【三国志】 赤壁 【映画】【大耳児】 劉備 【昭烈帝】

2010年12月27日

戦国ちょっといい話23

1 :人間七七四年2010/10/29(金) 00:03:37 ID:9aBb5P9U
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話22
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284210262/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1287759374/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/


6 :人間七七四年2010/10/29(金) 18:00:47 ID:4QJyzayn
後花園天皇の時代、永享(1429〜40)の頃の事だそうだ。

その頃、京では夜、西洞院通より怪鳥が飛び来たり、禁裏の殿上にとどまり光を放つ、という
怪異があった。主上はじめ禁裏の人々これに大いに驚き賜い、数夜にわたってこれが続いたため
ついに公卿達によって詮議が行われた。

「上古、源三位頼政が鵺を射たためしがある。この度も武家に命じて射さしむべし。」

すぐに将軍家へと勅使が立った。

その頃京に参勤し将軍家に将軍家に仕えていた者の中に、讃岐の住人、三谷弥七景春があった。
彼は当時、射手として類なき精兵と知られており、将軍家は彼を派遣することとした。

彼は参内し殿上の床に上って、怪鳥の来る時刻を待った。
しばらくすると怪鳥飛び来たり、禁裏の上まで来るとまばゆい光を発する。

三谷弥七景春心中に神明の擁護を祈り、これに、射る。

射応えあり。

矢は誤たず当たり、怪鳥は地面へと落ちた。

三谷景春はこれを確認しようと階を下らんとしたところ、段を踏み外し下まで落下してしまった。
それを見た公卿が

「そなたは怪鳥を射落とす程の者、心遅れるようなことはないだろうに、
今階段から落ちたのはどういう事か?」

と尋ねると景春

「不詳の身の私が参内をいたしただけでなく、階上にまで登りました。
その事を恐れたゆえに計らずも落下してしまったのです。」

そう答えた。
この事は帝の叡聞に達し帝感美ましまし、昔の頼政が官位であると、三谷弥七景春を
兵庫頭になし賜い、これより兵庫頭と弥七が、三谷家の通名となったそうである。

三谷氏に伝わる、通名についての伝承である。
7 :人間七七四年2010/10/29(金) 20:29:39 ID:lVBUzZzz
>>6
日本史板の鎌倉・室町逸話スレに書くべきだ
9 :人間七七四年2010/10/29(金) 20:53:49 ID:8ZNC1BDz
猫&犬「陛下のペットなんで官位持ちですwwフヒヒwwwwサーセンwwwww」
10 :人間七七四年2010/10/29(金) 21:22:32 ID:9aBb5P9U
官位というとこんな話が。江戸後期なのでおもいっきりスレ違いなのだが参考までにw


天明元年(1781)、姫路城主の酒井雅楽頭(忠以)は将軍の命により上京することとなった。

ところでその頃、忠以は狆を大変に愛玩して数匹を飼い、その中でも特に気に入った一匹に
いたっては、どこに行くにも連れて回っていた。であったが今回の上京は将軍の命による
公の重き御用であるため連れては行けぬと、江戸の屋敷に置いていくこととした。

ところが出立の日、この狆が駕籠の廻りを離れず、隙あらば主人の居る中に入ろうとする。
近習の者達駕籠に入れてはならぬとこれを防いだが、あるいは吠えあるいは噛み付き、
なかなか手に余る抵抗を示した。

困った忠以は
「とにかく品川の駅まで連れていこう。品川から返してしまおう。」として、
品川に着くとそこから返そうと色々と手を尽くしたが、先と同じく狆は頑強な抵抗を示し、
如何ともしがたく返すのを諦め、ついに上方まで連れていった。

さてさて忠以が京に着くと既に彼の狆のことは話題になっており、帝の叡聞にまで達した。
そして

「畜類ながらその主人の跡を追う心の哀れなり」

とて、六位を賜ったのだとか。

これを聞いて、いたずら事を好む殿上人の口ずさみだろうか、あるいは京童が言ったことだろうか、
こんな狂歌が出回ったそうだ

『くらいつく 犬ぞとかねてしるならば みな世の人の うやまわんわん』

右は根拠のない話ではあるが、当時所々で取りざたされていたので、ここに記す。

『耳袋』より
11 :人間七七四年2010/10/29(金) 22:17:14 ID:aqMSiu1f
碧蹄館の戦いの時の出来事
明、朝鮮連合(およそ15万)に対して総攻撃を行うことにした日本
その先陣を任された立花宗茂、高橋直次

その先陣を率いるは
小野和泉
立花三左衛門
以下八百余人

中陣を率いるは
十時伝右衛門
内田忠兵衛
以下五百余人

後陣を率いるは
立花宗茂
高橋直次
以下千八百余人

中陣の十時伝右衛門、内田忠兵衛が
先陣を訪れ小野和泉に対して先陣を譲るように言う
小野和泉は軍法を破るだけじゃなく我を侮辱するつもりかと激怒
対する十時伝右衛門、
「そうではない、我々は老年で思い残すことはなにもない、貴殿らは今からの
人物だその勇気も智略も立花家には得がたい人物だからと先陣をお譲りくださいと説得」
真意を知った小野和泉は殿にお訊ね致しましょうと判断を求め
宗茂「それも一理だ」といい先陣と中陣を入れ替える
その結果明軍の先陣二万を退却させるも十時伝右衛門は毒矢により戦死してしまう


立花家の未来の為散った武将のいい話
既出だったらスマソ
12 :人間七七四年2010/10/29(金) 22:32:03 ID:XD/8lSBN
カリグラ帝「我が愛馬インキタトゥスよ、将来執政官にしてやぞ」
14 :人間七七四年2010/10/29(金) 22:37:05 ID:zL7vx2/c
>>12
僕のインキンタムシも執政官になれますか?
15 :人間七七四年2010/10/29(金) 22:48:01 ID:XD/8lSBN
>>14
つ横光利一「ナポレオンと田虫」
頑張って皇帝になってくれ
17 :人間七七四年2010/10/29(金) 22:52:27 ID:iN89yCj5
141 :人間七七四年:2010/10/29(金) 21:15:26 ID:nLAY8ySo
義光と光安の顔文字ネタ、いい加減同一人物なんだろけどしつこくてキモくて勘弁して欲しい。
まとめブログのコメントまで顔文字でかなりげんなりした。
どうして最上オタってキモイ創作とか同じネタばっか使って受け狙おうとすんの?
そういう狙いがなきゃ最上結構好きだけど、最近の流れキモいわ…
18 :人間七七四年2010/10/30(土) 01:15:18 ID:tvni0t9O
ある時、一休禅師が幕府政所長官伊勢氏の執事である蜷川新右衛門と共に
比叡山に登ったことがあった。

そこで新右衛門、一休に向かいこんな事を言った

「『比叡の山路を拾ひ往くかな』、さて、この上をお付けください。」

これを聞くと一休、直ぐに

『さし解けて 麓に四貫の銭ばらり』

新右衛門、一休の機知に甚だ感服したそうである。
そんな一休頓知話の一つ。
19 :人間七七四年2010/10/30(土) 07:05:26 ID:lcws2BBO
板違い+スレ違い
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
こっちに書いて
20 :人間七七四年2010/10/30(土) 10:50:16 ID:tvni0t9O
>>19
一休さんは時代としてももう戦国にかかってるでしょ。
23 :人間七七四年2010/10/30(土) 13:24:13 ID:zOe3pwM6
一休というとアニメの一休さんの影響で、足利義満時代の人物だと
思われがちだけど、大徳寺の住持になったのは応仁の乱後だったりするし、
戦国期の人物とも言えるんだよなぁ。もっとも、蜷川新右衛門が
亡くなったのが応仁の乱以前なので、このエピソードも応仁の乱
以前ってことになるけど。
27 :人間七七四年2010/10/30(土) 15:31:32 ID:hP8WM5VS
ある十五日の夕方、徳川秀忠が手水を使おうと水を取り寄せた。
水の中には今上っている月がうつっている。
そして水の中の月は秀忠が手を入れると二つに分かれた。

それを見た秀忠は
「今まさに天下は割れようとしている。
 それを割れないようにするのは自分次第のことであるが
 世にも心憂いものは天下取りの身の上である。」
と言って涙を流した。

秀忠が次男徳川忠長を甲府に押し込めたのはそれから間もなくのことであった。
28 :人間七七四年2010/10/30(土) 15:43:11 ID:lcws2BBO
家光と忠長では忠長の方を愛してたんだもんなぁ。
天下と家のために愛情を断ち切ったのね。

