬鹿ネタがあるぞwww

>また織田信長と武田信玄の姉川の合戦で武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた
>歴史も知っていたと想像されます
33 :人間七七四年2008/12/10(水) 21:53:25 ID:VCJxRnQu
酒井ごときがそんな進言をするものか。信長が作戦を授けたのだ。
信長公記にはちゃんとそう書いてある。
34 :人間七七四年2008/12/11(木) 06:54:17 ID:NGCa2DeF
山県馬場内藤が読めなかったってそもそも何を根拠に・・?
勝頼の目的が決戦の勝利なのだから只でさえ劣勢なのに更に兵を割く愚を避けただけとも考えられる。
そもそも資料が無いのだから何とも言えないとしか。
35 :人間七七四年2008/12/11(木) 08:16:47 ID:hbh9Wjbh
>>34
鳶ヶ巣山砦を取られたという事は武田としては引くにしても横っ腹から酒井、後ろから織田の大軍の追撃を受ける最悪の形で退却しなければならなくなった
状況から判断するに勝頼はこの窮地を脱するためにまず兵を割いて長篠城と鳶ヶ巣山砦にあて、残り12000で後方の織田に死に物狂いで当たり、ひるませ、織田軍が崩れた所を迅速に退却するつもりだったと推測する(俺はね)
それなら山県等の決死の突撃も理解できる
そういう形を作る案が信長から出された物にせよ酒井が提案した物にせよ、武田の家臣達はその時まで気付けずにいたわけだ
君みたいにね
鳶ヶ巣山砦なんて大して重要じゃないやって
36 :人間七七四年2008/12/11(木) 09:56:49 ID:oQiKbVkQ
重要性は確かに無いが
>>28
香坂でも山縣でも信寅でもおk
37 :人間七七四年2008/12/11(木) 12:48:58 ID:NGCa2DeF
だから、気付いていたか否かというのは資料が無いから「わからない」としか言い様がない。
気付いていなかったか、気付いていて献策したが受け入れられなかったか、気付いていながら献策しなかったか。
それは誰にもわからない。
そんな不確定の事柄を元に戦術能力を語るのはおかしい、というのが私の意見。
別に君の推測には文句は無い。
38 :人間七七四年2008/12/12(金) 00:09:37 ID:SG4fwu6J
織田・徳川連合軍は長篠の救援に来たはずだよね。
とすれば、兵力が半分にも満たない勝頼にとって最良の策は、
織田軍の前進を阻みつつ、長篠城を攻略してしまうことだろう。

弾正山で陣地を築き始めた信長に対して、少ない兵力で攻撃をしかけても、
まず成功しない。だが、逆に敵の正面で陣地を築いて防衛に徹すれば、
数倍の敵でもしばらくは防げる。信玄台地にも相当の築陣跡があるから、
勝頼は基本的には守りを固めようとしていたはずだ。

信長・家康の本隊(合計3万8000?)に対応するには、守りに徹しても3分の1は欲しい。
長篠に500人籠ってるなら、攻撃を継続するには3倍以上欲しい。
当時戦理論があったとは思えないが、信長の正面に12000、長篠包囲に2000という数字は妥当なものだ。

鳶ノ巣山にも1000残してるから、迂回攻撃の可能性を全く考慮していなかったわけではないだろう。
ただ、迂回攻撃は無いかもしれないし、あったとしてもその兵数までは正確な予想はできない。
とすれば、少ない兵の中から、確実なところに出来るだけの兵を割くというのは、判断としては間違いじゃない。
結果として、失敗だったとは言えるけどね。

強いて言えば、撤退という選択肢は無かったのか?ということだが、大軍が出てきたから撤退するでは、
信長との差は開く一方になってしまうという、苦しい事情も、あったのだろう。
39 :人間七七四年2008/12/12(金) 00:12:58 ID:SG4fwu6J
>>28
信濃の名族として知られてるのは香坂氏で、春日弾正虎綱が継いだのは
香坂氏だという主張もあるのだけどな。「香」と「高」がくずし字だと区別がつきにくいので
高坂と間違って広まったんじゃないかという理屈。
40 :人間七七四年2008/12/12(金) 23:51:55 ID:m+ptNngz
>>35
実際鳶の巣砦は主力戦闘が始まったのとほぼ同時くらいに攻略されてるから
君のいう鳶の巣砦攻略が山県達の突撃の前提というのはありえない。
武田は武田で織田の主力に向かって主力を展開させ、勝頼は攻撃を決断した。
これは無謀だったし反対する家臣がいた事は勝頼の書状にもある。
山県達が反対していて不思議じゃない。
そして撤退についてだが、鳶の巣砦が攻略された後も穴山などは余裕で撤退してるから
主力戦闘が退く道確保というのはやはり厳しい。
鳶の巣砦はぶっちゃけ主力戦闘においては大したことがない。
この砦攻略の意味はあくまでも長篠城救出にあり、信長としては武田主力をひきつけてる間に
長篠城を救出し、後は武田がひけばまずまずの戦果と思っていたのではないだろうか。
武田主力が攻撃を仕掛けてきた時も想定して堅牢な陣地をつくり鉄砲を配備し
三倍の兵力を入れた。これなら武田主力が来ても十分対処できる。
かくして保険をかけ、長篠を救出する手筈も整えて武田の出方を待った。
そして勝頼は(どういう理由かはともかく)攻撃を決断した。そんな所だと思われる。
41 :人間七七四年2008/12/12(金) 23:54:59 ID:m+ptNngz
>>38
ただ武田はこの時、信濃や関東に兵を残しており
とても兵力をフルに活用した状況とは言えなかった。
よりよい戦略状況を整える可能性があった事を考慮するなら
撤退はおかしくなかった。
42 :人間七七四年2008/12/12(金) 23:59:54 ID:ErOV9v/5
勝頼は後退のネジを外していた――かどうかはともかく、
相手が大軍だから撤退というのでは、織田との差が永遠に埋まらないのも事実。

>>40
勝頼が「攻撃を決断した」のは、鳶ノ巣山を落とされて以降だと思うが?
書状云々は、そもそも大軍を相手に戦略目標の達成を目指す事自体についての危惧だろう。
いくらなんでも、3倍の敵が陣城に拠っていたら、普通は自分からは攻めかからないし、
実際、勝頼は信玄台地で相当の陣地を築いている。
43 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:17:24 ID:DaRbtptf
>>42
だからもし挑むというなら信玄が常にそうしたように
武田の遠征兵力をフルに活用できるような状況にしてから攻めるべきだったと
言っている。

信長公記では辰の刻に長篠城救援部隊が戦闘を開始し、鳶の巣砦の武田勢が敗走する所までを書き
そこから「一方信長は」と信長たちの状況と戦闘描写を描いている。
ここから見るにほぼ同時に始まったとみるべきだと思うが。
実際「前後より攻められ敵(武田)も兵を出した」という記述から
戦闘ははじまる。この「前後」の「後」が武田勢本陣に対する鳶の巣攻略部隊の
攻撃という記述はないし、武田勢本陣や後陣は戦闘終盤まで静謐を保っている。
ゆえにこの「後」は武田主力後方の鳶の巣砦に対する織田・徳川勢の攻撃とみるべきでは。
44 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:34:15 ID:BR36LTqS
>>43
武田がフル動員の時には、信長は兵を退いて、こちらが万全で無い時には
出てくるわけだよね。
信長はそうやってても、他方面に伸びてくからいいけど、勝頼は完全に手詰まり。
45 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:39:30 ID:DaRbtptf
>>44
そうでもない。
長篠の頃には徳川はもう威信も忍耐も限界に近い。
徳川自身が今度だめだった武田に寝返ろうと言い出してる状況。
武田がフル動員だからといって信長がうかつに引いて徳川を助けなければ徳川が崩れる。
そもそも徳川だけなら武田の敵ではないから手詰まりどころか餌食だろう。
46 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:40:55 ID:BR36LTqS
「前後より攻められ」というぐらいだから、勝頼が攻撃を決断したのは
鳶ノ巣山を攻められたからだろう。しかも信長公記の記述を読む限り、
後方の牢人衆は、あまり持ちこたえられずに崩されたようだ。
とすれば勝頼にすれば、前か後ろか、どちらかを倒さねば撤退すら安全ではなくなってしまった。
大軍相手に背をさらして後方の敵を蹴散らすには、残念ながら退路が狭すぎる。
寒挟川を渡れる場所が、限られているからね。
穴山みたいに後備の連中は、織田軍が前衛の部隊に食いついてる間に、逃げられたようだがね。
47 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:44:02 ID:i0mbrpIG
>>45
そういう状況で家康を攻めたなら、じゃあ信長は今度こそ出てくるはずだよね。

そういう時にフル動員しない時点で勝頼の負けだよw
48 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:51:46 ID:DaRbtptf
>>46
公記を見るなら鳶の巣砦攻防は、
まず攻撃部隊が長篠包囲部隊の一角を突破して城に入り
その後で一つになって包囲部隊に襲いかかり、それで
武田の包囲部隊が敗走してる。
これだけやるには結構な時間を使うだろうな。

さらにいうと穴山達だけでなく、勝頼本陣も戦闘終盤になってからでも撤退に成功してる
所から見て安全、とまではいかないが殿を残して戦わせれば撤退は不可能ではない
49 :人間七七四年2008/12/13(土) 00:55:36 ID:DaRbtptf
>>47
長篠の時点では戦略的に信長が優位を取ったな。
ただ条件から考えるに長篠は信長主力との戦闘になる前に全力でいけば落とせた。
そうすれば長篠も武田が戦略目的を達成できたのに。
つか信長はこれまでも武田が出ても徳川をろくに助けなかったからな。
勝頼も甘くみてたのかもしれん。
だからこそここを退いて信長との決戦をも想定できる兵を動かす時を期すべきだった。

てか論調かわってるだろあんた。
50 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:06:21 ID:hW6h+WsQ
配置で言えば山県、馬場、内藤、真田、土屋、原、甘利、横田、小幡ら
討ち死にした連中の大部分は第一線の配置で、
勝頼は大将だから第二線、穴山はさらにその後ろでしょう。
結局、前線の主力部隊が敵の追撃に遭ってる間に、勝頼は逃げられたわけだ。
もっとも主力が壊滅したんだから生き残っても再起は・・・・
51 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:10:56 ID:hW6h+WsQ
>>49
長篠を落とさないで吉田城まで南下したりしてるからね。
基本的には家康の釣り出し狙いでしょ。
思った以上の大物が釣れてしまったが、じゃあどうするか?

そりゃ、勝負でしょう。
こちらが二万五千でも、信長が長島攻めの規模でくりゃ同じ事。
52 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:16:01 ID:UXhmdOQB
ところで、四列縦隊で一秒に四人ずつ城門をくぐっても、全員入るまで17分かかるから、
長篠城を包囲する武田軍を相当に退かせないと、そもそも入城できない。
実際、鉄砲で追い払ったと書いてるし。
そして再出撃の際には、武田の陣小屋等に火をかけて回ったというぐらいだから、
既に陣地にゃ武田兵はほとんど残ってない状態でしょ。
小山田昌行は、態勢を立て直して引き返し、徳川の将を討ち取っているが。
53 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:17:32 ID:DaRbtptf
>>50
信長公記によれば
「武田勢は日の出から卯の方(午前6時)へ未の刻(午後2時)まで戦い続けた」
とある。鳶の巣攻撃が辰の刻(午前8時)だから主力戦闘は鳶の巣攻撃以前か
好意的に見てもほぼ同時。勝頼が決断したのはそれ以前だろう。
午前6時から午後2時までの8時間を武田が戦い続け、大きく戦力を失った後で勝頼は
撤退し、甲斐まで逃げ伸びてるんだが。
これなら殿を残して早めに引けば十分戦力温存して逃げられそうだが。
54 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:21:17 ID:DaRbtptf
>>51
戦力3倍で陣地にこもってる相手に正面から
完全な戦力でもないのに挑むなんて無謀そのもの。
実際壊滅だし。

伊勢長島攻めの兵力ってどれくらいだっけ?
朝倉浅井、その他との戦いを見てもこの時期の織田勢が動かし得た兵力は
武田の二万五千を大きく超えてはいないはず。
>>52
そりゃないな。
実際戦って敗走してると書かれてるし。
55 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:31:55 ID:UXhmdOQB
>>53
信長はまず先に、「足軽を近々と懸けさせ」て武田軍に向かわせているんだよ。
午前八時の金森・酒井による鳶ヶ巣山攻撃。
「前後より攻められ」て突撃を開始した武田軍。
午前六時から「織田軍が」戦ったとする記述。(武田軍が攻め始めた時間ではない)
信長公記の、全ての記述が整合する展開は、早朝から織田軍による牽制・挑発的な攻勢。
この時点では武田軍は応じず。やがて、後方への攻撃成功。これを受けて、武田軍の方針が
面前の敵への攻撃に決定。という流れしかない。

ちなみに殿を残すと簡単に言うが、鳳来寺山系が北に迫り、東に寒挟川だから、長篠の救援成功後は、
寒挟川沿いに北上するしか道が無い。殿を残すというより、主力を全員殿にしなきゃ逃げられない、
漏斗みたいな地形なんだよ。
そうでなきゃ、そもそも3倍の敵が陣城に籠るところに攻めかからねばならない、合理的な理由がない。
何もせずに背を向けてもどうせ全滅だが、仮に前面の敵に対し左翼から翼包囲でも成功すれば
勝って帰れる目がある。

信長公記は鉄砲でほとんど討ち取ったようにも書いてるけど、大須賀記は川沿いに追い詰めて
2000を討ったと追撃の戦果を強調してるし、また当時の鉄砲の機械的な精度や、信長が集めた
鉄砲衆の人数からしても、実際の戦果の大部分は追撃の成功によるものだろう。
56 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:46:40 ID:Vs0kknnC
>>55
結局は少ない兵力で信長の前にのこのこ出て行ったのが間違いですね。
太田牛一にまで指摘されてますから。残念!
57 :人間七七四年2008/12/13(土) 01:46:50 ID:DaRbtptf
>>55
それは違うな。
先ほどの武田主力の戦いについての部分を大きく抜き出して要約すると
「日の出から卯の方(午前6時)から未の刻(午後2時)まで武田は
入れ替わり立ち替わり戦い、兵を打たれ、無人になり、生き残った者は
勝頼のもとに集まった。」とある。
どう見ても武田が戦闘を開始したのが卯の刻としか読めんのだが。

その地形解釈はおかしいな。
実際かなりの兵数を持つ穴山隊は平気で逃げてるし勝頼本陣勢もこれだけ戦力を
失いながらも逃げている。
当時の書状でいうなら1000余りだぞ。討ち死には。
きみのいうように退却が無理ならこれこそありえん。

勝頼の書状によれば前哨戦で武田は織田の前哨部隊を蹴散らして進出してる。
この手ごたえから甘く見たか。
第一書状では戦闘開始以前から勝頼が決戦を志向し敵を見くびってる事があらわれている。
どう見ても決断は戦闘開始前。
58 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:01:58 ID:ukv0Sm7Q
>実際かなりの兵数を持つ穴山隊は平気で逃げてるし勝頼本陣勢もこれだけ戦力を
>失いながらも逃げている。