現代だと「一国の総理が人前で泣くなんて政治家失格」みたいに言われそうだが
武士の時代の感覚は全然違うだろうね。
29 :人間七七四年2010/10/30(土) 16:05:08 ID:Fi+9S3VH
まぁ、手を洗うとこにいる小姓辺りは秀忠さんクラスの人にすれば”人”じゃないのかもしれないけどね〜
30 :人間七七四年2010/10/30(土) 17:57:01 ID:qzuP0Gjy
鎌倉から戦国あたりまで、男が泣くことが恥ずかしいというような思想は
なかったような。
明治になってからかな?
31 :人間七七四年2010/10/30(土) 18:02:13 ID:dZrgSghk
>>30
江戸歌舞伎とかでも結構ワンワン泣いてるしね。
男が泣くな、という考えはそれまでもあったにせよ、社会通念のようになったのは
明治以降だろうね。
32 :人間七七四年2010/10/30(土) 18:07:33 ID:lcws2BBO
明治以前でも許される泣き方と駄目な泣き方があったと思う。
・怖いから泣く
・ひもじくて泣く
・痛いから泣く
・ケンカに負けて泣く
・女に袖にされて泣く

こういうのは当時でも駄目な泣き方だろう。
最後の泣き方は平安貴族なら情け深いとか言われたのかもしれないが。
33 :人間七七四年2010/10/30(土) 18:51:43 ID:FEgxYnqv
女に袖にされて泣く、のはありなんじゃないのか。
そういうので泣かないと冷たい〜ってなったんじゃないかな。

泣くのが駄目、なのは明治以降西洋の価値観画はいってからだろうな。
最上義光とか部下の悲恋話に号泣しまくってウワァァンとか美談ぽく残っているくらいだし。
34 :人間七七四年2010/10/30(土) 20:53:26 ID:JZd3PdUK
また仲間内でくだらない話をやってるな


俺の話は無視しやがったくせに
35 :泣くな渡右衛門 1/22010/10/30(土) 22:12:17 ID:sK6KKi5p
その日、真田信之の家臣・木村渡右衛門は、江戸からの至急の書状を受け取った。
「!そうか、親父殿が・・・・・・」
真田家江戸家老の要職を務める渡右衛門の父・木村縫殿助は、今や死の床にあった。

昼も夜も無く渡右衛門は駆け続け、江戸藩邸へ向かった。
「父上!」
「・・・おぅ、間に合うたか・・・実はな、お前に頼みがある。わしは鈴木右近とある約束を交わし、誓紙まで書いたが
この有り様では、もはや約束も果たせぬ。お前、このまま国元へ帰り、誓紙を右近に返して謝ってくれ。」

真田家の名物男、鈴木忠重は国元で奉行職を歴任していた。
「そんな・・・誓紙を返すだけなら、他の者でも良いではありませぬか。せっかく急いで来たのです。
ここで、ご病状を看取らせて下さい。」

「いやいや、自分の体は自分が一番分かる。こたびは、もはや助からぬ。結果が分かるゆえ、看取るに及ばず。」
「しかし・・・」「たわけッ!!」
瀕死のはずの縫殿助が、鬼の形相を見せた。
「侍の親子が、国や主家を別にして死ぬ事など珍しくもないわ!末期に汝の顔など見とうもないわ、早く帰れ!!」

(わけの分からん約束事の誓紙一枚のために、親父の死に目に会えんとは・・・)
怒りと涙にまみれながら、渡右衛門は国元への道を急いだ。
36 :泣くな渡右衛門 2/22010/10/30(土) 22:13:28 ID:sK6KKi5p
「念の入った謝辞、かたじけない。そうか、縫殿助はいかぬか。惜しい者を亡くした。」
返された誓紙を押しいただく忠重にも腹が立つばかりの渡右衛門は、そっけなく鈴木家を辞去しようとした。

「確かにお渡しした。では、拙者はこれで。」
「ああ、待て待て。その顔ではお主、父御の言いつけに納得しておらぬな?だがなお主、この件の他に縫殿助から
何か遺言を授かったかな?」
「・・・・・・」

「それはな、縫殿助がお主という立派な倅を持ったがために、『他に思い残す事は無い』という信頼の表れよ。
その証拠にお主の面構え、縫殿助をそのまま若くしたようじゃ。縫殿助が、うらやましい・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

「そこで、だ。縫殿助に似たるお主に、わしと縫殿助の『約束』を引き継いでくれたら、幸いじゃ。」
忠重は渡右衛門に、誓紙の中身を見せた。
「これは・・・!心得申した。ぜひ私に父の約束、果たさせて下され!」



明暦4年(1658)、鈴木右近忠重、主君に殉じ切腹。幕府より殉死の禁が出される中、「右近ならば苦しからず」と
特に許されての殉死であり、忠義の臣・鈴木右近は、歴史に名を残した。

その見届け役の名を、木村渡右衛門という。
37 :人間七七四年2010/10/30(土) 22:15:32 ID:qzXMx2Z0
儒教じゃ、泣き声や取り乱す様子が激しければ激しい程、哀しみの深さを顕しているから忠孝に値するんだっけ?
38 :人間七七四年2010/10/30(土) 22:55:18 ID:TH9bBQss
>>35-36
いい話だ
しかし読む途中で黒田親子の場合を思い出して何ともw
39 :人間七七四年2010/10/31(日) 00:51:37 ID:VGJLsiVI
跡継ぎが立派かどうかって本当に大事だ。
親父さん、気持ちよいご臨終です。
40 :人間七七四年2010/10/31(日) 02:05:45 ID:YntaUwbz
>>35ー36
真田太平記の右近もかっこいいけど、史実もいい男だな
46 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:01:56 ID:ELZPdfzJ
しかし右近殿は首を掻き切られたとか押し切られたとか・・・
47 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:25:26 ID:LNZJfgHy
大久保彦左衛門は言う。

「知行を得られる方法が五つある
一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。
二、怪しい行動で人に笑われる者。
三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。
四、計算高く、代官の格好が似会う者。
五、あてのない余所者。

得られない方法も五つある。
一、忠義一筋の者。こいつは子孫が栄えない。
二、武勇ある者。
三、世間体の悪い、行き届かない者。
四、計算高くない年寄り。
五、譜代!

たとえ餓死しようとも後者であるべし。」

つまり俺のようにあれ、と。
50 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:33:44 ID:ugjAQWd7
まさに酸っぱい葡萄。

本当に何で兄貴の知行をもらわなかったんだろう?
52 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:41:50 ID:r3h+e8pe
>>47
無能の言い訳にしか聞こえん
53 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:50:22 ID:AKq8ZS0l
彦左衛門からすると、よそから鞍替えしてきたような、畳の上でお行儀よくくっちゃべるのが
得意な奴が優遇されてるのが気持ち悪くてしょうがなかったんだろうな
でも、世の中治まりかけると、そういう政治力とか外交力とかがある奴が頼りなんだよなー
しかし世の中には、藤堂高虎みたいな徳川への肩入れが異様に早くて
武功もあるけど朝廷との交渉にも使えるようなのもいるからよくわからん
54 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:51:42 ID:ugjAQWd7
>>52
少なくとも彼は無能ではない・・・が・・・
55 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:53:10 ID:2PiZQ/X2
彦左衛門からは時折+民のような負のオーラを感じるw
56 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:53:24 ID:mNoEYTnY
忠勝思い出したけど、彼はわりかし重要な領地貰ったんだっけ
57 :人間七七四年2010/10/31(日) 21:56:34 ID:ugjAQWd7
わりかしどころじゃないな。
桑名は東海道の最前線だ。
中山道の最前線、彦根を守る直政と合わせて最初の関門になる
58 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:04:03 ID:gk0dsaMM
>>55
鬱屈は時折でもないような
59 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:05:00 ID:Dmh1lYdw
一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。→太閤殿下に忠誠を誓いつつ裏でこそこそ

二、怪しい行動で人に笑われる者。→味噌漏らして、周りから失笑をうける

三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→一見いい人そうだけど腹黒い

四、計算高く、代官の格好が似会う者。→不正で肥えた悪代官が似合います

五、あてのない余所者。→三河、尾張、駿河、遠江、武蔵をふらふら

完全に家康批判ですね。ありがとうございました
60 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:11:07 ID:/w10P4Bl
>>59
秀吉批判だよ