第一線の主力部隊が敵の追撃を受けている間に、第二線、三線の部隊が逃げられたというだけです。
信長公記でも追撃で討ち取った武将の名前をつらつらと挙げてますよ。

地形は・・・・ご自分で納得のいくまで現地を見てくださいとしか言えませんね。
大須賀記で川沿いに追い詰めたと言っている意味が、よく分かります。

討ち死にが千の単位で出るなら、負傷者はその何倍も出たでしょうから、壊滅的な敗北です。
実際、追撃で標的にされるだろう、有名武将クラスの死亡率は、他の戦に比べても圧倒的ですからね。
戦わずに退却しても、後方を抑えられた後は地形からして迅速な退却が出来ない以上、
あまり事態は変わらない。ならば正面の敵を崩せる可能性に賭けるという判断になると。

勝頼も馬鹿ではないと考えれば、合理的にはこれしかないと思いますよ。
まあ貴方は勝頼の慢心、油断を原因とみているようですから、そもそも噛み合うはずないですが。
59 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:04:08 ID:ukv0Sm7Q
そもそも勝頼は敗北後の書状ですら威勢のいい事を書いていますから、
書状とはそもそもそういうものだと思いますがね。
60 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:12:16 ID:DaRbtptf
>>58
だから何度いわせるのかね。
君のいう公記であがる武将達の中で山県は鉄砲で死亡してるんだが。
真田も撤退以前の戦死。
あの武将一覧は織田がその打ち取った武将全部というだけ。
第一線がそもそも8時間以上にわたって戦い、撤退前に信長公記では無人になり、
とまでいわれるほど兵力失ってる状態だろうに。自分が言ってる事がおかしいと思わないのか?

討ち死にが千で負傷が数倍で数千。武田勢が七千なら約半分。1万5千なら5分の一以下。
戦わずに引けば全滅とか言ってたくせに戦って壊滅してもこれだけというのが
おかしいと思わないのか?
その賭けに出た結果大損害を受け大敗してるならそれこそ普通に逃げる以上の損害が出るはず。
なのに逃げ伸びたもの多数。おかしすぎると思わないのか?
ちなみに伊勢長島第3次では信長は勝ったけど一門武将をこの戦いとおなじくらいの
人数で失ってる。

勝手に状況を無視してこれしかないとかいわないでほしいんだが。
なんで勝頼が戦闘当日以前に決戦を志向した書状だしてるのに
無視するのか?
61 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:14:39 ID:DaRbtptf
>>59
敗戦の後なら内部の動揺を防ぐために威勢良くするひつようがある。
戦う前なのにやる気もなしに決戦志向書いても仕方ないだろう。
62 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:21:31 ID:ukv0Sm7Q
>君のいう公記であがる武将達の中で山県は鉄砲で死亡してるんだが。
>真田も撤退以前の戦死。

これは甲陽軍艦等の記述を信じるなら、でしょう?
特に山県に至っては徳川勢の鉄砲で、となる。家康側で鉄砲の集中運用のような話は無いですがね。

>第一線がそもそも8時間以上にわたって戦い、撤退前に信長公記では無人になり、
>とまでいわれるほど兵力失ってる状態だろうに。自分が言ってる事がおかしいと思わないのか?

1万以上の軍勢が「無人」になっても討ち取られたのは1000人ですか?
どこかの表現が誇張だというぐらい、思わないのですか?

>討ち死にが千で負傷が数倍で数千。武田勢が七千なら約半分。1万5千なら5分の一以下。
>戦わずに引けば全滅とか言ってたくせに戦って壊滅してもこれだけというのが
>おかしいと思わないのか?

三方ヶ原で徳川勢が散々追撃を受けても死者は300とされていますね。1000も死ねば、ましては
武将クラスにあれだけの死者を出せば、壊滅と言って差し支えない損害です。
63 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:22:14 ID:ukv0Sm7Q
>その賭けに出た結果大損害を受け大敗してるならそれこそ普通に逃げる以上の損害が出るはず。
>なのに逃げ伸びたもの多数。おかしすぎると思わないのか?

戦ってから逃げても多数が逃げ延びたと解釈するなら、戦ったのは間違いになりませんね。

>勝手に状況を無視してこれしかないとかいわないでほしいんだが。
>なんで勝頼が戦闘当日以前に決戦を志向した書状だしてるのに
>無視するのか?

書状で威勢の良い事を書くのは、まさに書状とはそういうものだからですよ。
信長も決戦だーと書状書いてますけど、武田軍が攻めて来なければ決戦にならない戦術を
採用してますからね。予知能力者でもなければ、書状ってのは威勢の良い事を書くものだと
言っておくしかないでしょう。
64 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:29:19 ID:o5rYN5dX
牛一は一万人が死んだと書いてるから、その点では無人になったという表現との
不整合は無いよ。
だから無人という表現を採用するなら、死者をもっと多く見なきゃ議論がおかしいだろう。
死んだのが追撃の戦果含めて千人なら、追撃以前に無人になるのはおかしいな。
65 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:30:12 ID:DaRbtptf
>>62
山県が追撃で打ち取られたなんていうのは
2次資料で限定してるものがあったか?
家康側でも普通に鉄砲を使ってた事は長篠屏風からうかがえるが。

誇張だというならそもそもそっちのいう全滅必至だのなんだのが誇張だろう。
武田が実際8時間にもわたって戦いろくな損害もないと思えるのがどうかしてる。
無人、とまではいかなくても大きな損害が出たのは確かだろう。

それはない。300なんてどこから持ってきた。
家康側の軍記だろう。どう見ても討ち死にした武将達が徳川50人以上いることを考えれば
300なんてありえんぞ。当時の書状では三方ヶ原は千余りはおろか2千余りの死者としてるものもある。

>>63
大間違いだな。戦って逃げてさえ多くが逃げられたなら戦わずに引けば
もっと損害を抑えられた。

実際攻める側の勝頼が決戦志向を出していて
勝頼が攻めているのに何を不思議がるのか。
君の論理は時間的にもあわないといったばかりだろう。
66 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:47:56 ID:c2k0KMnl
>>65
逆に馬場美濃守以外は、明確にいつ死んだとは言えないと思いますが?
徳川軍は至って普通に鉄砲を使ったでしょうが、その場合にそもそも武将クラスを蜂の巣にするような
状況が起きたでしょうか?

>誇張だというならそもそもそっちのいう全滅必至だのなんだのが誇張だろう。
>武田が実際8時間にもわたって戦いろくな損害もないと思えるのがどうかしてる。
>無人、とまではいかなくても大きな損害が出たのは確かだろう。

8時間戦って無人になったと評されて、さらに追撃まで受けて死者1000人なら
大した損害が出てないことになりますがw
結局、自分で死者は書状によれば1000だとか言いながら、整合性は無視?

>それはない。300なんてどこから持ってきた。

三河物語。

>どう見ても討ち死にした武将達が徳川50人以上いることを考えれば

50人は多いですね。その場合、「武将」の定義とは?

>実際攻める側の勝頼が決戦志向を出していて
>勝頼が攻めているのに何を不思議がるのか。
>君の論理は時間的にもあわないといったばかりだろう。

守りから入ろうとした信長も決戦志向を出していたので、それは意味がないと考えます。
時間的には、やはり当の信長公記が武田軍が動いたのは前後より攻められたからと
書いている事がポイントです。
67 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:49:49 ID:4pFF86IM
全ての史料の整合性を取ろうとしたら
どれかは切り捨てるしかないのだから
あとは脳内で勝手にやれw
68 :人間七七四年2008/12/13(土) 02:59:01 ID:DaRbtptf
>>66
最初は鉄砲使ってないみたいな言い方をしておいてそれか…。
織田と共同して陣地で迎撃する作戦である以上
徳川もある限りの鉄砲を使って武田を迎撃したはず。
それなら流れ弾で死んでもおかしくない。

死者千人は大した損害だと言ってたのはそっちだろう。
俺も千人死ねば大した損害だろうとは思う。そっちのいう全滅必至に比べると
随分低いと言ってるんだが。
8時間以上戦い負傷や死者の多くがここで出たと考えれば問題はなくなるが。

だろうな。徳川系の軍記が300で口をそろえてるのは知ってる。
ただ死亡武将の数からいって300は絶対ない。

徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達だからな。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでることから
300はありえない。

その信長公記自身が武田が日の出から卯の方から武田が
人数をいれかわりたちかわり出したと書いてると
何度も言ってるんですが。
69 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:07:35 ID:eBE3PB5V
>>68
>徳川もある限りの鉄砲を使って武田を迎撃したはず。
>それなら流れ弾で死んでもおかしくない。

信長は、出陣しなかった武将の配下鉄砲衆を引き抜くという、封建制からすりゃ
相当に無茶な事をやってるけど、家康が何をしたか不明ですからね。
だから徳川では特別な運用が無かったと見るべきだと私は考えますし、
その場合は蜂の巣にされるのは物語的すぎやしないか?と。

>死者千人は大した損害だと言ってたのはそっちだろう。
>俺も千人死ねば大した損害だろうとは思う。そっちのいう全滅必至に比べると
>随分低いと言ってるんだが。
>8時間以上戦い負傷や死者の多くがここで出たと考えれば問題はなくなるが。

私は1000も死ねば、そして有名武将があれだけ死ねば壊滅状態だと考えます。
ただ、無人だ何だとこだわったのは(ry

>徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達だからな。

「武将」というより、討ち死にした武士階級ぐらいに見えますが・・・・?

>織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでることから

その点は徳川家では無かったことにしてるかもしれませんね。

>その信長公記自身が武田が日の出から卯の方から武田が
>人数をいれかわりたちかわり出したと書いてると
>何度も言ってるんですが。

だから信長公記が武田軍は前後から攻められて動いたと
何度も書いてるんですよ?w
70 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:13:07 ID:i9hy/L4n
基本的に私は勝頼はそんなに馬鹿じゃないだろうというところをスタートに
しているので、絶対に噛み合わない議論をしているのは、よくわかって
いるんですけどねw
それでもお付き合い頂いてありがとうございますm(_ _)m
71 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:15:20 ID:DaRbtptf
>>69
戦の将が流れ弾で死ぬのがそんなにおかしな事かと逆に不思議だが。

最初に全滅必至だとかさんざんいってたのはそっちだろう。
いい加減にしてもらおうか。

このメンツを見て本当にそう思うのか。
普通に城主クラスや侍大将クラスや奉行とか何人も入ってるんだが。
逃げ口上はやめてもらおうか。

それなら織田・徳川含めれば300はまずおかしいとそちらは認めるわけだな?

武田が動いた、の所では具体的な時間は書いてないが後でしっかりと
時間をかいてるのだからそれに従えばいい話だろう。
72 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:17:12 ID:DaRbtptf
>>70
まあ私もいい加減疲れた。とりあえず今日はこちらも切り上げる。
73 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:19:58 ID:i9hy/L4n
それ言ったら長篠で死んだ名のあるメンツからして、1000で
収まるはずがない。
長篠で1000なら三方ヶ原で300でもさほど不思議はない。

信長公記で時間の記述と描写が整合しないのだから、時間を
絶対とする理由がない。
74 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:20:29 ID:i9hy/L4n
ということで、私も寝ます。ありがとうございました。
75 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:23:44 ID:DaRbtptf
>>73
おさまるだろ。
死んだ武将10数人の長篠に50人以上の三方ヶ原。
これでどうやったら300でおさまるんだよ。
三方ヶ原で死んだメンツも結構なもんなんだが。

具体的な時間もなしに示された描写としっかり書かれてる時間で
随分いびつな判定するな。
76 :人間七七四年2008/12/13(土) 03:24:36 ID:DaRbtptf
>>74
さっきで寝たと思ってたよ。
79 :人間七七四年2008/12/13(土) 14:34:24 ID:LlKv0/vm
この板で延々と議論してるやつを見るのって久しぶりだなw
俺も気になったことでも書いてみるか。
『信長公記』を引っ張ると、こんな部分がある。

「五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり
入れ替はり相戦ひ、諸卒をうたせ、次第しだいに無人になりて、何れも、
武田四郎旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候可、鳳来寺さして、
どつ(口に童)と癈軍致す。 其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、」

「寅卯の方へ向けて」は織田軍のことだろう。『信長公記』は基本、信長や織田軍を
主語にしてる。ところが「入れ替わり入れ替わり相戦ひ」というのは、武田軍のようだ。
それなのに「諸卒をうたせ」の主語は信長だ。古文なら「せ」は「す」の活用で、
尊敬だか使役だかの意味があるはず(ちょいうろ覚え)。武田軍なら受身表現になる。
「次第しだいに無人になり」からは主語が武田に落ち着くんだけどな。
80 :人間七七四年2008/12/13(土) 19:15:53 ID:iNSKmtr5
そんな主語が頻繁に入れ替わるもんなのか?
それなら「前後より攻められ、敵も人数を出した」
というのも「信長が前後より武田をお攻めになり、
敵(武田)も兵を出した」という意味になって
戦闘開始はほぼ同時って事になるんじゃないか。
81 :人間七七四年2008/12/13(土) 19:44:17 ID:FoU/qi7A
>>79
寅卯の方角に向って戦ったのは織田軍しかいないから、織田軍の本隊は
日の出から午後二時頃まで戦ったんだろう。確かにこれは他に読みようがないな。
とすれば、「入れ替わり入れ替わり相戦ひ」の主語も織田軍で問題無いのではないか?
いくらなんでも、一回主語が武田に変わり、すぐ織田に変わり、さらに武田に変わるのは
無理があるだろう。

強いて言えば「相」が付いてるから、(織田と武田が)入れ替わり入れ替わり互いに戦ったという
意味になるが、それ以前の戦闘描写とは相容れない感じはするな。

>>80
「前後より攻められ、御敵も人数を出だし候」は、普通に読めば武田軍が攻められたという
受け身のようだが、仮に信長が前後から攻めたという尊敬に取っても、結局は
武田軍が前後から攻められたという意味になるよな。一緒じゃね?w
82 :人間七七四年2008/12/13(土) 19:56:34 ID:FoU/qi7A
長篠の合戦の、設楽原(当時は無い呼称だが)での合戦の展開については、
勝頼の戦後の書状からすれば、陣地から出撃してきていた織田軍を武田軍が
打ち破り、そのまま織田の陣地に迫ったが、織田軍が陣城に籠って迎撃したので
武田の前線部隊が敗北したということになる。
実際、信長公記の「近々と足軽を懸けられ」という記述にも、以降の描写にも合致する。

信長公記の記述だと日の出から午後2時だが、例えば大須賀記の記述だと、長篠合戦は
午前11時頃から午後2時頃まで、戦場を取ったり取られたりしたが、敵は敗北し、
織田軍と徳川軍が追撃し、滝川橋の前まで二千の首級を挙げたという展開になる。
武田の撤退開始が午後2時というのは共通だが、開始時刻は5時間も違う。
83 :人間七七四年2008/12/20(土) 21:45:45 ID:p9b3PNWx
飯富って信虎の時にも謀反起こしてるな。

やっぱり信虎の代で中央集権目指したからか

信玄の時は豪族連合に戻ったのが悔やまれるな
84 :人間七七四年2008/12/21(日) 19:46:01 ID:4DeJLgHK
戻ったというか、追放を主導した甘利・板垣・飯冨が権力の中枢に座ったというべきだろう。
ま、全員途中で退場するんだけどw
85 :人間七七四年2008/12/24(水) 17:16:55 ID:qV6gIBPu
名字「甲斐」の者が来ましたよっと。
えっと、僕の父方の家系の御先祖様は、戦国時代の山梨の武士だったらしいです。で、その当時の本物かはわからないけど、祖父母の家には兜と鎧も置いてあります。
もしかしたら武田さんとも何らかの関わりがあった可能性があるかも知れないですね?
86 :人間七七四年2008/12/24(水) 18:09:18 ID:KtsBv5LP
>>85
苗字は現代においてあまり信憑性ない。
好き勝手につけた奴らもいるし
そういう奴等は好んで有名な家の名前の苗字を名乗った。
武田なんかは人気だから
腐るほど、由来があった!とか言う人いる。