一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。→織田家の忠臣と言いつつ裏でこそこそ

二、怪しい行動で人に笑われる者。→越中から勝手に帰国したりして笑いもの

三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→一見いい人そうだけど腹黒い

四、計算高く、代官の格好が似会う者。→実際京で代官もやってました

五、あてのない余所者。→若い頃尾張三河駿河をふらふら


そして信長批判だよ

一、主人に対して二心を抱く者。こいつは子孫も栄える。→義昭の忠臣を装いつつ裏でry

二、怪しい行動で人に笑われる者。→天下は朝倉殿持ちたまえなどと逃走

三、外面がよくて、取り入るのがうまい者。→最初は義昭にいい顔しまくってました

四、計算高く、代官の格好が似会う者。→計算高さはピカイチです。義昭の代官として権力を行使しました

五、あてのない余所者。→尾張美濃近江とふらふら

つーかどうとでもこじつけられるよこんなもの
62 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:15:47 ID:cm4c9LzF
彦左衛門が大久保忠左の遺領を継がなかったのは自分の意地ことばかり考えて
兄の遺臣たちのことを考えなかったとても迷惑な行為だと思うんだな。
65 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:49:20 ID:Dmh1lYdw
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

66 :人間七七四年2010/10/31(日) 22:59:29 ID:JniP8I/8
文句があるなら、一人でブツブツ言ってないで本多親子に直接言えw
67 :人間七七四年2010/10/31(日) 23:08:01 ID:bQAkofRB
一 被造人ハ人ヲ害スルコト勿レ、又、害サレルノヲ黙視スル勿レ
一 被造人ハ人ノ命ニ従ウ可シ、但シ前条ニ反シナイ場合ニ限ル
一 被造人ハ前条、前々条ニ反シナイ場合ニ限リ自己ヲ保全ス可シ
68 :人間七七四年2010/10/31(日) 23:08:19 ID:ugjAQWd7
>>66
面と向かうと、コブシどころか刀が出ちゃったりする関係なんじゃないですか?w
69 :人間七七四年2010/10/31(日) 23:15:50 ID:zXfrLgul
>>47
全然いい話じゃないだろ・・・

こういう負け惜しみみたいな事言う奴は終わってる
70 :人間七七四年2010/10/31(日) 23:37:06 ID:kAiTi26P
なんか漫画であったなぁ。
彦左が三河物語書いて幕閣批判しまくって、それに同じような境遇の旗本
が「ご老人の言う通りだ」と盛んに持ち上げるんだけど、彦左はそいつらをも
「おまえらだって口ばっかで幕閣に直接なんか言ったのかよ」と毛嫌いしていたんだが、
主人公から「お前だって口ばっかじゃないか」と指摘されショックを受けるというのが。
72 :人間七七四年2010/11/01(月) 18:35:20 ID:TDQPsGpw
言ってるのが彦左衛門じゃなきゃ、「なかなかの皮肉」と評価してもらえる場合もあるんだろうけどね。この内容は
73 :人間七七四年2010/11/01(月) 18:43:18 ID:R/S2XQGq
既出だったらゴメン

政宗「京人(みやこびと)も懲りないね」

昔、安倍貞任が乱を起こし、弟の阿部宗任が捕らえられた。
東国の田舎者と馬鹿にした公卿が梅の花を示し、これは何と言うかと尋ねたところ、よどみなく歌でこう答えた。

わが国の梅の花とは見つれども大宮人は如何いふらむ

このことは川柳に「ソリャハァ梅だんべいと言わせる気」などと取り上げられている。

天正年間に上洛した伊達政宗に公家が、桜花を手折って「一詠を」と言ったところ、即、

大宮人梅にも懲りず桜かな

と詠んだとか・・・・・・。

公家にとってはバツの悪い話。
東北人にとってはスカっとする話。

そういえば
「東北はクマソの産地、文化程度は極めて低い」とのたまったサン○リーのお偉いさんも昔いましたね。
74 :人間七七四年2010/11/01(月) 18:59:20 ID:R/S2XQGq
最上義光と荒連歌

古織様にもまーくんにも邪険にされている鮭様にも他人には譲れないものがあった。
それは「連歌」。五七五・七七・五七七を謳う雅である。
義光は「東国一の歌い手」と言われ、細川幽斎とも交流があったといわれる。

●面影の花をたびたびかえりみて/
   過ぎ行くあとの関ぞ霞める (義光/里村玄仲)
 
なつかしい人の面影をしのばせる桜の花を、幾度も振り返り見ると、あの人と別れ過ぎて来た関所の建物も、うっすらと霞んでいる。あの人も霞の中に立って、こちらを見送っているのだろうか。
(マイラブお義が伊達家に嫁いで悲しいです)

●花ゆへに馴れ初めけるも縁(えにし)あれや/
   変わらじとのみ契りつる仲 (義光/飛鳥井雅庸)

お互いに心変わりをしまいと固く契りあった二人の仲。美しく咲いた花がきっかけで愛しあうようになったのも、何か深い縁があったからだろう。
(兄妹は仲良しです。マイラブお義といえど、親父義守よりも好かれてるもんね。)

●暮るるまで帰さ忘るる花の下/
   そことも知らず鐘かすむなり (義光/光高〈姓未詳〉)

日が暮れるまで帰ることさえ忘れてしまう花の下。どこで鳴るのか、夕方の鐘の音もぼんやりと霞んで聞こえてくる。のどかな春の日暮れよ。
(マイラブお義の事を考えてると時間さえ経つのが早いです。)

●散るあとも尋ぬる花の山深み/
   帰りも絶えぬ鶯の声 (義光/里村唱叱)

里の桜が散った後も、もっと花を見たいと尋ね入った山深く、帰りの路でも鶯の声が絶えず聞こえていた。名残り惜しい花の季節もそろそろ終わりか。
(´・ω・`)「・・・」
光安「殿、帰りましょう」

●誰もただ花に心や浮かるらん/
   出(い)で入りしげき九重の春 (義光/里村景敏)

だれもが花に浮かれて、たくさんの人が行き交う。都はまさにらんまんの春。
(´・ω・`)「満延・・・」
光安「殿、帰りますよ」

元歌
http://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=71337

シスコンと日常生活が垣間見える良い連歌。
75 :人間七七四年2010/11/01(月) 19:21:55 ID:GWSBmuas
酒井正親という人がいる。松平清康の時代から松平家に仕え広忠、家康を支え、
家康が人質として駿府に送られた時は、ともに駿府に赴いた、家康初期の忠臣の一人である。

そんな酒井正親は桶狭間の後家康が三河を回復し独立を達成すると、当然のことながら
徳川家に置ける重臣の一人として大きな権勢を持った。

ところで徳川家中に神谷某という身分の低い侍があった。
この神谷は権勢を誇る重臣である正親に親しもうとせず、出会っても頭も下げず傲然としていた。
重臣に対して、無礼というべき態度である。
これを見た正親はすぐに家康の元に行き、神谷のことを告げた。曰く

「神谷という男は真に用いるべき者です。どうかその俸禄を倍にしてください。」

正親は再生した徳川家が、下の者達が権勢に諂うような家風になってはならぬと
このように薦めたのだ。

これは後年、家康が土井利勝に語ったことだそうである。

酒井正親、自分に媚びぬものを賞させる、というお話。
76 :人間七七四年2010/11/01(月) 19:26:57 ID:B60EEf9n
>>75
カッコイイなー
77 :人間七七四年2010/11/01(月) 19:39:48 ID:0DNKjVdU
>>73
既出。
あとクマソって九州じゃ。
78 :人間七七四年2010/11/01(月) 19:41:50 ID:pKcON8qI
>>77
サントリーの社長は蝦夷とクマソの区別も付かなかった。
関西人にすれば、どっちも辺境の野蛮人で同じなんだよ。
80 :人間七七四年2010/11/01(月) 19:43:44 ID:Pb6kL2qz
>>77
東北を馬鹿にしたサ○トリーが九州でも嫌われた理由がそこにある
81 :人間七七四年2010/11/01(月) 20:12:51 ID:0VE4LtCf
伊達厨、直江厨、最上厨を見てると東北は馬鹿にされてもしょうがなく思える
83 :人間七七四年2010/11/01(月) 21:24:22 ID:0DNKjVdU
>>78-80
おうなるほど、原文ママだったのかw
85 :人間七七四年2010/11/01(月) 21:50:47 ID:soExALX+
>>75
すげー!
新社会人の奴らもこれ真似して上司無視してみなよ!査定上がるよ^^
87 :人間七七四年2010/11/01(月) 22:18:44 ID:91+KYzM8
>>83
当時叫ばれてた東北遷都論でニッカのお膝元の仙台が有力候補だったから
シェアが落ちるのを危惧して発言したら九州まで敵に回しちゃったんだよね
88 :人間七七四年2010/11/01(月) 22:35:52 ID:AugUn7bk
音楽ホールや美術館に金を出す文化的な会社、ってウリにしてただけに
付け焼き刃の成金にしか見えなくなっちゃって痛々しかったなあ、あれ

まあ文化程度が地の底這ってるのは事実だと思うけど、公に言っちゃ
駄目だよねえ 未だに不買してる人がいたりするよ
89 :人間七七四年2010/11/01(月) 22:55:42 ID:O2JZDtIi
>>73
既出だけどせっかくなのでちょっと補足。
実はこの話の公家、この時二重にカウンターを食らっている。

前九年の役、衣川館の戦いで宗任の兄貞任を破った源義家、
敗走する貞任に向かって矢を番えながら逃げんなコラ、
「衣のたてはほころびにけり」と呼びかけた。

すると貞任は間髪いれず「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返し、
感心した義家は矢を下ろし追撃をやめたという。

それから五世紀後に、今度は奥州の伊達政宗の上の句に都の公家が
下の句を返せず恥かいた、という話。
90 :人間七七四年2010/11/01(月) 23:18:03 ID:NYBdVQdN
>>89
どう考えても戦国の話じゃないな。板違いだ!
92 :人間七七四年2010/11/01(月) 23:27:51 ID:uUAlkY95
>>90
補足やん
>>74
マイと「妹(まい)」が掛かってる
はなの米(まい)の里の鮭様の話って事で
94 :人間七七四年2010/11/02(火) 00:06:43 ID:DkIYNf35
四月二日
家康が幽斎のところへ碁打ちを見に来るのでお前も来ない?と樹斎から手紙がきた。
使者には「行く行く、って言っといて」と返事をして直接幽斎のとこに行ったら、家康はまだ来てなかった。
ちょっと待ってると来たので、挨拶をして、山科黄門と一緒に会場に向かった。
山科の地下人と樹斎の勝負は樹斎が二目で負けた。
途中で幽斎が太閤から呼ばれて出てったけどすぐ帰ってきた。その後あれこれ碁話したり雑談したり。
夕飯の相伴にあずかって家康を見送って帰った。

四月十八日
家康が幽斎と一緒にやってきた。碁打ちも各々やってきて、早朝から日暮れまで盛り上がった。
二百人くらい来たけど、昨日幽斎が差し入れしてくれた鶴と塩雁でもてなした。

五月二日
幽斎から「家康がまた遊びに行きたいなって言ってるんだけど大丈夫?」と手紙がきた。
オッケーと返事すると「振舞は俺がするからな」とのこと。

五月四日
巳刻に家康が到着。その前に幽斎・柳原は来てたので、早速お座敷に移動。碁打ち見物。
古田織部が持ってきた切麦と雁の吸物で昼食。夕食は予定通り幽斎の振舞。
日本紀やうちの家の家系図とか見たりして、終始楽しそうでした。よかった。

五月九日
家康が南禅寺に来るよって長老から幽斎に手紙があったらしい。お前も来ない?って誘われた。
そんじゃ、って手土産持って向かったら家康はなんかむちゃくちゃ機嫌よくて
碁話とか雑談とかで盛り上がった。暮れ頃に帰った。松井佐州のお内儀にご馳走になった。

五月十二日
柳原亜相の屋敷に家康が訪問していたらしい。
私は別件で用事があったけど早めにすませて急いで向かうと、
家康に山科もついてきてたようでみんな碁打ったりワイワイやってた。途中で幽斎も来た。
家康は暮れ頃に帰って行ったので、見送りついでに私も帰った。
幽斎は明日早朝に在所に帰るというので、見送りに行けないからここで暇乞いをした。


兼見卿記より、文禄三年四月から五月にかけてやたら家康・幽斎との碁会記録の目立つ日記意訳抜粋。
単純にこの頃この周辺で碁がブームだったのか、はたまた幽斎は三月に弟を亡くしているようなので
みんなでワイワイ騒いで幽斎をなぐさめるためだったのか・・・
よくわからないけどなんか楽しそうな話。
96 :人間七七四年2010/11/02(火) 01:18:38 ID:MUt707Cu
>>94
「今日はお前んちでモンハンしようぜー」
「じゃあ飯は俺が買ってくるわ」
「やべぇwこっち瞬殺されたwwお前のプレイ見せてよ。……ふーん、ランス使いなんだ。どう攻めるの?」
「気が散るww」

なんか楽しそう
98 :人間七七四年2010/11/02(火) 01:42:59 ID:/VykmNLy
>>94
しかし、幽斎はどこにでも顔だすよなぁ…

100 :人間七七四年2010/11/02(火) 02:15:30 ID:hSArfikF
>>75
既出かと思ったら神谷与七郎と酒井忠世で出てた。混同しているのか勘違いしていたのか。
101 :人間七七四年2010/11/02(火) 02:29:00 ID:YyLVmasL
>>94
天理図書館報ビブリアに載ってる兼見卿記が手元にあるなんて羨ましいです。
文中の山科黄門は山科言経ですよね?もしそうな文禄三年四月から五月の言経卿記と照らし合わせることが出来ますね。
102 :人間七七四年2010/11/02(火) 02:39:00 ID:Ki5ccacZ
>>101
国会図書館でコピって貰えるよ
ネット申し込みで郵送受け取りも可
103 :人間七七四年2010/11/02(火) 03:42:14 ID:DkIYNf35
>>101
たぶんそう<山科言経
ビブリアは普通に県立図書館にあったんでまとめてコピってきた
探してみると意外にあるかもよ

ただビブリアの兼見卿記は原本の天理大所蔵品が中途半端な巻数のせいで
関ヶ原前は文禄二年〜慶長二年まで、あとは結構年代が飛んで関ヶ原時期すっとんでたり
重要な時期が追えなかったりするのが難点・・・
104 :人間七七四年2010/11/02(火) 09:27:50 ID:N+2hyf0z
幽斎さん、適度な距離感をどこととでもだれとでも保ってるのがいいかと・・・
三斎さんみたく自分の感情をはっきりと顕にしなところもね〜

でも、愛されるのはパーフェクト超人に近いけどそれをぶち壊すくらい人間味溢れる三斎さんだと思うw
105 :人間七七四年2010/11/02(火) 12:27:27 ID:YyLVmasL
>>102>>103
教えていただきありがとうございます。
さっそく地元の県立図書館の蔵書検索したらビブリアありました。
106 :get12010/11/02(火) 21:12:30 ID:KhvIVSb/
ラスボス秀吉の話(確か中島らものエッセイに載ってた)
昔ある茶坊主の入れる御茶があまりにも美味しかったため
屏風に穴をあけ のぞくとそこには指を入れて味見している茶坊主の姿が
お茶を秀吉に運んでくるときに秀吉がひとこと
「この世で一番悪いことはなにかわかるか」
茶坊主は「それはのぞきでしょう」
茶坊主の見事なきてんに 褒美をとらせたという
107 :人間七七四年2010/11/02(火) 21:17:47 ID:lXKxkFfC
ラスボスはラスボスになっても常時ラスボスじゃないっつーか
本当楽しそうな時はき合ってても楽しそうなんだよな…
109 :人間七七四年2010/11/02(火) 21:29:39 ID:o6SqjEFj
落語「太閤と曽呂利」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2974.html
既出といえば既出・・・動画だけど
110 :人間七七四年2010/11/03(水) 00:03:26 ID:ULQ1rfC6

ラスボスの関東仕置きの結果、北条氏は改易。その後の関東には徳川家康が新しい
領主として東海から移動するコトとなった。

新領主である家康は、領地の巡検も兼ねた鷹狩を好んで行っていたが、ある時、狩
場の近くに「太平山龍淵寺」と号する寺院があると聞き、そこに立ち寄るコトにし
た。

「太平山という山号が縁起が良い」という理由での気まぐれだと言うが、この龍淵
寺は関東仕置きで唯一つ、最後まで落城しなかった忍城の城主、成田氏の菩提寺で
ある。成田氏の旧領を視察しておきたい、というのが家康の本音であったのだろう。