あと鎧兜は信頼性があまりないかもしれない。
鑑定書を偽造して
あたかも本物のように見せかけて売る手法は昔からあって
今でもヤフオクで腐るほど見かける。

バブル時代とかに
戦国時代や幕末の鎧兜や刀の骨董品が
アホみたいに売れたから、
その辺りから更に偽物が沢山でたんだろうけど。
なかにはもちろん本物もあるだろうが。

もし鎧兜が本物なら貴重なので
家にしまわないで
近くの資料館や市に寄贈して、県や市の指定文化財にしてもらった方が
いいと思う。
そうすりゃ管理もしてくれるし
偽物だと疑われないから堂々と言える。
他の自称武田ゆかりの家でもなくなるしな。
87 :人間七七四年2008/12/24(水) 19:36:50 ID:qV6gIBPu
>>86その鎧についてですが、現在祖父母の家にあるのはただの置物としておいていて、本物は昔に資料館に預けたらしいです。あと、>>84の内容は代々受け継がれていて?今の祖父母も幼い頃に親から聞いていたらしいです。
88 :人間七七四年2008/12/24(水) 21:22:15 ID:co0N3E+9
>>85
江戸時代には主だった武家の家譜が編纂されてるから、調べてみるのも面白いよ。
寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜など。

ただ、江戸時代には家系図屋がいて由緒ある家につなげる仕事を請け負ってたりするので
どこまで本当かは難しいけどね。
89 :人間七七四年2008/12/24(水) 22:16:50 ID:gnro2UzO
>>85

山梨で甲斐って言う苗字はないのでその・・・
まあ武田家滅亡後に徳川家に仕えた武将の家来で主家移封に随って
その後に苗字を出身国名に変えたと言うのなら苦しいがありえるかもよ
90 :人間七七四年2008/12/24(水) 22:33:01 ID:co0N3E+9
戦国時代から甲斐氏ってのはいますよ。甲斐国じゃないと思うけど。
91 :人間七七四年2008/12/24(水) 23:11:20 ID:dCmaes2V
戦国時代と言うのが時代が比較的近く怪しい感じはあるけど、甲斐国造後裔の下級武士にいても不思議ではない
92 :人間七七四年2008/12/25(木) 01:41:00 ID:82CB6yTS
甲斐氏というと、朝倉孝景と争った越前守護代の一族が著名かな?
あとは九州肥後の阿蘇氏の家臣など。

>>84
武田氏に限らないが、君主権力を拡大させようとする側と、それを
掣肘しようとする国人という構図は多いからな。
93 :人間七七四年2008/12/27(土) 23:14:21 ID:FkPlUXh9
>>85
甲斐さんといえば、室町幕府の三管領家の一つ、斯波氏の守護代家、
甲斐、朝倉、織田のうちの一つじゃ無いですか。
しかも応仁の乱まで最有力だった。
94 :人間七七四年2009/01/09(金) 21:39:30 ID:Ugy45XDf

御館様が捕まったらしい。
http://www.kbc.co.jp/news/index.html?newsno=20&mode=kbc
95 :人間七七四年2009/01/09(金) 22:06:02 ID:YgJ2Z1gF
信玄と書いてノブトラと読むってか。
名前付けた親すげえなw
96 :人間七七四年2009/01/09(金) 22:06:46 ID:Z68yCiyN
>>94
小倉・八坂神社前代表を逮捕、寺の土地不正移転疑いで
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20090109-OYS1T00457.htm

> 北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)


複雑怪奇なり
97 :人間七七四年2009/01/09(金) 22:08:28 ID:Z68yCiyN
こんなのもいるな。

【旭川、美瑛】旭川東署と札幌東署は五日、恐喝未遂の疑いで、上川管内美瑛町大村大久保第一、
前同町議の建設会社社長武田信玄容疑者(63)=旧名・福原福雄=を逮捕した。
http://plus.news2ch.net/read.php/1104947268/

小倉のこれも改名した類じゃないかね?
99 :人間七七四年2009/01/16(金) 21:50:05 ID:xmrOUIFB
>>83>>84
実質的に甲斐の独裁者となっていた跡部氏を追放した後は、信昌と小山田氏、
信縄・信虎と荻原氏、信玄と板垣氏と、武田の当主と彼をバックアップして
国主に押し上げた傅役などの家臣が権力を握り、対立する強力な国人に対する懐柔策として「次期
権力者のお墨付き」として国主の嫡男の傅役に任命する。

しかし傅役は、自分が少しでも早く権力者になりたいがために、自分の
主君である国主の追い落としにまで走る。かくして甲斐は、国主とそれを
推す家臣団対嫡男とそれを推す家臣団の権力闘争の場となる。

信昌は義父の跡部を殺して甲斐の実権を奪い、信縄は実父の信昌を隠居させ、
信虎は叔父の信恵を族滅させて国主の座を守り、晴信は信虎を妹の嫁ぎ先に
隠居させるという穏健な手段で国主となったものの、義信は父の信玄には
返り討ちに遭い、勝頼は土壇場で叔父親族にことごとく裏切られ滅亡した。

信玄だけが特別な親子相克を演じていたわけじゃない。
100 :人間七七四年2009/01/17(土) 17:51:24 ID:eLYByczn
>信昌は義父の跡部を殺して甲斐の実権を奪い

「取戻し」じゃないか?
守護の武田家が守護代の跡部から奪いって変じゃない?
102 :人間七七四年2009/01/24(土) 21:42:03 ID:Brrl3uA4
勝頼は不運だったよね

いろいろ不運だけど、一番は家督継いだ時には、
すでに群雄割拠の時代は終ってて、事実上天下もってる
織田勢力と接しており、かつ敵対状態
北は上杉だし、東は北条
いずれも大勢力

これじゃ、名をあげる(統率上絶対必要)ことも出来ん
104 :人間七七四年2009/01/25(日) 13:52:02 ID:j+vXjmQw
>>102
>織田勢力と接しており、かつ敵対状態
信長も和睦したかったみたいだけどな。
佐竹通して交渉しようとしたり。
>これじゃ、名をあげる(統率上絶対必要)ことも出来ん
上野方面では連勝してましたが。
北条が信長に頭下げて傘下に加わらざるを得ないくらいには圧倒していた。
まあ、北条が織田に通じるというのは最悪の結果だが。
105 :人間七七四年2009/01/30(金) 22:02:02 ID:xk4itK1m
むしろ信玄が死んだ時、勝頼は全てオヤジのせいにして信長と和睦する
手はあったはずだが。信長もまだ苦しい状況だったし、喜んで応じただろう。
結局、勝頼が信長と戦う事を選択したとしか。
106 :人間七七四年2009/02/01(日) 13:31:26 ID:Xsbt0oel
>>105
跡を継いだばかりの勝頼にそんな方針転換できるような権力があるわけないだろ。
107 :人間七七四年2009/02/01(日) 20:22:06 ID:xZSCqpVW
跡を継いだばかりの信玄が方針転換をして諏訪を攻めたのにな。