一説には最盛期には三十万石を領したとも言われる成田氏の菩提寺であり、その庇
護を受けていた為、かつては非常に栄えた寺院だったのだが、庇護者である成田氏
が武蔵国から去った後は威勢は衰え、龍淵寺は困窮に苦しんでいるのが現状であっ
た。

そんな龍淵寺を訪れた家康は住職である呑雪と対面する。
が、この呑雪という僧侶、何やら見覚えがある。確かに以前、どこかで顔を合わせ
ているハズだ。

「もしかして種松? お主、種松ではないのか!?」

記憶を掘り返して思い至った顔は、家康が未だ今川家の人質として駿河に居た時代
のモノだった。
駿河のある寺院で家康と共に、読み書きを習っていた少年、種松だったのだ。

「コレは奇なる縁もあったものだ!」
再会を喜んだ家康は、窮状に晒されているのが旧友であるコトを知り、龍淵寺に莫
大な寄進を与えようと申し出る。
しかし種松=呑雪は、
「出家に財産など無用。謀反人として処罰された方の菩提寺を手厚く保護されたの
では、徳川様にも迷惑がかかるでしょう」
と言って、申し出を断る。

寄進を「あげる」「いらない」という押問答の末、
「喰うモノにも困るようでは、修行や勉学にも支障が出るだろう、最低限の寄進く
らいは受け取ってくれ」
と、百石の土地を龍淵寺に漸く受け取らせたのは、翌年になってからのコトだった。


寺に百石って、かなり多いよね。つか、桁が違うよね。
この時に限って妙に気前の良かった権現様のいい話。
116 :人間七七四年2010/11/03(水) 00:58:53 ID:vW9IVxPb
子供のころに意地悪してなくてよかったね、意地悪したひとが酷い目にあった逸話をまえにここでみたような
117 :人間七七四年2010/11/03(水) 01:00:02 ID:cRndASbc
孕石元泰「まったく、いったいどこの誰のことだか」
118 :人間七七四年2010/11/03(水) 01:08:28 ID:WxQoIEmi
三河者と間違えるくらい面倒くさい坊主だなw
だからこそ家康と友人づき合いできたのかもしれんが。
119 :人間七七四年2010/11/03(水) 01:41:46 ID:xLNVDAPd
>>116
あれもずっと意地悪し続けてたからだったような
120 :人間七七四年2010/11/03(水) 02:40:20 ID:a9tmm2Se
>>117
そんな孕石さんの最期の姿を褒める彦佐さんカッコ良いっす
121 :人間七七四年2010/11/03(水) 07:47:51 ID:WB2GRtFM
仙北一揆の後始末に上杉家臣が走り回っていた頃のお話

上杉家臣の色部長実が一揆の処理の為にある山中に入った

で、 迷 っ た

不慣れな山中
一揆の事後処理であればこそ残党の存在も危惧された
困った色部長実の前に不意に雉が現れた
彼はこの雉に導かれて無事に人里にたどり着く事が出来たという
この事により色部家では雉は大切に扱われるようになった
後に色部家が領した米沢市窪田では食べるのを禁じる旧家がある

ちなみに雉は法に明記された現在の日本国の国鳥であるが…
国鳥を狩猟対象にして食っているのは日本位である
フランスも鶏を国鳥としているが法制化されてなかったりする
122 :人間七七四年2010/11/03(水) 14:51:55 ID:ULQ1rfC6

三河の地で徳川家康の父、松平広忠が、織田信長の父、織田信秀の侵略を受けてい
た頃の話。
後世「三河武士団の鉄の結束」みたいなコトを言われるが、実は度々三河武士団は
分裂し、他国に通じて内乱に明け暮れるコトも多かった。
この時も松平家一門の松平忠倫他、多くの武士が織田家に寝返り、今川家の救援を
仰いだ広忠と対立していた。

織田勢とそれに味方する三河勢に押され、岡崎城は既に孤立した状態。
しかし今川家の救援はまだ来ない。手も足も出ない広忠はなりふり構わない策を取
る。

「……松平忠倫を斬れ」

広忠は筧重忠を呼び出し、百貫の知行と引き換えに、三河における織田方の中心人
物、松平忠倫の暗殺を命じた。

重忠は、弟の筧正重と共に忠倫の居城、上和田砦に忍び込み、就寝中の忠倫を見事、
暗殺してのける。

しかし、余程緊張していたのか、そして主命を果たしたコトで気が抜けてしまった
のか、重忠は腰が抜けたように崩れ落ち、一歩も歩けなくなってしまう。
正重は慌てて兄の元に駆け寄ると、兄の腕を取り、こう言った。

「百貫の内、いくら出す? ケチなコト言ったらココに置いてくぞ?」

脅迫である。
しかし重忠はその言葉を聞いて、

「おまえ、人をゆするの、上手いなぁ」

と笑いながら、その度胸を褒め称えた。
重忠は弟に背負われ、無事に上和田砦を抜け出し、百貫の知行を貰ったという。


いや、そこ、感心するトコですか、兄ちゃん!?
まぁ、本人が褒めてんだから、いい話なんでしょう。
やはり思考回路が一般人とは一味違う三河武士兄弟のお話でした。
123 :人間七七四年2010/11/03(水) 15:19:34 ID:nP9pUT1O
見捨てて自分の手柄にするような弟じゃなくてヨカッタね!お兄ちゃん!
124 :人間七七四年2010/11/03(水) 16:17:20 ID:YYLqJ/Q6
兄は家督と所領を継げるけど、弟は独立のための領地が欲しい
こんなところだな
125 :人間七七四年2010/11/03(水) 18:17:54 ID:qBIMlKWz
腰抜けてるわりに兄貴の方も結構余裕だな
127 :人間七七四年2010/11/03(水) 18:22:19 ID:kI4Y1R10
弟を信頼してるというのもあるんだろうな
身内を信頼できるというのは戦国時代では珍しいね
128 :人間七七四年2010/11/03(水) 18:33:20 ID:1zdyFUTe
大塩金右衛門の男の気配り

元亀元年四月二十日、朝倉義景征伐のために羽柴秀吉配下として山内一豊も従軍していた。
金ヶ崎の戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、
槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。
しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを
友人で味方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、
「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。

大塩「手伝っただけだもん」
129 :人間七七四年2010/11/03(水) 18:40:19 ID:0p3M5rUG
>>125
むしろ生々しい話をされて正気に戻ったんじゃないかと思う
130 :人間七七四年2010/11/03(水) 23:16:33 ID:wIpRkGQF
>>122
筧正重って三河一向一揆に加わって平岩親吉を討ち取りかけた人だっけ?
131 :人間七七四年2010/11/04(木) 00:15:53 ID:JTgYhWaZ
>>130
その通り。筧正重は旗奉行に抜擢↓されたりもしている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2258.html
132 :人間七七四年2010/11/04(木) 01:51:53 ID:xPjEUdgK
>>130
一向一揆の時は兄が徳川、弟が一揆に分かれて戦ったみたいね。
135 :人間七七四年2010/11/04(木) 09:14:59 ID:CRjOOLvA
グチャグチャじゃない一向一揆なんて存在しません。
越前一向一揆なんて何がなんだか分からんよ。
136 :人間七七四年2010/11/04(木) 10:29:52 ID:4RedspJJ
>>135
伊勢の一向一揆討伐に奮戦したのに恩賞がなかったから
地元越前の一揆衆を守護代と織田の代官にけしかけてやったぜェーヒャッハァアー!!!
137 :人間七七四年2010/11/04(木) 13:56:18 ID:f06Fzv3T
>>132
本家対分家の構図が多いんじゃなかったっけ?
138 :人間七七四年2010/11/04(木) 21:15:44 ID:JZGU5ubO
江戸時代に、四国の老父に語り伝えられていた話だそうだ。

三好長慶の母は長慶を孕んだ時大願を起こし、七夜の月を待ち誓いをなして曰く

『我が孕むところの子、男子ならば三好七代天下を持たせ給え!
女子ならば皇后の位に立たせ給え!』

として、領地である三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れ頭から被り月の出のを
待っていた。
七夜の月が満ちる頃、祈りの験があり宿所に帰った。

やがて月満ちて長慶を産み、成長してついに天下を掌にした。
辺鄙なる阿波より出て天下を制するのは容易なことではなく、
これも母堂の立願があったおかげであろう、と言う。

また別の者の言うところでは、母堂がこの祈願をしたのは、夫である三好元長の
討死を聞いたとき、憤ってそうしたのだ、とも伝わる。


三好長慶生前の立願、と言うお話。
141 :人間七七四年2010/11/04(木) 23:27:17 ID:KUjAs5+c
小林吉隆「>>136あいわかった!そこを動くなよ!」
142 :人間七七四年2010/11/05(金) 01:51:39 ID:3ovTydvr

織田信長が未だ尾張一国を統一したばかりのコト。
織田家中に中村藤吉郎と言う者がいた。

ある時、福富平左衛門の金龍の笄が盗まれるという事件が起こる。
周囲の者は皆、貧乏な藤吉郎を犯人と疑っていたのだが、それに反発した藤吉郎、
真犯人を自らの手で捕まえてしまう。

盗みの容疑者から一転、犯人逮捕の手柄を立てた藤吉郎の名は信長の耳にも入り、
彼の船越英一郎張りの活躍を面白がった信長は、藤吉郎の属する足軽組頭に命じ、
組頭の名字を藤吉郎に与えた上で三十貫の所領を与え、信長直臣とした。


後に美濃攻略を進める際、尾張から木曾川を越え、織田軍は美濃領内の村木という
地に砦を築いた。
しかし、この砦にはそれほど多くの人数を裂けない上、尾張から駆けつけるには大
河を越える必要があり、救援に時間がかかる。その為、守将を引き受ける者が誰も
居なかった。

そこで信長は「死なせても惜しくない者」として藤吉郎を抜擢。浪人三百を召抱え
て藤吉郎と共に村木砦に派遣した。

藤吉郎は美濃勢が攻め寄せても決して砦から出ず、ひたすら時間稼ぎをして援軍を
待つという戦術に徹した。
どのような挑発にも乗らず、攻め手が退くと近くの村を襲い、男女問わず数十人を
捕虜として砦に連れ帰り、下人として召し使う。
それを見て美濃勢が押し寄せるとまた、時間稼ぎに徹する。退却すると近くの村を
襲う。
そんなコトを繰り返す内、周辺の村々は村木砦に降服し、藤吉郎に従うから村人を
返してくれ、と詫びを入れるようになった。

大小合わせて五十余りの村が織田領となり、信長はその村を藤吉郎にそっくりその
まま与えたという。


名字も持たぬ卑賎の生まれであった為、生まれた村の名前を取って中村藤吉郎と名
乗っていたこの青年。
盗人を捕まえた当時の足軽組頭の名を木下雅楽助と言った。
信長の命により、彼の名字を譲り受けた籐吉郎は、その後『木下籐吉郎』を名乗り、
天下人への道を驀進してゆくコトになる。

ちなみに村木砦に籠もった三百人の浪人の内、篭城戦に功を立てて五百貫の所領を
得た者として蜂須賀小六の名前も残っている。


悪いスレで『明智軍記』から一つ投稿したので、こちらでも一つ。
正直「いい話か?」と問われると首をかしげてしまいますが。w
143 :人間七七四年2010/11/05(金) 01:53:47 ID:w96kLkuQ
ビデオ流出記念に海賊や海戦の話を所望
さもなくば遊女の話でも
144 :人間七七四年2010/11/05(金) 03:20:57 ID:xGiJ4dGB
>>143
安東さんでも出れば面白いな

まーくんの遺訓

仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂(へつらい)となる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする

過保護イクナイ
真面目は融通が利かない
丁寧過ぎるのは厭味
頭がいいと嘘をつく
人を信じると馬鹿を見る

(●Д゚)「いいかぽまえら、何事も程ほどにな」

サムライトルーパーを思い出した。
145 :人間七七四年2010/11/05(金) 03:28:11 ID:nbTfxTl5
>>144
三番目は微妙に違う。
厭味に見えるんじゃなくて、
「礼を尽くしすぎると媚びているかのように見られる」
ってこと。
146 :人間七七四年2010/11/05(金) 03:32:35 ID:xGiJ4dGB
今の政治家は

知能指数は高いらしいが
記憶障害で物覚えも悪い。
脳みそが腐っているんだろうか?

自己レスながら

ミンス党の場合

身内や自分に必要以上に甘い
何事にも融通が利かない
言葉は丁寧だけど厭味
小賢しく平気で大嘘をつく
こいつらを信じた国民が馬鹿を見ている
150 :人間七七四年2010/11/05(金) 05:12:10 ID:kI8mVHfJ
相当どうでも良い話なんだが、人物の行動を現在形で書かれるとちょっと気になる
151 :人間七七四年2010/11/05(金) 07:57:22 ID:UC3oJoBR
鬼武蔵「出番か?」
153 :人間七七四年2010/11/05(金) 13:07:55 ID:VVy/2V3J
>>141
いずれにせよ、いい話スレ向きではございませぬな。 >135-136
154 :人間七七四年2010/11/05(金) 18:08:20 ID:fhb7WSvO
>>144
敵がいないと戦話って残らんからなぁ。安東水軍、逸話って殆どない
陸戦ならそれなりに残っちゃいるけど
南部さん家の北さんの軍勢に、家臣の嘉成の一隊が特攻して、馬が返り血で真っ赤になって帰ってきたとか
155 :人間七七四年2010/11/05(金) 18:17:25 ID:eYDRCVR5
>>143
海賊と言えばインパクト強いのが奈佐日本助。
主に名前が・・・・・・
それに日本海側で知名度のある水軍ってこの人くらいだし。

で、以前この人について面白い説を読んだんだが、
但馬には応仁の乱から彼の出現まで、全く活躍の形跡が無い。というか記録が無い。
だからこの人(一族)は水軍と言っても、ルソンとか、
そういう地域との交易が主な生業だったのではないか、と。
だから外国人に対抗して「日本助」なんて名乗ったんじゃあないか、というものだった。
もしそうだったら、決して名前負けはしてないことになるなぁ・・・・・・
156 :人間七七四年2010/11/05(金) 18:18:40 ID:sRvqs+Oc
お風呂に入ろう!

戦国時代、風呂は今でいうサウナであったという。
そして京などには、風呂屋の存在なども確認されるものの、一般の家屋に置いては、
たとえ上流階級であっても必ず置かれる、という設備ではなかった。
そんな中風呂を焚くということは、人々を招いて行う寄り合いの場を設けることであり、
ちょっとしたベントでもあった。

その様子を、摂関家筆頭であり、当時太政大臣であった近衛尚通の日記
『後法興院生記』永正17年(1520)閏6月9日条より見てみよう


『細川尹賢(細川典厩家当主、摂津国分郡守護)が我が家の風呂を借りて焚いた。
これに京兆(細川高国)や細川高基(和泉半国守護)が入った。

その後食事など出し、細川家の面々は近衛尚通と対面し雑談、酒が出て盃を交わしていた所に
宝鏡寺、正受寺、継考院、久我女中(久我通言妻)、久我親子(久我通言・邦通)、
大徳寺女中(徳大寺実淳妻)、北政所(近衛尚通妻)、亜相(近衛稙家)なども現れ
相伴した。』


公家の当主だけではなく妻たちも集まり、賑やかな様子がよく見て取れるだろう。
この頃の風呂は上流階級の人々の社交上であったことがよくわかる記録である。、
やがて江戸期になるとこの感覚が、庶民にまで共有され、風呂屋が都市の多くの人々の
社交の場になったということであろうか。

そんな、戦国時代のお風呂のおはなし。
157 :人間七七四年2010/11/05(金) 19:22:53 ID:YucBpEBp
2ちゃんねるの中でもこのスレだけは誤字があるとみっともないよね
158 :人間七七四年2010/11/05(金) 19:54:51 ID:xUivEGpc
そんなことないでござるよ
でも自分で逸話書き込んだ後に誤字見つけるとしょんぼりするのは確か
159 :人間七七四年2010/11/05(金) 19:57:33 ID:YPUDXr1Y
ラスボス「醍醐の文字がわからないじゃと?ほれ
「大五」
読めれば別にいいじゃろ」
160 :人間七七四年2010/11/05(金) 20:25:47 ID:kI8mVHfJ
戦国時代は漢字に関してかなりルーズだよね
名前も同じ読みなら平気で違う字使うし
163 :人間七七四年2010/11/05(金) 21:53:47 ID:q6KnRMGa
サウナで思い出したけどまとめサイトに慶次の竹光の話のってないのね。
誰か文才ある人よろしく。
164 :人間七七四年2010/11/05(金) 21:59:44 ID:BnolOS9G
温泉はあるところにはあるけど今と違って移動が果てしなく大変だからな
あとサウナといってもミストサウナが主流だったって聞いたような覚えがある
165 :人間七七四年2010/11/05(金) 22:00:48 ID:IvAz7A42
京にあるその風呂屋の横には、汗をかき過ぎた客が使えるように、いつも竿に湯帷子や真新しい下帯がかかっていた。