代替わりで方針が変わるなんて珍しい事じゃない。
108 :人間七七四年2009/02/01(日) 21:17:33 ID:23E0JOrq
でも当時の信長的には
信玄存命→なにがなんでも和睦
信玄死亡→様子見て潰してやる
ってな感じじゃないの?
109 :人間七七四年2009/02/02(月) 01:44:07 ID:jHcr0HH1
>>107
信玄は方針転換前提での家督争奪じゃん。
110 :人間七七四年2009/02/02(月) 14:41:11 ID:e4KiTuK+
現代で例えるならとある地方のそこそこ流行っていたが強引なチェーン店展開手法で
評判はイマイチだった老舗うどん屋を役員会緊急動議クーデターで親父から継いだのが信玄。
継いでからはあの手この手でその地方では一番といってもいい味とサービスを提供する
名店の仲間入りを果たした。そしてその晩年には社運を賭けて銀行に大借金してまで
他地方への新規出店ラッシュと設備投資を行なった。
が、ここで死去。
後を継ぎ代表取締役に就任したのは本店にごろごろいる専務常務クラスではなく、つい
最近取締役それも平取に昇進したばかりのしかも支店採用上がりの支店長。
もっとも支店採用とはいえ一応先代との親子関係はある。というかそれしか彼が継げた
理由はない。
これで先代の方針を変更できたら神だわ。
111 :人間七七四年2009/02/03(火) 00:15:02 ID:dW9ZKYCp
むしろ馬鹿息子ほど先代の方針を守らないで没落するというのが
定番パターン。だが勝頼が今川氏真ぐらいやる気がなかったら逆に
生き残ったかもしれないな。
112 :人間七七四年2009/02/09(月) 01:20:51 ID:YwhaMi1y
龍芳の男系は続いているの?
旗本としては信安が信明を養子してることから男系はいないように思うけど
先代の信興も男子一人しかいなかったんだよね
113 :人間七七四年2009/02/09(月) 23:09:54 ID:xOddwa/A
長篠で大敗した時点で勝頼は終わってたんだよ
信玄の負の遺産を引き継いだ悲劇の名将なんかじゃなくて
ただ情勢が読めなかっただけなんだからしようが無い
114 :人間七七四年2009/02/09(月) 23:54:00 ID:FR5Fg2dM
信玄は何度も大敗して、かけがえのない重臣を失ってもまだ戦える土壌があったけど、
勝頼は一度でも大敗したらそこで終了するぐらいスタートが終わってただろ。
115 :人間七七四年2009/02/10(火) 10:08:53 ID:du9B2Hs+
で、龍芳の男系は続いているのですか?
116 :人間七七四年2009/02/12(木) 23:45:20 ID:FJj8yFb8
>>112 >>115
そんなことも知らないのか。大河の「風林火山」の頃には、
この板どころか大河板程度でもさんざん語られてたことだ。

土橋治重「武田武士の系譜」の、龍宝の項
柴辻俊六・平山優「武田勝頼のすべて」の184P〜
でも読んどけ。
118 :人間七七四年2009/02/13(金) 12:49:33 ID:f6Kit4s1
>>106
鴨川達夫も書いてるけど、長篠以降の南進政策の失敗と宿老の死による
家臣団の入れ替わりで、やっと勝頼の独自性が政策に反映できるように
なってきたみたいだね。

その頃からずっと勝頼は織田に和議を求めているんだけれど信長はケンも
ホロロ。俗にいう「覇気のない氏真、ありすぎた勝頼」というイメージは
実は実体と正反対なんじゃね?とも思ってしまうよな。
119 :人間七七四年2009/02/13(金) 13:35:00 ID:S5v9vPfX
>>104
> 信長も和睦したかったみたいだけどな。
> 佐竹通して交渉しようとしたり。
>>118
> その頃からずっと勝頼は織田に和議を求めているんだけれど信長はケンも
> ホロロ。

で、どっちなんだよ。
120 :人間七七四年2009/02/13(金) 15:10:14 ID:yfYtQdzk
>>116
手元に本が無いので詳しく教えて下さい
122 :人間七七四年2009/02/13(金) 22:05:30 ID:8opP446T
↓こんなの見つけた【信玄は長野人に嫌われていた?!】
ttp://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/intro/singentosinsyuu.htm

長野に旅行に行った時、お年寄りと話していて「あれ?信玄って長野の年寄りには嫌われてる??」って感じたんだけど、
そう感じたのは俺だけじゃなかったんだね。勝頼は「諏訪様」言われて慕われていたけど。あくまで武田勝頼じゃなくて諏訪!!って
拘っていたのは面白かったw
123 :人間七七四年2009/02/14(土) 00:42:10 ID:XnNaYgQ7
長野県民に人気なのは木曽義仲と真田一族
川中島の戦いの知名度が高いぐらいで
武田はあまり好かれてない信濃からすりゃ侵略者だったんだし
124 :人間七七四年2009/02/14(土) 01:19:23 ID:VW9TqqLM
>>122
北信濃方面は特に上杉びいきが多いよ。
上杉研究者が「武田の領土だったところに行って上杉の講演なんて、
ブーイングもんだろうな」とびくびくしながら講演に出向いたら、
思いのほか歓迎されてびっくりされたらしい。
125 :人間七七四年2009/02/14(土) 01:29:06 ID:F5omsUTG
春日山なんて北信飯山の斑尾高原越えればすぐそこにあるからな
126 :人間七七四年2009/02/14(土) 05:21:03 ID:Uv0emTQ2
山梨県人だが長野県人に知り合いが多くてそのせいか
実際に長野に行って侵略者云々言われたこと何度もあるよ
謝罪を求められたこともある、マジでw
山梨に来てる長野県人にも言われたことがあるのでやっぱデフォなんだな
元自衛官の友人も長野の松本駐屯地にいた時に散々言われたり
色々されたりしたと言ってた。
ちなみに諏訪湖以北の人に何人か会ったんだが
みんな謙信公・信玄(呼び捨て)だった
 
127 :人間七七四年2009/02/14(土) 07:17:59 ID:rVhxeJ6C
きめぇな。謝罪とか何代前の話だよ。中国朝鮮どころじゃねえぞ。
128 :人間七七四年2009/02/14(土) 09:58:56 ID:4Q8wlyVj
龍芳の男系子孫はいるのか?
この質問に対する回答お願いします
参考資料は手元にも図書館にもありません
129 :人間七七四年2009/02/14(土) 11:26:51 ID:moicCNzb
>>114
その後7年もってるけどな。
実際問題として勝頼の滅亡はその後の御館の乱での失敗による
北条・徳川相手の多方面作戦が大きい。
130 :人間七七四年2009/02/14(土) 12:09:52 ID:moicCNzb
>>128
とりあえず幕末には武田龍芳の子孫である崇信がいて高家をつとめ
維新後に信任を養子として武田家を存続させてる。
そっから先はわからん。
最近上杉家の子孫とオセロやった武田の子孫がいたけど何系だったのかね。
131 :人間七七四年2009/02/14(土) 14:12:50 ID:4Q8wlyVj
Wikipediaで調べたんで確認しときます

武田信玄―武田信親(龍芳)―信道―信正―信興―信安=信明(柳沢信鴻の三男)

信安の長男信用の夭折、柳沢家から養子を迎えた事によって龍芳の男系としての高家は断絶しているようです
高家以外の龍芳の男系つまり信安以前の分家がないかこれから確認してみます
132 :人間七七四年2009/02/14(土) 14:35:07 ID:4Q8wlyVj
・武田信親(龍芳):子は信道以外確認できず
・武田信道(道快、高家武田家実質的初代):子に信正、女子二名
・武田信正:子は信興以外確認できず
・武田信興(高家として列せられる):子は信安一人
・武田信安:子は信用一人だが早世。柳沢家より信明を養子として迎える


Wikipediaと他のいくつかのHPによる調べですが、代々一人っ子の綱渡りのような系図
信安の代で龍芳の男系は完全に断絶してしまったようです。とても残念だ
133 :人間七七四年2009/02/14(土) 14:52:36 ID:4Q8wlyVj
断絶が断絶した後の系図も検証してみます

武田信安(龍芳の男系最後)=信明(柳沢信鴻三男)―護信=信典(松平頼亮三男)=信之(柳沢保光七男)=崇信(信典実子)=信任(遠山家から)―要子=信保(柳沢保申の子)―昌信―邦信―英信
134 :人間七七四年2009/02/14(土) 14:56:37 ID:4Q8wlyVj
系図を調べてみると愕然としてしまいました・・・
現在の武田家当主の方が信玄の男系子孫でないとは。女系で繋がっているかどうかも疑問です
血筋よりお家の存続の方が大切だという意見もありますが、一抹の寂しさが残ってしまいました・・・
135 :人間七七四年2009/02/14(土) 15:10:57 ID:4Q8wlyVj
信清の米沢武田家は早々と男系断絶

もはや信玄の男系はいないのかと思いきや
五男仁科盛信の子孫が現在まで一度も養子を迎える事なく現在まで続いているようです
良かった良かった。
137 :人間七七四年2009/02/14(土) 15:27:04 ID:4Q8wlyVj
旗本としてしっかり存続してるんで信頼できるのでは?

今日は何の日かと思ったら信玄が村上義清に敗北した日ですね
138 :人間七七四年2009/02/14(土) 20:31:53 ID:2Bv0b7du
ちょっと前の記事だけど

武田家、城下町で金加工? 甲府で金付着の土器発見
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009010901000571.html
 甲府市は9日、戦国時代の武田氏館周辺の城下町遺跡などで
発掘した土器片58点に金が付着していたと発表した。
金は土器の上で加熱された際に溶けて付着したとみられ、
城下町で金が加工されていたことを示している。
市教育委員会は、複数の金山を有し天下取りをうかがった
武田家の財力や金の流通過程を探る貴重な資料になるとしている。

 市によると、戦国時代の城下町遺跡で金が付着した土器片が見つかったのは、
石川県七尾市に次いで2例目。武田家の資金源の1つとされる
黒川金山(山梨県甲州市)や湯之奥金山(同県身延町)などで採掘された金が、
城下町の甲府に集められ、工房で装飾品などに加工された可能性が高い。

 市の区画整理事業に伴い市教委などが昨年9−12月に発掘調査、
金が付着した土器片32点を発見した。近くで発掘された2点にも
金が付着していたため、既に発掘済みの土器も再分析すると
24点に金が付着していた。多数の土器には銅も付着していた。
http://www.47news.jp/PN/200901/PN2009010901000668.-.-.CI0003.jpg
139 :人間七七四年2009/02/14(土) 22:58:01 ID:cgc7lS/7
>>128
『武田勝頼のすべて』ならまだ買えるような本だぞ。

また、ネットで調べればわかるようなことを何甘えてるんだよ。
140 :人間七七四年2009/02/15(日) 00:20:24 ID:MS4EYXIb
>>139
もう答え出たからいいよそれ
141 :人間七七四年2009/02/15(日) 08:28:36 ID:oW02ZZiN
>>126
武田の略奪から立ち直るのに江戸中期までかかったって話しだからね。
でも今の時代まで恨み通すのはまだしも、謝罪求めるなんて半島人みたいでキモイなw
高速料金安くなったら友人と長野に行く予定なんだが、山梨県人じゃなくてよかったw
142 :1262009/02/15(日) 08:52:02 ID:6kfKH2VY
まあ個人に謝罪を求めたっていうより
「甲州人は昔信濃に侵略して云々〜まだ謝罪してないんだけどいいの?」
みたいな感じw
あと向こうの人は川中島は5回とも
謙信公が信玄を撃退したってことになってるから
引き分けたと言って怒られた
(領有したんだから勝ったのこっちだろと思いつつご当地なので一歩引いたんだが
善光寺の仏像盗んだバチ辺り=甲州人は泥棒って認識
まあ10年くらい前の話しだから今の時代にはそうそう言われないだろな
こんなことw今じゃいい思い出だよ

>武田の略奪から立ち直るのに江戸中期までかかったって話しだからね

これも言われたよ!
武田に領有されていたせいで新潟など隣県と中が悪くなってしまい
陸の孤島になってしまったって
143 :人間七七四年2009/02/15(日) 10:14:43 ID:Eu0Q92Dn
>>142
キミの付き合ってる人間が偏りすぎてるだけだな。

まあ脳内知り合いなのも丸分かりだが。
144 :人間七七四年2009/02/15(日) 10:34:32 ID:6kfKH2VY
まあ何十人も浅く深く付き合ってるからな
俺の地元の山梨でも未だに昔の伝承やら
小説で聞きかじった知識で信玄語ってる人いるからw
145 :人間七七四年2009/02/15(日) 12:58:11 ID:TmorC6e7
>>142
>善光寺の仏像盗んだバチ辺り=甲州人は泥棒って認識
甲州人に盗人が多いってのは聞いた事ある。江戸時代にスリや強盗が横行したからって聞いたけどね。
146 :人間七七四年2009/02/15(日) 13:00:31 ID:6eAn4FGo
書き方が悪かったのかと顧みることもなく
皮肉を笑い飛ばすとはこいつはとんだ大物だぜ
147 :人間七七四年2009/02/15(日) 23:34:26 ID:MS4EYXIb
現武田家当主って信玄の子孫でもなんでもねーじゃん
148 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/02/16(月) 00:04:39 ID:koLvMa8W
父系の証明が100%の子孫はいないわけじゃないだろうけど、今んトコ見つからんね。
149 :人間七七四年2009/02/16(月) 03:09:58 ID:OoXqfgQq
>>147
まあ、実家の柳沢氏も甲斐源氏の一族だし、それになによりも
代々信玄の家の宝物や祭祀を守ってきたんだし、いいんじゃないか?
余談だが、女系では真田氏の血も引いてるんだよね、今の武田家って。
150 :人間七七四年2009/02/16(月) 03:14:04 ID:SRZELmGm
柳沢吉保のとりなしが無ければ高家になることができなかった名門wだから。
151 :人間七七四年2009/02/16(月) 11:09:46 ID:Y0ionVFX
>>148
仁科盛信の系統は信頼できるのでは

>>149
甲斐源氏を称する柳沢氏の本家青木氏って結構グレーじゃない?
152 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/02/16(月) 21:47:33 ID:koLvMa8W
>>151
盛信の子というのがちょっとなあ。
青木氏は逆にもうちょっと信じてやってもいいかもしれない。
153 :人間七七四年2009/02/16(月) 23:42:15 ID:Y0ionVFX
>>152
盛信の子というのが仮冒だと?
次代ではまずあり得ないだろ
155 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/02/17(火) 23:05:00 ID:M6zv009f
>>153
生き延びた子の記録ってある?
156 :人間七七四年2009/02/18(水) 01:09:31 ID:zKraXS6S
>>150
大久保長安事件に巻き込まれちまったからな。
あれは、長延寺実了や竜芳の子孫だけでなく、上杉を頼ってた
信清なども嫌疑がかかりそうになっているし、旗本に復帰出来ただけでも
上出来じゃないかな。
157 :人間七七四年2009/02/18(水) 05:26:45 ID:BvqLNim0
>>155
盛信の子として旗本になった記録があるだろ
158 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/02/19(木) 00:22:21 ID:eFDXJ//7
>>157
四男とかいう奴?
159 :人間七七四年2009/02/20(金) 18:58:05 ID:BeOZ1nyx
長男・次男は確かな子。盛信の妹や娘も行動一緒だったし