風呂焚きとして二人、垢掻きとして別に二、三人の下男を雇っており、その他に上がり口に屈強な男を一人置き、
他の下男は脱衣所には入れないようにしていた。そのため客は安心して裸になり、衣服・荷物を預けて風呂を楽しんだ。

この風呂屋の主人・睡庵老人の所には毎日のように訪ねて来る者があったので、老人は毎日決まった時間に、訪問客
のみならず、客の使用人にも食事を振舞った。訪問客は、おかげでゆっくりと心行くまで老人との会話に興じた。

また老人は、自分はコタツが嫌いだったが、「顔を突き合せねば、話も弾まぬ。」として、炭の火をごく弱くして
置ゴタツを作らせ、来客同士が遠慮せず近寄って会話できるようにしたという。


備前老人物語に、「今時かく客あしらいする人まれなるべし」とまで書かれた、睡庵こと渡辺勘兵衛の風呂屋の話。
百戦錬磨のご隠居が一緒のコタツに当たらせてくれて、面白い話してくれる銭湯・・・ちょっと行ってみたいかも。
166 :人間七七四年2010/11/05(金) 22:56:57 ID:kayMokpJ
167 :人間七七四年2010/11/05(金) 23:04:00 ID:q6KnRMGa
>>163
それだ
ごめん、見落として増田長盛
169 :人間七七四年2010/11/05(金) 23:07:01 ID:DUyTMZ3L
>>160
草書体や行書体だからかなと思ったり思わなかったり
170 :人間七七四年2010/11/05(金) 23:13:52 ID:kayMokpJ
>>160
十河存保を「政泰」の当て字使ってくれたおかげで「まさやす」ってよめた。
どっかに明石さんの当て字書いた古文書ないかな・・・
171 :人間七七四年2010/11/05(金) 23:43:38 ID:iU7q1OIr
>>165
行ってみてえし、入ってみてえ
昔の生活って、今からやると大変だろうけど、でもなんか憧れちまう
172 :人間七七四年2010/11/06(土) 00:07:12 ID:Wr9ORYFs

徳川家光の弟、忠長の側近に、池田三郎左衛門貞長という男が居た。
貞長は忠長に大変重用されていたのだが、それを妬んだ者の讒言により、藩を追放
という処分を下されてしまう。

駿河を追われた貞長は、武蔵国岡村(埼玉県深谷市)に蟄居し、私財を投じて荒れ
た神社仏閣を改築するなどして、現地の人々に慕われていたと言う。

やがて忠長は家光との確執や、自身の問題行動などによって改易・切腹とされてし
まう。

切腹に当たり、忠長は自らが追放した貞長を思い出し、
「貞長を追放したのは間違いだった。今更謝っても許してはもらえぬだろうが、も
し許してもらえるなら、自分の菩提を貞長に弔って欲しい」
と言い残し、命を絶つ。

この遺言を聞いた貞長は、これを最後の主命として岡村に全昌寺という寺院を建立
し、荒れ果てていた岡上神社に新しい社殿を奉納する。

これらの寺社の落成を見届けた貞長は一人、真新しい社殿の前で、主君の後を追っ
て切腹して果てたと伝わっている。


あまり評判の良くない駿河大納言。
そんな彼にも殉死してくれる忠臣がいたんだね。

貞長が切腹した岡上神社は現在、周辺の神社を合祀し、岡廼宮神社と改称して存続
しています。
173 :人間七七四年2010/11/06(土) 05:59:48 ID:dPgHWx2/
>>170
昔なんかの史料で「てるレ登」って書いてるのがあったんで
「レ登」→「澄」だと思ってた。
これって「明石てる澄(ずみ)」だよね。
174 :人間七七四年2010/11/06(土) 07:52:46 ID:JXdQMnCt
>>164
中国地方のあっちこっちに岩風呂ってのがある。
洞窟の中ででかい焚き火をして鎮火したら、水をまいてその上にゴザを引いて、みんなで着衣のままで洞窟に入る。
数百年前から伝わってるんだが、途絶えてしまって、最近地域で復活させたのとかもある。
175 :人間七七四年2010/11/06(土) 11:24:52 ID:ds0xpDG1
>>174
それ、酸欠になりそうなんだが、大丈夫なのか?
176 :人間七七四年2010/11/06(土) 21:05:08 ID:KZzJZvcw
>>175
そんな深い穴じゃないよ。
せいぜい10人ぐらい入るといっぱいになる規模

これはちょっと大規模かつ建築物を使ってる例
http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/genmain.asp?mid=50004&cdrom=
177 :人間七七四年2010/11/06(土) 21:25:50 ID:zfS8oD4y
>174
小説の「一夢庵風流記」での蒸し風呂エピソードがそのタイプだね。
洞窟の代わりに巨大なかまどを作って中で火を焚く方式。
八瀬の釜風呂の法、とか言ってたっけか。
178 :人間七七四年2010/11/07(日) 01:08:18 ID:y6eRf6/W
成田顕忠と清善寺の開山の話 inのぼうの城

成田顕忠の父・五郎左衛門資員は顔を見ぬ内に死んでしまい
兄・顕泰も幼くもあり従臣達に助けられていた。

顕忠は幼い頃から聡明な子であり兄の顕泰を父のように敬い、顕泰も弟の顕忠を深く愛していた
それから顕忠は任官して刑部大輔となり、器量もあることから
あるときは陣代として出陣し、あるときは城代として守備を固め、度重なる戦功もあった。

顕泰の死去後、嫡男・親泰が相続する。この親泰も顕忠を父の如く重んじていた。

顕忠は忍城の南方に館(出城)を構えていた。
深田を埋め立てた所なので平田廓ともいわれ、家中の者は「平田殿」と尊敬していた。

この顕忠は深く佛法に帰依し、不犯で肉食は一切しなく、女は一人も使わなかった。
全くの禁欲生活である。
そのため世間では平田精舎とも言われていた。

63歳の時に身に墨染の衣を着て、清善斎全忠と号し、毎日の読経を欠かさなかった。

清善斎もだんだん年を取って90歳に近い時、最早余生がないとして
城主親泰を始めとし、家内の者と老臣を招いてこう告げた。
179 :人間七七四年2010/11/07(日) 01:09:31 ID:y6eRf6/W
「吾れは胎内にあって父に別れ、又二歳で母に別れた。
だから孝というはただ名だけで一度も教養を捧げた事が無い。
せめて出家得度して父母の菩提を弔らんと思ったが、亡き兄顕泰の深き情にほだされて
俗人として世を送った。
その故は大将の先陣に臨むや、城の守固くなければ敵の謀者にかかる事もあるし
又、外に在って内が心配な様では鉾先が鈍るものである。
さて又、戦争の習いとして大将に不意の禍あるとか、幼主をいただくとかの場合、
不肖と雖(いえども)も主を補け来らせんと心に誓った為である。

現今當城主親泰は健将であり、まことに倖せである。
この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗したが、心は法身に化して女犯肉食を禁或した。
然れども戦場では若干の人を亡した。
行いと言葉と相違する所はあるが、獨身だから後の子孫の上を思わず。

しかし、その家に生まれ、禄の食めば武士として主といい、兄といい志孝の道を
守なければならぬ。
在俗しては忠孝の二道を全うし、出家しては佛に仕えた。
一生の恩は足りた。
吾が死後の望にはこの館を寺と為(な)し、
年頃念じ奉る薬師如来を本尊とさるるなければ幸いこれに過ぐるものはない。」
180 :人間七七四年2010/11/07(日) 01:14:00 ID:y6eRf6/W
と、一座の面々皆感涙を流したのであった。

永正十六年五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るように命を経った。
下総守親泰は大いに哀惜し、遺言通りに新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。

一様wikiでは顕忠の方が兄でらしく父・資員も詳細不明で正等と同一人物とか何とか
181 :人間七七四年2010/11/07(日) 01:15:34 ID:poSPerfX