で、その自称四男が仮冒と当時から怪しまれていたわけ
160 :人間七七四年2009/02/23(月) 23:15:41 ID:0qsfWZBk
仁科盛信の次男の家系こそ本当の武田家当主
甲府にいるのは偽物
161 :人間七七四年2009/02/24(火) 01:55:59 ID:ghxIRF92
盛信が武田姓を継げなかったのだから盛信の末裔が
武田の当主というのはかなり無謀な言い分だろ。
たとえ養子なしでつながっていたとしてもね。
【家】を継いでいくとはそういうこと。血だけじゃないんだよ。
いい加減学習しろや逸見のあんちゃんw
162 :人間七七四年2009/02/24(火) 11:04:26 ID:HFkEYzNR
盛信の次男の家系は武田に戻してんだよ
長男の家系が仁科姓のままなだけ

甲府にいる武田当主も龍芳は海野、米沢の武田家も安田だった訳で
163 :人間七七四年2009/02/26(木) 20:16:35 ID:AQ7Ggtje
>>161
竜芳も武田継いでねーぞ低脳
165 :人間七七四年2009/02/28(土) 19:18:32 ID:aS9qntUi
>>162
名乗ってる名字が武田でも家は継いでないな。
逆に名字が変わっても財産や祭祀を継いでいれば継承してる事になる。
166 :人間七七四年2009/02/28(土) 19:21:35 ID:tS7K3imq
家を継ぐの意味が、当時の意味でなのか、現代的な意味でなのか、それによって変わる話だな
167 :人間七七四年2009/02/28(土) 19:31:36 ID:SfXeDRF7
>>165
龍芳および息子の道快が武田家の祭祀を継いだなどと聞いたことがないが
武田勝頼や信勝の養子になった訳でもないし
168 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/02/28(土) 20:01:08 ID:wB7dtG+D
まあ勝手とまではいわないけど名跡だけ継がされた状態だわね。
169 :人間七七四年2009/02/28(土) 21:36:42 ID:SfXeDRF7
明治時代に本家がどこかという議論になったが
龍芳は正室の子だという事で、その家系が本家だと政府が認定


しかしながら正室(三条)の血どころか信玄の血も流れていない現当主
171 :人間七七四年2009/03/01(日) 00:20:50 ID:BqpFSaFa
つまり天皇家は原始人ってことね
つーか「家」を継いだわけでもないだろ高家武田家は
172 :人間七七四年2009/03/01(日) 00:24:14 ID:PnLNiH/e
天皇家は系列が複雑に分かれていることを知らない人ですか。

つーか血がどーのこーの言い出したのは近代以降だよな。
正直野蛮な感覚だ。
173 :人間七七四年2009/03/01(日) 00:38:37 ID:DnHxuJb1
幕末の大名なんてみーんな一橋家の血だもんね。

真田の家も松平定信の血になってるし。
174 :人間七七四年2009/03/01(日) 02:09:57 ID:jzgH2V6n
本多正重の系統は江戸初期の時点で長坂某とかいう奴の男系になってて茶噴いたw
長坂家の子孫は陪臣(正重家田中藩家老)だとさw
他の藩士の本国と名字から推測するに武田遺臣だろうけどこういうのは珍しいよな。
正に棚からぼた餅だ。
175 :人間七七四年2009/03/01(日) 02:47:28 ID:xfi6BXly
>>173
最後の藩主幸民は宇和島伊達家の出じゃなかったっけ?
柳沢氏を経由して、真田信之の血筋は現在の竜芳系武田家にも
引き継がれてるんだけどね。

>>174
長坂釣閑の子孫じゃないくて、長坂信政(松平氏の家臣)の縁者かもしれんよ

ま、藩祖と全く血縁のない大名なんて結構いるしね。
後北条も、上杉や久留米有馬などは女系で繋がってるけど、
狭山藩主家は全く早雲と血縁は無い。

176 :人間七七四年2009/03/01(日) 10:27:16 ID:PnLNiH/e
北条で言えば、紀伊家は初代頼宣の生母に北条の血が入っているんだから、
吉宗以降は全員北条の血縁者だな。
177 :人間七七四年2009/03/01(日) 11:16:40 ID:jzgH2V6n
調べ直したら名は長坂重吉で、前にネットで調べた時は公式な出自が解らなかった。
長坂重吉の息子本多正貫が生まれた1593年には、正貫の母の父本多正重は蒲生氏郷に仕えており、
田中藩士名簿では長坂氏の諱に重がつく人物が多く、東北の千葉同族長坂氏にも重がつく人物が複数見られるから、、、
これが妥当かな。

早とちりして武田遺臣と書いてすまんかった。
178 :人間七七四年2009/03/03(火) 12:57:27 ID:oi9F5IJq
信玄の「子孫」を称するなら信玄の血を引いてなきゃ駄目だろ
179 :人間七七四年2009/03/04(水) 23:41:28 ID:GGdznDle
「戦国遺文 武田氏編 全5巻」を購入しようと思うのですが、
武田の基礎史料は大半網羅されてますか?
181 :人間七七四年2009/03/05(木) 19:04:26 ID:GjQEsFYc
http://live2.ch/jlab-fat/s/fat1236175710934.jpg

> 1560:織田信長、信玄に操られて今川義元を桶狭間で破る
>
> 1561:信長により上杉・武田、川中島で激突
>
> 1573:武田信玄、信長により暗殺
>
> 1578:上杉謙信、信長により暗殺


( ゚Д゚)
183 :人間七七四年2009/03/10(火) 00:43:10 ID:H4VgF0ut
>>179
遅レスだけど
あるのはあくまで書状だけ。
妙法寺記とか軍鑑とかそういった記録資料や編纂資料はないから
考慮すべし。
でも書状が一次資料なのは間違いないからそれを読んでくと
流れがいろいろわかって面白い。
184 :人間七七四年2009/03/17(火) 23:00:18 ID:yHvjTDFP
>>181
信長はデスノート持っていたんだろ
185 :人間七七四年2009/05/01(金) 18:55:22 ID:vR3oqhN0
信玄が勘助にあてた手紙が群馬で見つかったそうだ
40年ぶりの発見だって
187 :人間七七四年2009/05/01(金) 19:11:35 ID:vR3oqhN0
「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家
褒美与える内容など2通
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/05/01/2.html
189 :人間七七四年2009/05/01(金) 21:45:38 ID:ZYVfEPmV
アンチ武田とかは関係ないだろう。
伝承の批判的検証は今後も行われなければならない。
これは山本勘助の元ネタとなる山本菅助が実在した証拠であって、
山本勘助が片目の参謀だった証拠ではない。
190 :人間七七四年2009/05/01(金) 21:47:54 ID:u0qrhBbY
くやしいのうwくやしいのうw
195 :人間七七四年2009/05/16(土) 12:08:13 ID:3XX8coOL
逃げること風の如く
黙りこくること林の如く
憤怒すること火の如く
引き篭ること山の如し

この旗のもとにィィィィィィ!
我ら武田厨はァァァァァァ!
アンチ信長を胸にィィィィ!
一致団けグワ!………………舌…噛んだ…
197 :人間七七四年2009/05/16(土) 12:30:33 ID:wcWGFGLk
そもそも織田厨が平日の真昼間から2chに
はりついて長時間レスしてる時点でどっちが
引きこもりかわかりそうなもん。
適当なこと言って反論されたら逃げるのも大抵煽ってる織田厨だし。
198 :人間七七四年2009/05/16(土) 17:56:16 ID:3XX8coOL
>>197
山梨は時差の関係で今日は平日なんですね?
分かります(笑)
199 :人間七七四年2009/05/17(日) 01:36:41 ID:m7+7gE+O
>>198
他所のスレの事言ってるんだと思いますよ。
実際平日の昼間からどういう生活してるのか知りませんが
煽ってる貴方みたいな織田厨は異常に書き込みが多いですし。
200 :人間七七四年2009/05/17(日) 03:28:11 ID:dG745IVP
みなさん勘違いしないように、織田武田を対立させてるように見せかけてる
今川北条毛利厨が勝手に幼稚なレスばかりしてるだけですから。
不人気3トップのマンセー君達は、こういう憂さ晴らししか出来ないのですよ。


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