甲斐国武田家に川窪信実という武士がいた。
武田信玄の弟に当たる人物で、昇仙峡の更に奥、川窪の地を治めて領地を名字とし
た。
後に甲斐と武蔵の国境地帯を領していた兄・松尾信是が早世すると、その遺領を引
き継いだと言い、山の多い甲斐国の中でも、とりわけ山奥に領地を持っていたよう
である。

ある時、この川窪信実の元に篠瀬某という男が転がり込んでくる。
実はこの男は徳川家の家臣であり、家康の主命に逆らったとして徳川家を出奔、対
立していた武田家に逃げ込んだのである。

後に家康に許され、徳川家に帰参する事になった篠瀬に対し、信実は鷹を二羽与え、
家康への献上品とさせた。
この心遣いに家康は大いに感じ入り、信実を褒め称えたと言う。


時は流れて本能寺の変の後、家康が甲斐国に侵攻する。
家康は篠瀬を呼び出し、
「川窪信実殿が、先年の長篠合戦で討死にされた事は知っている。大変残念に思う
が、信実殿は御子息をお持ちではなかったか?もし居られる様なら是非、召抱えた
いのだが……」
篠瀬の仲介によって召し出された信実の息子、川窪信俊は家康に仕え、信州平定、
小牧長久手、小田原仕置きと抜群の戦功を立て、伏見城の番頭にまで抜擢されてい
る。

父・信実を亡くした時、まだ年少だった信俊は、伯父・信玄の未亡人に養われたと
伝えられ、武蔵国金窪(埼玉県上里町)に転封された際に養母を伴って国入りした
と言う。

その地で死した養母は、金窪の陽雲寺に葬られ、信玄との夫婦画像とされる肖像画
も現在まで伝わっている。
養母は秀姫と言う名で、陽雲寺では正室・三条夫人の事だと伝承されているらしい
が、死亡年代等、史実と食い違う箇所が非常に多く、「秀姫は信玄の側室の一人」
とか、「秀姫は架空の人物」とか、様々な説が取りざたされているらしい。


信玄自身が目立ち過ぎてるせいで、あまり語られる事のない、弟さん&甥っ子のい
い話。
っつか、カワクボさんをカナクボに転封って、権現様、洒落で知行地を決めてない
か?www
182 :人間七七四年2010/11/07(日) 01:37:15 ID:poSPerfX
>>178-180
成田顕泰は惣社長尾氏からの養子。
父・資員が戦に負けて、家督を養子に譲り渡す事を条件に和睦した。

と、いう事を踏まえて逸話を読むと、資員の実子である顕忠の微妙な
立ち位置が非常に不憫に思える。
そりゃ下手に子供なんか作って「成田の嫡流はこっちだ!」なんてな
っても困るよね。

『成田記』辺りでは顕忠の存在はおろか、資員が戦に負けた事も、顕
泰が養子である事も、華麗にスルーされているんだよねぇ。
そこら辺を加味して考えると、むしろ悪い話になっちゃうのかも。w

183 :人間七七四年2010/11/07(日) 15:12:49 ID:T8W3tYLr
葉隠から家康公の話

山本常朝曰く
あるとき、家康公が戦いに敗れたのだがその直後から、

「徳川殿は大勇気の大将である。それはなぜかと言えば、
討ち死にした三河武士の中に後ろを向いて死んだ者が一人たりともいなかった。
皆が敵陣の方を枕にして倒れていたとのことだ」

という話が伝わったと私も聞いている。
武士は日ごろの心がけが死後にまであらわれるものだから、
その心がけを失えば恥ずかしいことになる。
185 :人間七七四年2010/11/07(日) 18:36:06 ID:qvUwjqt+
>>181
 家康の武田オタクっぷりは、バネェな。
 これじゃ武田武士団が、三河武士団並みの忠義の士にになるのも無理ないわな。
 あの大久保彦左衛門が甲州筋目って目の敵にした理由がわかるわ。
186 :人間七七四年2010/11/07(日) 19:05:38 ID:8J9QlSvJ
尖閣諸島中国不審船映像流出問題

中国「おいポチ 情報管理しろ うちに都合が良いようにしろ」

ポチ前原「OKボス 逆らった奴を探し出して、吊るし上げてやりますぜ」

ttp://adenhonpo.cocolog-nifty.com/blog/
187 :人間七七四年2010/11/07(日) 19:11:07 ID:9biOa6nB
真田幸村公14世・仙台真田氏現当主の真田徹氏と、
仙台真田氏研究の第一人者で「仙台真田代々記」著者の小西幸雄氏による歴史対談が
近所で行われたので行ってきました。
真田氏のおこりから幕末あたりまでを二時間ほどで解説していただいたのですが、
真田徹氏が今回、先祖伝来の品を持参されて5時間ほど公開されました。
良くも悪くもない話ですが、その品々から面白かった逸話を。ガイシュツだったらすいません。


真田信繁が大阪夏の陣の時、家康に特攻して寸前まで追いつめた逸話は有名だと思うが、
その時に信繁が持っていたという采配が仙台真田家に伝わっている。
「真田幸村公死持の采配」と呼ばれるそれは、
細身の棒に和紙のふさをつけた采配で、持ち手は銀に唐草模様。
先端が平らになっており、そこに六文銭が刻まれている。
http://sengokudama.jugem.jp/?day=20100130
写真撮影禁止だったので画像のあるリンクを。

さてこの采配についての真田氏のお話。
「時が流れて、日本が開国すると、コレラが流行りまして、
これが仙台まで流行ってきた。
その時に仙台真田の者達が、神の如く強かったという幸村公にあやかろうと、
采配を千切って煎じて飲んだのだそうです。
千切った跡もありますよ。だから昔はもっとふさふさしてたはずです、
今細くなっちゃっていますが」

その他、家康襲撃を計画した幸村が着たと伝わる鎧の前立ても
急遽持参されて拝見。(鎧は写真のみ)
鹿の角を合わせた形で木製、金箔。意外と小さい。(両手のひらに乗るくらい)
そして鎧自体は黒くて地味。
真田幸村といえば赤い鎧が有名ではないか、との質問に、
「赤い鎧とか大きな前立ては映画などでかっこよかったので広まったのでしょうね。
そしてこの前立てはすぐに取れるようになっています。
戦ってる最中に大きな前立ては邪魔ですから。
家康や政宗みたいに後ろで座ってればいい人は違いますが、
中間的な立場の人は違うんですね」


他にもいろいろ話を聞いたのですが、2時間あっという間で興味深かった。
お父上の入っていた真田系の集まりに名代で参加したら、その集まりでは
「本当は幸村が夏の陣で家康を討ち取っており、
その後の家康は影武者で、一年たって用もなくなったので鯛の天ぷらで毒殺した」
って話が正しいことになってるってエピソードが個人的にツボでした。
191 :人間七七四年2010/11/08(月) 11:36:51 ID:ecZu5i1B
>>187
14世って表現おかしくね?
193 :人間七七四年2010/11/08(月) 12:41:11 ID:FY0qh4Ex
「何代目」って表現で「○○世」ってのは使わないか?
寺の住職なんかはそーゆー表現をするね。
普通の家の家督でも同じ表現を使うかは判らないが。
195 :人間七七四年2010/11/08(月) 14:07:48 ID:Y+D1oDAs
真田は語らずの本家だからなぁ
現当主の幸俊氏も上田真田祭りでお会いした際に「私より貴方の方がご存じですね」とか普通に言っちゃうし
直系でないのが負い目なのかねぇ

ちなみに幸俊氏の紹介は14世16代当主
系図上、家祖から14世代下の16番目の当主という意味
徹氏も同様の解釈で良いかと
198 :人間七七四年2010/11/08(月) 15:19:50 ID:3PigNtQo
幸村のほうが通りがいいからそっち使うんじゃね?


松代藩でも使っちゃったし…
199 :人間七七四年2010/11/08(月) 16:45:06 ID:FY0qh4Ex
『葉隠』の中で信繁の事を幸村って書いてある一節を見かけた。
もうその時代には一般には幸村だったんだね。
200 :人間七七四年2010/11/08(月) 19:03:46 ID:+IA0ruhl
幸村は、明らかに幕府をはばかっての俗称だと思うよ。
信繁じゃ、兄貴の信之との繋がりがはっきり分かるから、大権現様の御本陣を
突き崩した日本一の兵(でも反逆者)が、真田の通字の信を名乗っちゃ拙いって
配慮で幸村にされ、講談で世間に名前を広められていったんじゃないのかな?


vip_2ch_news at 11:02│Comments(0)TrackBack(0) 戦国時代 

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